プロイセン公領・プロイセン公国から普仏戦争まで

プロイセン
神聖ローマ (962年〜1806年)
世界
 
    1467年(応仁元年) 応仁の乱(戦国時代突入)
1492年 イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスが現在の西インド諸島にたどり着く。新大陸発見。

1523年 
ドイツ騎士団総長・アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、マルティン・ルターと面会し感銘を受け、支配下の騎士とともにルター派に改宗。

こうしてカトリック教会の騎士修道会国家は歴史的な役割を終える。

   
1525年 プロイセン公領 成立
首都はケーニヒスベルク


ホーエンツォレルン家のルーテル派プロテスタントの世俗公領。

(ポーランド王国の宗主権下に、ホーエンツォレルン家を世襲の公とする世俗の領邦。)
   
    1573年(元亀4年)
室町幕府・15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される。
  1603年(慶長8年) 江戸幕府 創設
1618年 
プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの死によりプロイセンにおけるホーエンツォレルン家は断絶。

プロイセンは、ヨアヒム・フリードリヒの子ヨーハン・ジギスムント選帝侯がプロイセン公を兼ねる同君連合となる。
(ブランデンブルク=プロイセン)
1618年〜1648年 三十年戦争

ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として戦われた国際戦争。
1618年〜1648年 三十年戦争

前世紀以前より始まった宗教改革で旧教同盟と 新教同盟の対立から来る戦争。

ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として戦われた国際的な大戦争。
1648年 ヴェストファーレン条約 締結
三十年戦争の講和条約

ドイツでは領邦主権が確立し、領邦君主による連合体としてのドイツという体制が固まった。

三十年戦争
での戦場となったドイツ領邦は史上稀に見る甚大な被害を被った。
この戦争で被害を免れたドイツ北方のプロイセン王国が台頭していき、後にオーストリア・ハプスブルク家と対立していくことになる。
1648年 ヴェストファーレン条約 締結
三十年戦争の講和条約

これにより、神聖ローマ皇帝の権力が失われていく。


・スイスとオランダが独立

・フランスは、アルザス地方と、ロレーヌ地方のメッツ、トゥール、ヴェルダンを獲得。(神聖ローマ帝国からの離脱)
1648年 ヴェストファーレン条約 締結
三十年戦争の講和条約で、ミュンスター条約とオスナブリュック条約の総称

ハプスブルク家の弱体化に成功したフランスは、ライン川左岸へ支配領域の拡大を図り、侵略戦争を繰り返していく。

スペイン・ハプスブルク家がこの戦争を通して勢力の減退、 没落の一途をたどる。

スウェーデンもこの条約でバルト海沿岸部に領土を獲得し、その一帯に覇権を打ち立てた。(バルト帝国)
1655年〜1661年 北方戦争
スウェーデンとその他の国々、ポーランド・リトアニア連合、モスクワ国家、ブランデンブルク=プロイセン、神聖ローマ帝国、デンマークとの戦争を一纏めにしたもの。


1655年
〜1660年 
ポーランド・スウェーデン戦争(大洪水時代)

1655年〜1661年 北方戦争 1655年〜1661年 北方戦争
スウェーデンとその他の国々、ポーランド・リトアニア連合、モスクワ国家、ブランデンブルク=プロイセン、神聖ローマ帝国、デンマークとの戦争を一纏めにしたもの。


1655年
〜1660年 
ポーランド・スウェーデン戦争(大洪水時代)

ポーランド・リトアニア共和国を戦場とした一連の戦争
スウェーデンによるポーランド・リトアニア共和国への侵入と占領を指している
1660年
ポーランド・スウェーデン戦争の講和条約であるオリヴァ協定によってポーランド・リトアニア共和国から正式に独立し、プロイセン公国となる。
   
    1689年〜1815年
第2次百年戦争

アメリカの独立・フランス革命・ナポレオン帝国を背景にイギリスとフランスの間で繰り広げられた一連の戦争の総称

1701年1月18日 プロイセン王国 建国
首都はベルリン


ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいて戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。(ホーエンツォレルン朝)

