ドイツ連邦共和国:
ドイツ語での正式名称は、Bundesrepublik Deutschland (ブンデスレプブリーク・ドイチュラント)

Deutschの原義は「民衆、大衆」という意味で、フランク王国時代にラテン語系の言語ではなく、ゲルマン語系の語を用いるゲルマン人系一般大衆をこう呼んだことに由来する。 

…らしい。wiki先生から。


〜 ドイツ統一から再統一まで 〜


現在のドイツは、16の州があり、このうち首都ベルリン自由ハンザ都市ハンブルクブレーメン(ブレーメンとブレーマーハーフェンの2都市で構成)の3州は都市州である。


ドイツ
プロイセン
世界
 
1870年7月19日〜1871年5月10日
普仏戦争

第二帝政期のフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争。
ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ。
   
1871年1月18日 ドイツ帝国 建国 (ドイツ統一)
プロイセン王ヴィルヘルム1世、ドイツ皇帝に即位
ビスマルク、帝国宰相に就任

普仏戦争の最中に征服したフランスのベルサイユ宮殿・鏡の間にて盛大な戴冠式が行われた。(パリ陥落の10日前)

プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く連邦国家。
首都はベルリン。


構成国:
プロイセン王国(首都・ベルリン)
バイエルン王国(首都・ミュンヘン)
ザクセン王国(首都・ドレスデン)
ヴュルテンベルク王国(首都・シュトゥットガルト)

これら王国の他に、大公国・6国、公国・5国、侯国・7国、直轄州、自由都市(ハンブルク 、リューベック、 ブレーメン)がある。
1871年1月18日
ドイツ統一


プロイセン国王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝となるも、皇帝自身はそれがドイツ帝国によるプロイセン王国の併合だと感じ、嫌悪感を隠さなかった。
事実プロイセン王国意識は急速に薄れていき、皇帝ヴィルヘルム2世がプロイセン王を名乗ることはもはやほとんどなかった。
プロイセン地方もまた大帝国の中では影が薄くなってしまった。

1871年8月29日(明治4年) 廃藩置県

1872年(明治5年) 徴兵制度を採用。
国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。
武士の階級的な特権は廃止される。

1873年 三帝同盟締結

ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・ロシア帝国の3カ国による、フランスの包囲・孤立を目的として発足。

(普仏戦争で敵対関係に陥ったフランスが統一ドイツのもっとも大きな脅威であり、これを国際的に孤立させて封じ込めるというもの)

この同盟はロシアとオーストリアのバルカン半島を巡る対立から発足当初から足並みがそろわなかった。
1873年(明治6年) 明治六年政変
(征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。)
ビスマルク体制

ヨーロッパ列強各国の利害を正確に把握し、これを外交によって操ることでヨーロッパに軽い緊張状態を作り出し、どの国もうかつに動けない状態を作り出そうとした。
このビスマルクの思惑は当たり、ヨーロッパには第一次世界大戦まで続く小康状態が生まれる。
(この間に大きな戦争は起きていない)

内政面では、勢力を拡大していた社会主義者に対する攻撃を強め、ヴィルヘルム1世が狙撃されたのを口実に1878年に社会主義者鎮圧法を制定。
その一方で災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度の制度を整備するなど「飴と鞭」政策を採った。
1874年1月17日(明治7年) 民撰議院設立建白書を左院に提出。
(前参議・板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。自由民権運動の端緒となった文書)


1874年(明治7年)  自由民権運動
薩長藩閥政府による政治に対して、憲法制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正阻止、言論と集会の自由の保障などの要求を掲げた。
1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続く。
1877年(明治10年) 西南戦争
西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。日本最後の内乱。
1879年 独墺同盟締結。

(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国で同盟を結ぶ)
1882年 三国同盟締結。

(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国で同盟を結ぶ)
    1885年(明治18年) 
プロイセン陸軍のメッケル参謀少佐が陸軍大学校教授として招請。
1888年(明治21年)にフランス陸軍を範にとった拠点守備を重視した鎮台制から、後方支援部隊を組み込んで機動性の高い師団を運用する積極防御を重視したプロイセン式への改組が行われた。
1888年 フリードリヒ3世、ドイツ皇帝とプロイセン王位に即位。(在位から僅か3ヶ月で死去)

1888年 ヴィルヘルム2世、ドイツ皇帝とプロイセン王位に即位。
1889年2月11日(明治22年) 大日本帝国憲法発布

1894年 露仏同盟締結
(ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うことが定められた)


1894年(明治27年) 日清戦争
(1894年7月から1895年4月にかけて行われた朝鮮半島をめぐる戦争。)

1898年 ファショダ事件
アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競う、イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突
1890年 即位したヴィルヘルム2世はビスマルクと対立し、ビスマルクを更迭

1902年(明治35年)〜1923年 日英同盟締結

(イギリスは、満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、イギリス単独ではイギリスの中国における利権の維持にあたるには限界があった。そこで、それまでの「栄光ある孤立」政策を捨て、まずドイツとの交渉を試み、その後義和団事変で活躍した日本に接近した。
日本では、ロシアとの対立はいずれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えられる)

1904年4月8日 英仏協商締結
(両国の植民地政策の対立は解消され、数百年にもわたった英仏間の対立関係に終止符が打たれた)