プロイセン王国は12の州から成り立っており、州は最大の地方行政単位。

  1701年〜1714年
スペイン継承戦争 / アン女王戦争

オーストリアがスペイン領ミラノ奪還を目指してオイゲン公率いる軍を北イタリアに進撃させたことで始まる。
スペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間、北アメリカ大陸で行われた戦争。
    1707年
グレートブリテン連合王国 成立

(イングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国の合同により成立した王国)
1712年1月24日
フリードリヒ2世誕生
(フリードリヒ大王、フリッツ親父)

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテーアの子として生まれる。
母・ゾフィーは 後のイギリス国王ジョージ1世の娘。
   
1730年8月5日
暴力、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、虐待に等しい境遇にひたすら耐えて成長していったフリードリヒ2世が、イギリス王女との縁談を機会についに逃亡を図る。が、計画はすでに漏れており、その日のうちに連れ戻された。

壮絶な親子喧嘩は親友・ カッテ少尉の処刑、その後のフリードリヒ2世が恭順の意を表した手紙を書いたことにより終了。
1733年6月12日
フリードリヒ2世は、父の命令に従って、オーストリアの元帥であったブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フェルディナント・アルブレヒト2世の娘エリーザベト・クリスティーネと結婚する。
   
1740年5月31日〜1786年8月17日
フリードリヒ2世 即位
 (フリードリヒ大王、フリッツ親父)

建国間のないプロイセンを強国へ押し上げた啓蒙専制君主。開明的君主。
軍国として発展していながら、進んで侵略戦争はしないなど軍国主義を忌み嫌った面もある。

宗教寛容令、拷問の廃止など内政の改革を進める。
文化や芸術にも造詣が深く、この頃のプロイセンは軍国主義でありながら自由思想、啓蒙主義などの色が強い。


フランス語とドイツ語の2種類の新聞が発刊、先王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世のもとで廃止同然になっていたアカデミーの復興、オイラーをはじめ著名な学者たちをベルリンに集めたため、ベルリンには自由な空気が満ち「北方のアテネ」と称されるようになる

その一方で女性を蔑視する発言を度々公の場でしており、そのせいでオーストリアのマリア・テレジア、フランスのポンパドゥール夫人やロシアのエリザヴェータの反感を買っている。
 

1716年(享保元年)
徳川吉宗、第8代将軍に就任

1740年12月16日 オーストリア継承戦争

プロイセン建国過程におけるハプスブルク家がシュレジェンの一部をプロイセンに帰属させる約束を破った事から戦争に発展。(という言い分でプロイセンがシュレジェンに侵攻)

神聖ローマ帝国の継承問題を発端に(プロイセンが2万の軍勢でオーストリア領シュレジェンを急襲)、ヨーロッパの主要国を巻き込んだ戦争。
カナダやインドで英仏間の戦争にも発展した。


オーストリアを支援したのは、イギリスとオランダ。後にザクセンとサルデーニャ(後のイタリア)もオーストリアの側で参戦。
これと敵対する側に立ったのはプロイセン、フランス、スペイン、バイエルン。

(プロイセンは変わり身の早さで条約を破りまくって立ち回っている。)

1748年 アーヘンの和約によって終結。
  1767年(明和4年)〜1786年(天明6年)
田沼時代

老中の田沼意次が幕政を主導していた時代。
1756年8月29日 七年戦争

プロイセン及びそれを支援するイギリス(お金だけ。でもすぐに撤退)と、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争。
ほぼ、 1対3の戦い。

オーストリアの「女帝」マリア・テレジアはロシア女帝エリザヴェータ・フランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人と組んでシュレージエンの奪回を企てていた。これにフリードリヒ2世は先制防衛策をとることに決め、ザクセンに侵攻。
プロイセンにとっては、シュレジェン防衛のための国土防衛戦争。(という言い分で侵攻)

1763年2月15日プロイセン、オーストリア、ザクセンがフベルトゥスブルク条約を締結し、七年戦争は終結した。
  1755年〜1763年 
フレンチ・インディアン戦争