1904年(明治37年) 日露戦争
1904年2月から 1905年9月にかけて行われた朝鮮半島と満州南部を主戦場として発生した戦争。
1905年 第一次モロッコ事件(タンジール事件)
(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコ北端の港湾都市タンジールを訪問し、フランスのモロッコ進出を牽制したことによって生じた国際紛争)
1907年4月27日 オイレンブルク事件(ハルデン=オイレンブルク事件)
1909年まで続いた、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の閣僚や側近が同性愛者として糾弾されたことから始まるスキャンダル。

結果、 穏健派だったオイレンブルクの影響力を排除したことが原因となり、第1次世界大戦と第2帝国の崩壊が避けられないものとなってしまったと言われる。
1907年 英露協商を締結
(イラン、アフガニスタン、チベットにおける両国の勢力範囲を決定。これによりイギリスとロシアは対立関係が解消し、両国はドイツの汎ゲルマン主義に対抗することとなった)
    1910年代〜1920年代
大正デモクラシー
1911年 第二次モロッコ事件
(ドイツ政府が砲艦をモロッコ南西の港湾都市アガディールに派遣したことによって生じた国際紛争)


モロッコ事件は、 数世紀にわたる対立を解消したばかりの英仏の関係を確認、強化することとなるとともに、ドイツの国際的孤立を深めるという、ビスマルクが最も恐れていた事態の出来事に繋がった。

1911年9月〜1912年10月 イタリア・トルコ戦争
イタリア王国とオスマン帝国の間で戦われた戦争。
イタリアがトルコに宣戦布告しトリポリとキレナイカを占領。1912年ローザンヌ条約で両地をトルコより獲得。これによりイタリアは北アフリカの領土権を確立し古の都市名リビアを復活させる。今後オスマン・トルコは急速に力を失う。


1910年8月22日(明治43年) 日韓併合

1912年10月〜1913年5月 第一次バルカン戦争
オスマントルコがイタリアに破れ国力が衰退したことによりバルカン同盟(セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリア)が仕掛けた戦争。トルコ帝国はこの戦争にも破れ崩壊。僅かな土地を残し全領土を失う。


1912年 中国、国民党による中華民国成立
1913年10月28日 ツァーベルン事件
ツァーベルンに駐屯していたプロイセン軍将校の侮蔑的発言をきっかけに生じた軍と住民の衝突事件。
またそれによってドイツ帝国内に政治的危機が生じた。
1913年 第二次バルカン戦争
皇帝による親政を布いたヴィルヘルム2世は、列強間の対立をいたずらに煽っり、そのため、イギリス帝国との対立、ロシア帝国との対立、ロシア帝国のフランス接近などの問題を生んだ。

最終的にビスマルク体制が破綻したまま第一次世界大戦に突入することになる。
1914年6月28日 サラエボ事件
(オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継、フランツ・フェルディナント大公暗殺事件)

1914年7月28日
オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告

WW1勃発
ドイツ帝国 参戦。

1914年8月2日 ロシアに宣戦布告
1914年8月3日 フランスに宣戦布告
1914年(大正3年)〜1918年 WW1
1914年8月4日
イギリス参戦
(独へ宣戦布告)
1914年 タンネンベルクの戦い
ドイツ帝国が東部戦線においてロシア帝国を破った戦い。
8月17日から9月2日にかけて、ドイツの第8軍とロシアの第1軍と第2軍によって戦われた。
1914年8月15日 日英同盟があることから日本はドイツに対し最後通牒というべき勧告を行う。

1914年8月23日
日本参戦
(独に宣戦布告)
1914年11月 オスマン・トルコ参戦

12月  デンマーク、ノルウェー、スウェーデンが中立宣言
1915年4月
イタリア、三国同盟を離脱


イタリアが、ドイツ・オーストリアへ宣戦布告 
1915年4月
イタリア、三国同盟を離脱


(イタリアは、南チロル、イストリア、ダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していたが、イギリス・フランスの働きかけにより、ロンドン協定に調印。)

イタリアが、オーストリア(ドイツ)へ宣戦布告
1915年春 ロシア軍はガリツィアから撤退

1915年8月5日
ドイツ・オーストリア軍がワルシャワを占領、ロシア軍はポーランド全土を放棄
1915年10月 ブルガリア王国がセルビアに宣戦布告
1917年4月6日
アメリカ参戦
 (独へ宣戦布告)
1917年3月、11月 ロシア革命
1917年11月26日 フィンランド独立宣言

1918年9月 ブルガリア降伏
    10月 オスマントルコ降伏

1918年11月3日 ドイツ革命
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結。(ヴィルヘルム2世はオランダに亡命)

1918年 バーデンのマックス公、ドイツ帝国宰相に就任し、皇帝ヴィルヘルム2世の退位を宣言。

ドイツ革命により、ドイツ国内の帝政が廃止。
プロイセン王国、バイエルン王国、ザクセン王国、 ヴュルテンベルク王国が皇帝の退位により滅亡。


ドイツ帝国 分解。
皇帝の退位により、王国は滅亡。 1918年11月4日  オーストリア降伏

1918年11月11日
コンピエーニュにおいてドイツ軍と連合国軍との間の休戦協定成立。
1918年 WW1 敗北

WW1はヨーロッパの君主制の消滅をもたらす。

これにより、
ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国、
4つの帝国が分解。

1918年 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が成立。
ロマノフ王朝崩壊により誕生した人類史上最初の共産主義国家。
ヴァイマル共和政の誕生 (ヴァイマル共和国)

1919年に発足して1933年に事実上崩壊した戦間期ドイツの政治体制。
ヴァイマル共和政のドイツ国においては、ドイツ帝国時代のプロイセン王国の範囲はプロイセン州(プロイセン自由国)となった。 1919年 リヒテンシュタイン、オーストリアとの関税同盟を解消

1919年 スイスとの合意に拠り、欧州評議会以外においては、スイスがリヒテンシュタイン利益代表を務める。
1919年4月 「バイエルン・レーテ共和国」を樹立、独立宣言。(バイエルンが独立しようとした)

バイエルンで社会主義者たちが革命を起こし作った社会主義政権。
5月1日から3日にかけて政府軍6万人がミュンヘンに攻めのぼり、討伐され消滅。

この時期に乱立したバイエルンの小右翼政党のひとつに国家社会主義ドイツ労働者党(後のナチ党)がある。
まもなくこの党はアドルフ・ヒトラーが党首となり、バイエルン総督グスタフ・フォン・カールなどのバイエルンの独立を求める右翼と組んでベルリン進軍を狙った。

後に、ヒトラーは右翼の人望厚きエーリヒ・ルーデンドルフ将軍を担いでミュンヘン一揆を起こす。
1919年6月28日 ヴェルサイユ条約の締結。これにより、WW1は公式に終了した。 1919年 プロイセン参謀本部解体。
ヴェルサイユ条約により、兵力は10万人に制限され、航空機・潜水艦・戦車の保有を禁止された。
参謀本部も禁止されることとなった。名称もライヒスヴェーア(ドイツ国軍)と改名する。
しかし、参謀本部の役割は国防省に設けられた兵務局に偽装して存続させた。
1920年1月10日 ヴェルサイユ条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立。 1920年1月10日 
ヴェルサイユ条約発効。国際連盟発足。
    1921年 四カ国条約締結・日英同盟解消

WW1後、日本が連合国5大国の一国となりシベリア出兵を続けるなど、アジア太平洋地域においてアメリカの利権に影響を与え出したことに対して、アメリカ国内で日本に対する脅威論が支持を受ける。
WW1終結後に日本とアメリカの関係は悪化することとなった。

さらにアメリカは、日本を5大国の一国に押し上げる原動力の1つとなった日英同盟を妨害すべく、太平洋地域に権益を持つ自国と日本、イギリス、フランスとの間における領土と権益の相互尊重と、非軍事基地化を取り決めた「四カ国条約」の締結を提唱し、同盟国であり歴史的に関係の深いイギリスにこれを強く進言した。
結果的にアメリカの思惑通りに「四カ国条約」が締結され、この条約の締結により日英同盟は「発展的解消」
日本は国際的に孤立し、後の日米対立、日英対立の布石となっていった。
1922年4月16日 ラパロ条約締結

ドイツ・ロシア間での外交関係を正常化させる為に結ばれた条約。
11922年12月30日 ソビエト社会主義共和国連邦が樹立。
1923年11月8日〜9日
ミュンヘン一揆。


ヒトラーらドイツ闘争連盟がミュンヘンで起こしたヴァイマル共和国打倒のクーデター未遂事件。

一揆と裁判を通して、ナチス党はバイエルン州の地方政党からドイツ全国に影響を与える政党へと成長した形となる。
背景に、バイエルン総督フォン・カールによるヴィッテルスバッハ家復位とバイエルン独立の目論見にあったとも言われる。
  1923年 リヒテンシュタイン、スイスと関税同盟を結ぶ。スイスフランを通貨とする。


1923年(大正12年)9月1日  関東大震災
    1924年1月21日 ソビエト連邦共産党書記長・ウラジーミル・レーニン死去。
1929年 
世界大恐慌
(アメリカ発の世界的な金融恐慌)
1930年1月21日〜4月22日(昭和5年) ロンドン海軍軍縮会議
1931年(昭和6年)9月18日
満州事変
1932年5月
大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。
1932年(昭和7年)5月15日
五・一五事件
大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。 犬養毅首相を暗殺。
1932年7月17日 アルトナ血の日曜日
アルトナで起こったナチ党と共産党の市街地抗争(死者17名。重傷者多数)

1932年7月20日 プロイセン・クーデター
フランツ・フォン・パーペンによるプロイセン州政府転覆事件。
プロイセン州首相ブラウンとプロイセン州内相カール・ゼーフェリンクに解任を申し渡した。
さらにベルリンとブランデンブルクを戒厳体制下に置き、第3軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット将軍に全権を委任して、ベルリン警視総監アルベルト・グルツェズィンスキ、ベルリン副警視総監ベルンハルト・ヴァイス、ベルリンシュッツポリツァイ、司令官マグヌス・ハイマンスベルクなどを続々と逮捕させた。

パーペンは同日夕方のラジオ放送で「プロイセン州政府は共産党テロ集団に対抗する用意がない」としてこのクーデタを正当化した。パーペンはプロイセン州首相を兼務するとともにプロイセン総督に就任。
1932年7月31日
国会議員選挙。ナチ党が230議席を獲得し第一党となる。
1932年11月6日
国会議員選挙。ナチ党は34議席を失ったが、196議席を確保し第一党の地位を保持する。
1933年2月27日 ドイツ国会議事堂放火事件


1936年8月1日 ベルリンオリンピック開催
この大会において初の聖火リレーが実施。
コースは、オリンピアを出発して、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由し、ドイツ国内へ入るというものだった。
1936年7月〜1939年3月 スペイン内戦勃発
第二共和政期のスペインで起きた内戦。
マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争った。
反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。
1933年1月30日
ヒトラーが首相に就任。