七年戦争に呼応して英仏間で争われた北米大陸での植民地戦争。
インディアンと同盟を結んだフランス軍を相手にイギリス人が戦った。
1775年〜1783年 アメリカ独立戦争
1778年2月アメリカに渡ったプロイセン軍人のシュトイベン男爵が兵士の訓練計画に参加。参謀を養成、火器の比率を改善する戦術マニュアルなどを揃えた。
シュトイベンは、アメリカ合衆国建国の父の一人と考えられている。


アメリカ独立戦争におけるドイツ諸邦
アメリカのイギリス植民地で反乱が起こったとき、イギリスはアメリカ植民地人の反乱を鎮めるために、ドイツの幾つかの領邦とイギリス軍を助ける兵士を借りる契約をした。
ドイツ人は一般にこの戦争において、ドイツ兵が従軍できることに大きな誇りを持っていたと言われる。

ドイツ民族は米英両軍に関わりを持った。その多くはイギリスの同盟国として参戦。
反乱を起こしたアメリカのパトリオット(愛国者)を助けるために大西洋を渡ったドイツ人もいたが、パトリオットに就いたドイツ人の大半は既に植民地人としてアメリカにいた者達だった。
  1775年〜1783年
アメリカ独立戦争


イギリス本国(グレートブリテン王国)と、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争。
この戦争によって、植民地の者達がイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。
    1776年7月4日
アメリカ独立宣言
1786年8月17日
フリードリヒ2世  サンスーシ宮殿で老衰により死去。
遺体は「愛犬たちのそばに埋めてほしい」という遺言に相違してポツダム衛戌教会に葬られた。

その後、WW2中に遺体は各地を転々とさせられるなどの運命を辿った。(政治利用を警戒してと言われる)
再統一後、遺言通りの場所に墓は移される。
   
    1789年7月14日〜1794年7月27日
フランス革命
1792年4月20日〜1802年3月25日
フランス革命戦争

フランス革命政府と、イギリスおよびオーストリアを中心としたヨーロッパ諸国との戦争。

プロイセンは 対仏大同盟側で参戦。
  1792年4月20日1802年3月25日
フランス革命戦争

フランス革命政府と、イギリスおよびオーストリアを中心としたヨーロッパ諸国との戦争。

1803年には再び英仏は戦争状態に入り、ヨーロッパ諸国はナポレオン戦争へと突入していく。
    1801年
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 成立

(グレートブリテン王国とアイルランド王国が合同して成立した王国)

1927年にグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国と改称。
1803年〜1815年
ナポレオン戦争

プロイセンは 対仏大同盟側で参戦。
  1803年〜1815年
ナポレオン戦争

ナポレオン・ボナパルト支配下のフランスと、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ諸国との戦争
1806年7月12日 ライン同盟 成立

神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯は名目だけ存続していた帝国を離脱してフランス帝国と同盟し、ライン同盟が成立。
同盟は、ナポレオンを盟主とし、大司教ダールベルクを総裁としたフランス主導の国家連合であった。

1813年 ナポレオンの敗退とともに解体。
1806年
神聖ローマ帝国 解体

「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。

リヒテンシュタイン公国独立
1805年3月18日 イタリア王国
ナポレオン1世により設立。イタリア中東部と北部を含む。首都はミラノ。
(1814年にナポレオンの時代が終わると、イタリア王国も終焉を迎えた。)
1812年6月〜1814年12月
米英戦争
イギリス及びその植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族と、アメリカ合衆国との間でおこなわれた戦争。
1815年6月18日 ワーテルローの戦い
イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦い。ナポレオン最後の戦いとして知られる。

ベルギーのラ・ベル・アリアンスを主戦場としたが、ウェリントン公により近郊のワーテルローの名を取り、このように命名された。

ドイツではラ・ベル・アリアンスの戦い(独:Schlacht bei Belle-Alliance) と呼ばれる。
 

1815年6月18日 ワーテルローの戦い
ベルギーのワーテルローで、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦い。ナポレオン最後の戦いとして知られる。

ベルギーのラ・ベル・アリアンスを主戦場としたが、ウェリントン公により近郊のワーテルローの名を取り、このように命名された。

ナポレオンは退位してイギリスへ亡命し百日天下は終わった。
ナポレオンはイギリスのプリマスへの上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、ベルトラン、モントロン、グルーゴの3人の将軍とともにセントヘレナ島に流された。