ヒンデンブルク大統領は、周囲に説得されてクルト・フォン・シュライヒャーに代わってヒトラーを首相に任命する。

ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチス党が掌握。

 3月23日
議会において全権委任法が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が確立。

 4月26日
プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局(ゲシュタポ)と改名。
1932年3月1日 日本の傀儡政権満州国を樹立

1933年3月27日 日本、国際連盟を脱退
1933年10月19日
国際連盟を脱退
黒いオーケストラ

1933年のヒトラー内閣成立以降、政財界や国防軍にもナチス党の支持者が増加し、ヒトラーの独裁体制を支えていた。しかし、ルートヴィヒ・ベック上級大将を始めとする、プロイセン王国陸軍以来の伝統を重視する陸軍の一部将校はヒトラーに対して懐疑的、批判的だった。

1938年のズデーテン危機以降、ヒトラーが威圧的な対外政策を強めると、彼らはヒトラーを排除して新政府の樹立を考えるようになった。

以降、たびたび彼らはヒトラーの暗殺を計画するがその全ては未遂・失敗に終わる。

一方、ゲシュタポなどナチス当局側も、ヒトラー政権に対する何らかの抵抗運動がいずれ起こり得る事、大戦勃発後にはそれらの抵抗運動を撲滅する必要が生じると考え、監視の目を光らせていた。
1941年には反ナチス・反ヒトラーグループの存在を察知し、捜査を開始するようになった。
1934年1月26日
ドイツ・ポーランド不可侵条約を締結

1934年8月2日  ヒンデンブルク大統領 死去

ヒンデンブルクは自分の死後に帝政を復活を考えていたらしく、ヴィルヘルム2世の嫡孫であるルイ・フェルディナント・フォン・プロイセンを皇帝に即位させる案を持っていた。
しかし、この計画は公式の遺言状には盛り込まれず、ヒトラーへ私信の形で伝えられた。
公式の遺言状は公開されたが、私信の内容が世に伝わることはなく、ヒトラーに握りつぶされたままになる。

ヒンデンブルク大統領が死去するとともに、ヒトラーは国家元首と首相の地位を合体、独裁的権力を掌握。

ヒトラーは経済的には軍備増強と公共事業により総需要を喚起し世界恐慌を克服。

1934年6月30日〜7月2日
長いナイフの夜

エルンスト・レームら突撃隊 (SA) 幹部、グレゴール・シュトラッサーらナチス左派などナチ党内の「反ヒトラー」勢力が粛清された事件。
クルト・フォン・シュライヒャーなど党外の反ナチ派も粛清された。ヒトラーの公式発表によると77人が死亡したことになっているが、116名の死亡者の氏名が明らかになっている。
亡命ドイツ人の発表では千人以上という数値も主張されている。
1935年3月16日
ヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言
1936年2月26日〜2月29日
二・二六事件
「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件
1937年7月7日 北京郊外で盧溝橋事件が発生、 日中戦争(日華事変)勃発
1938年1月26日 ブロンベルク罷免事件
国防相であるヴェルナー・フォン・ブロンベルク陸軍元帥と、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将に関するスキャンダルが相次いで発生し、両者が罷免された事件。
強引な外交政策に反対する陸軍の上層部を一掃する目的による、ナチスの謀略事件といわれる。
1938年3月12日
オーストリア併合

1938年11月9日
水晶の夜

7日のラート暗殺事件を受けて11月9日夜から11月10日かけて組織化された反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生。

ドイツ全土の都市でユダヤ人の商店とユダヤ教会が焼き討ちされた。路上に飛び散った窓ガラスの破片が夜目にキラキラと輝いていたことからこの名付いた。

後に起こるホロコースト(ユダヤ人虐殺)へのターニングポイントの一つとなった事件。

ドイツ国民から自然発生した暴動ではなく、ナチ党政権による「官製暴動」の疑いがかけられている事件でもある。

1939年4月28日 
ドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄

1939年8月23日 
独ソ不可侵条約を締結
 
1939年9月1日未明
ドイツ軍はポーランドへ侵攻を開始

 9月3日
英仏はポーランドとの援助協約に基づきドイツに宣戦布告。

WW2 勃発



* ナチス・ドイツ時代の用語

ゲシュタポ (秘密警察。活動はドイツおよびドイツのヨーロッパ占領地におけるレジスタンスやスパイ、反ナチ派などの摘発、ユダヤ人狩りおよび移送、反ヒトラー陰謀の捜査に関して厳格な取扱いなど)

SS (ナチの武装親衛隊。ドイツの政党、国家社会主義ドイツ労働者党の組織)
プロイセン州及びプロイセン州首相の地位と権限は、ナチス党の地方組織であった大管区と大管区指導者に取って代わられ、有名無実化していった。 1939年(昭和14年)〜1945年 WW2
1939年11月8日
ビュルガーブロイケラー爆破事件 (ヒトラー暗殺未遂事件)


この事件以後、爆発物の管理は厳重になる。
危うく難を逃れたヒトラーにドイツの一般民衆からの同情が集まり、その結果大掛かりな抵抗運動がやりにくくなった。
    1939年5月〜9月 ノモンハン事件
満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日本とソ連の国境紛争事件。


1939年9月17日
ソ連がソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄してポーランドへ東から侵攻
1940年(昭和15年)9月27日
日独伊三国軍事同盟 締結。
   
1940年4月
ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーに突如侵攻し(北欧侵攻)占領。
しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失う。

 5月10日
西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグのベネルクス3国に侵攻
   
1940年6月 パリ占拠(フランス軍のパリ放棄)
        フランス降伏
  1940年6月10日 
イタリア王国参戦。イギリスとフランスに宣戦布告
    1941年5月8日 東京条約締結
1941年6月22日
独ソ不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵入、独ソ戦が始まる。
これ以降、 ソ連は連合国側に立って参戦。

1941年12月11日
日本がハワイを攻撃したことにより、ドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告
  1941年12月8日 日本海軍機がハワイの真珠湾を攻撃(太平洋戦争勃発)
日本が英米に宣戦布告
アメリカ参戦

1941年12月9日

中華民国が宣戦布告
1942年6月〜
白いバラ(非暴力主義の反ナチス運動)活動開始。
1943年、グループがゲシュタポに逮捕され、首謀者とされるハンス・ショルほか5名がギロチンで処刑されるまで活動は続いた。

1943年7月 
英・米によるハンブルク大空襲


1943年7月5日 クルスクの戦い
(東部戦線において、ドイツ軍の「ツィタデレ(城塞の意)作戦」によってソ連軍との間で行われた戦闘。両軍合計6000両以上の史上最大の戦車戦。)

   
1943年3月13日 「閃光」作戦
ヘニング・フォン・トレスコウ少将らによるヒトラー暗殺未遂事件。

(東部戦線でのナチスによるユダヤ人大虐殺に憤慨し暗殺計画を立てた。)
1943年 イタリア王国、敗色が濃い中ムッソリーニが失脚し連合国側に鞍替え参戦。

1943年9月23日 北イタリアにイタリア社会共和国 樹立
(逃亡したムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権)
1944年6月6日
連合軍によるオーバーロード作戦 
(ノルマンディー上陸作戦)
  1944年6月6日
オーバーロード作戦 
(ノルマンディー上陸作戦)
連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く

1944年7月20日 
反ヒトラー派グループ(黒いオーケストラ)による総統暗殺、クーデター未遂事件
(ワルキューレ作戦、ヴァルキリー作戦)


ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり、国内予備軍司令部参謀長伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らによるヒトラー暗殺計画が実行されたが失敗した。

これにより、いっそう疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約7,000人を逮捕させ、約200人を処刑させた。
暗殺未遂事件に関与した者に対する粛清は、大戦終結直前の1945年4月下旬まで続けられた。

また、北アフリカ戦線の指揮官で国民的英雄でもあるエルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させた上で10月14日、ロンメルは自殺した。

1944年8月25日
パリの解放。

枢軸国であったルーマニアが連合国に付き、ドイツに宣戦布告

 9月9日
枢軸国であったブルガリア王国がドイツに宣戦布告
1944年10月14日
「砂漠の狐」ことエルウィン・ロンメル将軍(ドイツ国防軍元帥)
ヒトラー暗殺未遂事件に関与した疑いで服毒自殺を強要される。
   
1945年1月12日 ソ連軍がバルト海からカルパチア山脈にかけての線で攻勢を開始。

1945年1月27日 アウシュビッツ強制収容所が解放される。


1945年2月3日 ベルリン大空襲

1945年2月13日〜14日 ドレスデン爆撃 
これまで攻撃されたことのない住宅街にまで無差別に爆弾の雨を降らせ、4日間に渡って街は燃え続けた。
世界遺産の街でもあり、避難民が多く集まっていたにも関わらず、空爆の標的とされた。
ドレスデン焼失はドイツ国民の戦意を失わせるほどのショックを与えたといわれる。


1945年3月6日〜3月15日 春の目覚め作戦の失敗。

完全に兵力を失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者となりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」と呼ばれる命令を発するが、軍需大臣のシュペーアは聞き入れず、ほぼ回避された。

この頃以降、ヒトラーはラジオ放送も止めベルリンの総統官邸の地下にある総統地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。
1945年(昭和20)2月〜3月 硫黄島の戦い

1945年
(昭和20)3月10日 東京大空襲 (その後も空襲は続いた。4月13日、4月15日、5月25日)

1945年
(昭和20)3月13日 大阪大空襲 (その後も空襲は続いた。6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日)

1945年4月9日
ケーニヒスベルク 陥落

1945年4月13日 ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し、首都ウィーンを占領


1945年4月16日〜5月2日
ベルリンの戦い
ソ連赤軍とドイツ軍によるベルリン周辺での戦い。

市民は、白旗を掲げる家ではSSに狙撃され、何もしなければソビエト赤軍将兵に殺される状態であり、もはや助かる道は米軍に降伏する以外になかったという。
   
1945年4月29日
ハインリヒ・ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送。

1945年4月30日 総統官邸総統地下壕において、ヒトラー自殺

前日結婚したエヴァ・ブラウンと共にピストル自殺(毒薬を飲んでとの説もある)。
死体は遺言に沿って焼却された。
ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。

連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、各地の強制収容所が次々に解放、 収容者とおびただしい数の死体が発見された。
ユダヤ人絶滅計画をはじめ、ナチスの恐怖政治、ホロコーストの実行過程が明るみに出された。
1945年4月25日 イタリア社会共和国 崩壊


1945年4月28日 逃亡中のムッソリーニがスイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられる。
愛人のクラレッタ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。
1945年4月30日
カール・デーニッツがドイツ国大統領に就任
(任期は、4月30日〜 5月23日)


1945年5月2日 ベルリン陥落

1945年5月7日 ドイツ無条件降伏
発効を5月9日零時として5月7日にドイツ国防軍全軍の無条件降伏文書に調印。
それでも多くの避難民はソ連赤軍の手に落ち、悲劇的な運命をたどることになった。
   