1815年6月8日 ドイツ同盟 (ドイツ連邦) 成立

旧神聖ローマ帝国を構成していたプロイセン王国を含むドイツの35の領邦と4つの帝国自由都市(リューベック、フランクフルト・アム・マイン、ブレーメン、ハンブルク)の連合体。
1815年のウィーン議定書に基づき、オーストリア帝国を盟主として発足。

旧神聖ローマ帝国の領域を範囲としたため、オーストリアおよびプロイセンの領土は連邦の内と外にまたがっていた。

1866年の普墺戦争のプロイセン勝利をもって解体。
  1825年(文政8年) 異国船打払令
江戸幕府が発した外国船追放令
    1830年 
フランス7月革命
    1840年 アヘン戦争
清とイギリスとの間で、アヘンの密輸が原因となった戦争。
1848年革命
1848年3月、ウィーンでの革命により宰相メッテルニヒは英に亡命。
これにより、ウィーン体制は事実上、崩壊した。
また同じ頃、ベルリンにて暴動が起き、カプンハウゼンによる自由主義内閣が成立。

しかし、ドイツ統一まで後一歩、という所でプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がドイツ国王就任を拒否したのでドイツ統一はならなかった。
 

1848年革命
1848年にヨーロッパ各地で起こった革命。

1848年3月、ウィーンでの革命により宰相メッテルニヒは英に亡命。これにより、ウィーン体制の事実上の崩壊へと突き進んだ。
その一つにイタリア独立運動がある。

1848年 フランクフルト国民議会(正式名称は「憲法制定ドイツ国民議会」)

1848年から1849年にかけてフランクフルト・アム・マインで開催された議会。憲法制定を通じた自由主義的なドイツ統一を図り、その統一方式などを討議した。しかし、最終的にはオーストリア、プロイセンといった有力君主国の支持を得られず頓挫。

統一ドイツの範囲をめぐって、「大ドイツ主義」(多数のスラヴ人・マジャール人を支配するオーストリア帝国内の非ドイツ人地域を独立させ、ドイツ人地域オーストリアを入れての統一)と「小ドイツ主義」(オーストリアの遣り方を容認しない、オーストリアを含めないドイツ民族の統一)をめぐる議論が展開された。

1848年〜1852年 第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 (デンマーク戦争)

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を巡って、デンマークとプロイセン王国および関係国によって行われた戦争。
    1854年3月28日 クリミア戦争
(クリミアはウクライナにある半島)

フランス、オスマン帝国、イギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャ(イタリア王国の前身)とロシアが戦った大規模な戦争。
その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ。

1856年3月30日にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いの下で、パリ条約が成立・終結した。
    1853年(嘉永6年) 黒船来航
    1857年〜1860年 第二次アヘン戦争
清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争。
    1859年 ソルフェリーの戦い(イタリア統一運動)
    1860年3月24日(安政7年3月3日) 桜田門外の変
1861年1月2日
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が死去、ヴィルヘルム1世が即位。
  1861年 イタリア王国 建国

サルデーニャ王国によるイタリア統一により成立。
サルデーニャ王のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が初代国王となった。


1861年〜1865年 アメリカで南北戦争勃発

奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。
1861年1月24日 プロイセンと日本で日普修好通商条約を締結。 1861年1月24日 プロイセンと日本で日普修好通商条約を締結。

1862年 
新国王ヴィルヘルム1世によってプロイセン王国の宰相(首相)兼外相にビスマルクを任命。

「鉄血政策」
を唱えて保守派の勢力を盛り返したため、プロイセンは再び軍事力による大国化を進めることになった。
軍事国家への転換期となる。

オットー・フォン・ビスマルク…ドイツ統一の立役者。君主主義の保守的な政治家、優れた外交官でもあり、現実主義に根ざした政治的手腕には卓越したものがあった、と評される人物)

 
1864年 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 (デンマーク戦争)

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を巡って、デンマークとプロイセン・オーストリア連合軍との戦争。