1945年7月17日〜8月2日
ポツダム会議開く


米ソ英仏の4カ国による分割統治と非武装化・非ナチ化政策を受けることになる。

しかし、イデオロギー対立による冷戦の開始と共に、米英仏とソ連は対立を深める。
米軍占領地区と英軍占領地区は占領円滑化のため合同してバイゾーン(後に仏軍占領地区とも連合しトライゾーンとなる)を形成。ソ連軍占領地区との亀裂が深まった。
1945年(昭和20年)7月26日 
ポツダム宣言

大日本帝国に対して発した、第二次世界大戦に関し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた13条から成る宣言。
1945年 WW2 敗北

東プロイセンやシュレジェン地域を領土として完全に喪失。
1945年(昭和20)年8月6日 広島に原爆投下

1945年(昭和20)8月9日 長崎に原爆投下


1945年8月8日  ソ連が日本に宣戦布告。満州国へ侵攻を開始

1945年(昭和20)8月15日 日本降伏
1947年2月25日 
連合国による軍国主義の象徴とされたプロイセン王国の解体指令(法令第46号)。

旧プロイセン王国地域の大部分(1815年以前の領土のほぼ全域)はソ連・ポーランド両国に割譲された。
1947年2月25日 
連合国による解体指令(法令第46号)を以て名実ともに消滅。
日本国憲法
1946年(昭和21年)11月3日に公布
1947年(昭和22年)5月3日に施行


1946年 イタリア共和国成立。

イタリア、ウンベルト2世が退位しサヴォイア家による王政が廃止され、イタリア共和国となる。

1946年 第一次インドシナ戦争
ベトナム民主共和国の独立に伴いフランスとの間で戦われた戦争。
1948年6月21日 英米仏各占領地区で独自に発行されていた通貨(ライヒスマルクやレンテンマルク)を統合してトライゾーンでの統一通貨(ドイツマルク)を発行。

これはソ連側が6月24日に発行を計画していた新通貨・東ドイツマルクに対抗する措置でもあった。

排除されたソ連側は3日後、予定通り東ドイツマルクを発行。
これが東西分裂の象徴することになる。

ソ連はドイツマルクを使用する西ベルリンを経済封鎖し、西側は大空輸作戦で1949年5月12日までの11ヶ月間西ベルリンを支えた。
1948年 第一次中東戦争
1948年から1949年にかけて行われたアラブ諸国とイスラエルとの戦争のことである。パレスチナ戦争ともいう。


1948年  大韓民国成立。朝鮮民主主義人民共和国成立。
1949年5月23日
ボンを暫定的な首都とするドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立

1949年10月7日
ベルリンの東部地区(東ベルリン)を首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。


西ドイツ「東ドイツとの統一後に憲法を持つことにする」との意志から憲法(Verfassung) がなく、基本法(Grundgesetz)のみを持つ形をとった。
1949年  中華人民共和国成立
蒋介石との闘争に勝利した共産主義者の毛沢東が築いた人口12億の巨大国家。
これにより民主資本主義国家中華民国は打倒され台湾に移ることとなる。

1949年〜1963年
コンラート・アデナウアー政権は、ハルシュタイン原則に基き、西ドイツがドイツを代表する唯一の正当性を持った国家であるとし、ソ連以外の国で東ドイツと国交を持つ国との国交を断絶するという政策を取った。
東ドイツの存在自体を認めないという政策を実行。

   
1950年
東ドイツ ウンター・デン・リンデン通りのフリードリヒ大王の騎馬像が撤去。(ソ連への配慮と思われる)

ウンター・デン・リンデンには、菩提樹が再植林され、歴史的建築物の廃墟も軍国主義の象徴とみなされ撤去されたプロイセン王宮を除き、数十年間にわたる再建事業によってほぼ原状回復された。
1950年 朝鮮戦争勃発

1950年6月25日〜1953年7月27日停戦
成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡って、北朝鮮が軍事境界線を越えて南進し勃発した国際戦争。
    1951年7月9日 英仏が対独戦争状態終結を宣言

   10月27日 米が戦争状態終結を宣言
    1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約
正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結したものとされる。

1952年(昭和27年) 日本が国家の主権を回復を宣言
1953年 六月十七日事件
ソ連の独裁者・スターリンの死を切っ掛けに起きたデモ。

東ドイツで抑圧的な政府の姿勢に反発して東ベルリン労働者のデモが起こり、これを契機として東ドイツ各地で市民が反ソ暴動を起こしたが、ソ連軍の介入によって弾圧され、6,000人以上が逮捕された。

これに対し、西ドイツは激しく抗議するが、アメリカはこれを黙認した。
1953年3月5日 ソビエト連邦共産党書記長・ヨシフ・スターリン死去。


1953年 朝鮮戦争休戦協定成立

朝鮮半島の戦争に一応の終結を見るべく米国政府と北朝鮮政府の間で行われた停戦協定。韓国政府はこの協定には参加しておらず2001年現在でも戦闘は継続中と判断されている
1954年3月25日
ソ連が東ドイツに大幅な自治権を与える。
   

1955年5月5日 西ドイツが主権の完全な回復を宣言

ドイツ連邦軍を編成して再軍備を行い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。
ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられた形の西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。


1955年5月14日 東ドイツ、ワルシャワ条約に調印

1955年9月20日 ソ連、東ドイツとの主権回復条約調印


1955年11月12日
西ドイツの再軍備とNATO加盟を認められ、ドイツ連邦軍が正式に誕生。

1955年 オーストリアの国家条約締結
「永世中立国宣言」
    1956年4月 ソ連共産党第一書記フルシチョフによる「スターリン批判」


1956年6月 ポーランドで民主化運動。


1956年10月 ハンガリー動乱

ソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起。
蜂起は直ちにソビエト軍により鎮圧されたが、その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。


1956年10月 第二次中東戦争

エジプトとイスラエル、イギリス、フランスがスエズ運河を巡って起こした戦争。スエズ戦争、スエズ危機、スエズ動乱とも呼ばれる。


1956年(昭和31年) 日本、国際連合への加盟承認。
日本は国際連合への加盟を承認されこの加盟によって国際社会への復帰を果たすことになる。
1957年1月1日
住民投票でドイツ復帰を選んだフランス保護領ザールをザールラント州として併合。
1961年 ベルリンの壁 建設開始。

8月13日0時、東ドイツは東西ベルリン間68の道すべてを封鎖し有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始。

6時までに東西間の電車、道路の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。

この事態を知った西ベルリン市民はブランデンブルク門前に集まり、封鎖に抗議した。が、アメリカを含む西側諸国はこれを黙認。ソ連との直接対決を避けることを選んだ。

2日後には石造りの壁の建設が開始された。


東の言い分は、東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々、であった。

壁は後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートでできていた。壁の総延長は155kmに達した。
1963年1月22日 エリゼ条約(仏独協力条約)締結
(戦後におけるフランスとドイツの協力について定められた条約。)

1963年
東ドイツ ポツダムのサンスーシ宮殿にフリードリヒ大王の騎馬像が復活して建てられる。
    1964年(昭和39年)10月10日 東京オリンピック
1965年 ベトナム戦争。
インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一を巡って起こった戦争。
第一次インドシナ戦争の延長上にある戦争のため、第二次インドシナ戦争とも言われる。
1966年 メドラロイトの壁 建設
ドイツ東南部、バイエルン州とテューリンゲン州の州境に位置する村が壁により分断。
バイエルン側(村の南部)は西ドイツに、テューリンゲン側(村の北部)は東ドイツに属した。

1990年6月17日 「メドラロイトの壁」はブルドーザーによって取り壊された。(ドイツ再統一から4ヶ月遅れてのこと)

分断の影響は、壁崩壊後の現代でも残っているという。
    1968年 プラハの春

チェコスロヴァキアで起きた民主化運動が起きるも、ソ連の軍事介入により鎮圧される。
1970年代初頭 東方外交開始。
東側諸国との関係改善を図るヴィリー・ブラント連邦首相の東方外交により、東西ドイツは相互承認へと進む。

キリスト教民主同盟からブラント率いる社会民主党に政権が交代すると、従来の方針を改め、東ドイツの存在を事実上認めること、東プロイセン領の放棄、オーデル・ナイセ線を承認し、現状の状況を追認した。

東ドイツの存在を事実上認めたものの、ブラントは東ドイツを主権国家として認めるつもりはなく、そのため東ドイツの指導者ヴィリー・シュトフと対立した。
しかし、最終的には東西ドイツ基本条約において国際法における国家承認ではなく、同等の権利を持つ主権国家であるとして外交関係について曖昧な形で決着した。
1969年  イギリス、北アイルランドで暴動続発。
北アイルランド地方のイギリスからの独立を求めるIRAとイギリス政府との武力抗争。
1970年3月19日 第一回 東西両ドイツ首脳会談

    5月21日 第二回 東西両ドイツ首脳会談
1970年(昭和45年)3月14日〜 9月13日 大阪万国博覧会

1970年(昭和45年)12月20日 コザ事件
アメリカ統治下のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で、交通事故を契機に発生した車両および米軍施設に対する焼き討ち事件。
1971年9月3日 米ソ英仏がベルリン協定に調印。
(東西ベルリンの相互通行を促進する米ソ英仏の四カ国合意)


1971年12月27日 東西両ドイツが通過交通協定に調印
1972年 西ベルリンと西ドイツ間の通行を保障する通過合意


1972年12月21日 東西ドイツ基本条約を締結
東方外交
の一環として、条約は1972年12月21日に、東ベルリンにおいて署名された。
条約は、保守強硬派からの反対にもかかわらず、西ドイツにおいてその翌年に批准され、1973年6月に効力が発生した。
1972年(昭和47年)5月15日 沖縄返還
沖縄県の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還される。
1973年10月6日 第四次中東戦争が勃発
           第一次オイルショック
1977年 ドイツの秋   77年後半の西ドイツで起こった、一連のテロ事件の通称。
1979年 イラン革命
      第二次オイルショック
1980年12月24日 カール・デーニッツ(ヒトラー死後に大統領を務めた人物)死去。

西ドイツ国防軍は元ナチスの彼の葬儀に参加せぬようにとの訓示をしたにもかかわらず、数名の士官が軍服で参列したという。


1980年11月
東ドイツ  フリードリヒ大王の騎馬像が元のウンター・デン・リンデン通りに戻される。
1981年8月15日〜11月15日
西ベルリンで展覧会「プロイセン―評価の試み」開催
1981年12月12日 第三回東西両ドイツ首脳会談
11年ぶりの首脳会談は東ドイツ・ヴェアベリン湖畔で行われた。
 
1982年12月18日 戦車撃破王ハンス・ウルリッヒ・ルーデル死去。

葬儀の際に、西ドイツ空軍機2機が追悼飛行を行い、ナチス式の敬礼をする元軍人、元ナチス党員、ネオナチらが参列し、戦時中の国歌やら軍歌やらが盛大に流され騒然となり、当然、大問題に発展した。

軍関係者は、「あれは訓練飛行である。下で国防軍軍人の葬儀をしていたことは知らなかった」という言い訳で切り抜けたらしい。

(西ドイツ軍はドイツ国防軍と関係を決別しており、元国防軍軍人の葬儀などには例え功績のある軍人であっても公に出席できないという立場があった)
1983年 NATO諸国への米国製中距離核ミサイル配備開始。 (ソ連が大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備したことに対抗しての配備)


1983年6月 西ドイツによる東ドイツへの融資を決定。10億マルク。
(フランスなどからの批難を避けるために、コール首相が休暇中にバイエルン州からの融資という形を取った)
  1983年 NATO諸国への米国製中距離核ミサイル配備開始。
(ソ連が大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備したことに対抗しての配備)
1984年7月25日 西ドイツによる東ドイツへの融資を決定。9億5千万マルク。

1984年11月 東ドイツ、国境の自動射撃装置を撤去。
(融資する代わりに国境の警備を少しだけでも減らすという水面下での取り引き)


1984年 カナダ首相が東ドイツを訪問。
     イタリア首相が東ドイツを訪問。
 
1985年11月初旬 東ドイツは国境1280キロに及ぶ国境に敷設された200万発の地雷の撤去完了。


1985年11月 西ベルリン中心部の大改造計画を発表。
1985年 ソ連で政治改革(ペレストロイカ)が始まる。

共産党書記長に就任したゴルバチョフが提唱・実践した。
あわせて進められたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソ連の政権を民主的な方向に改善していった。
しかし結果として、高まる民主化圧力により社会主義体制は破綻し、ソ連崩壊へと到った。
1985年(昭和60年) 
国際科学技術博覧会(つくば博)
1989年8月19日 ハンガリーで「ヨーロッパ・ピクニック計画」が成功。

西ドイツへの亡命を求める1000人程の東ドイツ市民が参加した。この時彼らは一斉にハンガリー・オーストリア国境を越え亡命を果たした。
1989年6月4日 六四天安門事件 (中華人民共和国・北京市)


1989年革命(東欧革命)
ソ連の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で、共産党政権が連続的に倒された革命
1989年9月
東ドイツ 総選挙の不正が明らかになり、国民は政府への不信感を強めていった。

1989年10月9日 月曜デモ
(反政府運動)
東ドイツ・ライプツィヒで民主化と長期政権に居座るホーネッカーの退陣を求めて起きた大規模なデモ。
デモ参加者が7万人に達し、その後のベルリンの壁崩壊につながったとされる。
1989年10月18日 
東ドイツ ホーネッカー解任

1989年11月9日 0時前
国境ゲート開放

1989年11月10日未明
ベルリンの壁崩壊
1990年3月18日
東ドイツにて自由選挙が実施され、ドイツ統一を主張する保守連合「ドイツ連合」が勝利する。

(50年以上選挙というものを行ってきていない東ドイツ市民の困惑を余所に、西ドイツ側からそれぞれ関係の深い政党を支持する為の宣伝活動に東ドイツに乗り込んで行っている。
中でもコール首相の推す再統一を主張する保守連合への応援演説はすごいものがあったらしい。コール首相自ら東ドイツの各地を飛び回ったという。 )

 5月5日
東西ドイツと米英仏ソの6ヶ国外相会議が開催される。

 7月1日
東西ドイツは通貨・関税同盟を結ぶ。通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約が発効し、東ドイツに西ドイツの通貨・ドイツマルクが導入される。

 7月17日 
6ヶ国外相会議で、統一ドイツの北大西洋条約機構への加入を確認する。

 7月23日
東ドイツの県が廃止され州を設置される。

 8月23日
ドイツ統一条約が調印される。

 9月12日
ドイツに関する「最終規定条約」が調印される。
ドイツの再統一は当初、4〜5年掛けてじっくり進めていく予定だったが、予想を上回る東ドイツの環境汚染、負債、失業率に西ドイツも驚きと焦りを隠せなかった。
そして、混乱の中で東ドイツ政府の政治機能の停止などが起こり、混乱続きで焦りもあったのか、西ドイツはかなり強引な勢いで再統一への手続きを行っていく。

予定されていた、再統合という統一ではなく、東ドイツが西ドイツに吸収合併されるような形での再統一になってしまった。


1990年10月3日 ドイツ再統一


西ドイツ基本法23条に基づき、東ドイツの州が西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に加入(もしくは編入)。

東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「ドイツ最終規定条約」により、統一後のドイツの地位と国境が確定、ドイツの主権が完全に回復。
1991年3月15日 
米英仏ソ四カ国の軍はドイツから撤退
   
1991年8月17日
フリードリヒ大王の墓がサンスーシ宮殿の庭先の芝生に移される。

「犬たちと共に葬うこと」という遺言通りに、ようやく死後205年経った命日に犬たちと共に眠る。
   
1995年4月 ブランデンブルク州はベルリン州と合併して、一つの州になるつもりで合併条約に調印。
しかし、1996年のブランデンブルク住民投票で否決された。


その理由は、東ベルリンは東ドイツ時代から政府に優遇されていたということや当時、ベルリンは財政難で約400億ユーロの借金があったことから、ベルリンに搾取されるのではないかという不信感が、ブランデンブルク州市民側にあったらしい。


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