戦争終結後、プロイセンとオーストリアの両国は両公国の領有を巡り、1866年に普墺戦争を起こすに至る。
当時ドイツで起こったドイツ統一の主導権争いの再開となった。

1866年6月15日 普墺戦争

プロイセンと、オーストリアを盟主としプロイセンを除名したドイツ連邦諸国との戦い。

プロイセンの行為を侵略的と見たバイエルン王国、ザクセン王国、ヴュルテンベルク王国などはオーストリア側に就いたが、北ドイツの小邦はプロイセンに就いた
オーストリアのヴェネツィア領有を不満とするイタリア王国もプロイセンと同盟。

ケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)でプロイセン軍がオーストリア軍に圧勝。
この戦争によってプロイセンはオーストリアを除く小ドイツ主義によるドイツ統一を目指していく。

背景:第二次産業革命の波はドイツにも流れ込んでいたが、小国分立で十分な経済圏が無い当時のドイツでは、重工業の健全な発展は不可能という状態。
このままでは弱小な農業国から抜け出せないという焦りから、ドイツ民族の統一を求める民族主義が各地で高まるが、具体的な統一方法では意見が分かれた。
多数のスラヴ人・マジャール人を支配するオーストリア帝国を、統一ドイツに含めるか否かは大問題だった

*大ドイツ主義… 非ドイツ人地域を独立させてドイツ人地域オーストリアを入れる。オーストリア主導
*小ドイツ主義… オーストリアの遣り方を容認しない、オーストリアを含めない。プロイセン主導


軍参謀総監・モルトケ伯爵が色んな意味で大活躍。(戦況が思い通りに行かなくて怒りまくってた前半)


オーストリアを盟主とするドイツ同盟 (ドイツ連邦)解体。
ドイツ同盟解体により、ヒリテンシュタイン公国独立

 

1866年6月15日 普墺戦争

イタリアは、
同盟国であるプロイセン王国がオーストリアに勝利したことで、ヴェネツィアを含むヴェネト地方を獲得


1866年 オーストリア帝国からのハンガリー独立運動

1866年 ドイツ同盟(連邦)解体により、ヒリテンシュタイン公国独立

1867年 北ドイツ同盟 (北ドイツ連邦) 成立。

ドイツ北部のプロイセン王国を主体に22の領邦から成る連合体。

プロイセンは、ドイツ統一の主導権を握り、これを後のドイツ帝国の母体とした。

(バイエルン王国を中心とするドイツ南部の諸邦には反プロイセン・親オーストリアの気風があった)
  1867年〜1918年
オーストリア=ハンガリー帝国 成立
(オーストリアは、ハンガリー独立運動に対し武力で鎮圧出来ず、妥協の末に二重帝国として成立)

1867年 リヒテンシュタイン公国 永世中立国(非武装)となる。

1967年〜1982年 カナダがイギリスから独立。イギリス連邦加盟国。(連邦立憲君主制国家)


1867年11月9日(慶応3年10月14日)
大政奉還

1868年(明治元年)〜1869年
戊辰戦争

1868年(明治元年) 明治維新
1868年9月 スペイン王位継承問題

スペインで非民主的な当時の政権に対し、フアン・プリム将軍がカディスで武装蜂起すると、政権への不満は各地の蜂起を促し、革命は全土に波及した。1865年に王室財産の不正利用が明らかになった女王イサベル2世は軍隊の支持も失い、第二帝政下のフランスへと亡命。

1870年、フランス亡命中のイサベル2世は、息子である後のアルフォンソ12世に王位を譲るがスペインのプリムはこれを認めず、スペイン国王の王位継承問題が発生した。
この継承候補者として、プロイセンの推すホーエンツォレルン家のレオポルトの名前も挙がり、プリムもこれを推薦した。

これに対し、フランスは自国がホーエンツォレルン家の王を頂く国家に挟まれることを危惧しレオポルトの王位継承に強く反対。ホーエンツォレルン家当主であるヴィルヘルム1世にレオポルトの候補辞退を求めた。
このフランスの強い反対に、一時普仏両国の関係は緊張したものとなったが、結局プロイセン側が折れ、7月12日にレオポルトが自発的に王位を辞退した。このプロイセンの譲歩によって事態は平和的に解決したかに見えたが、これが普仏戦争に繋がる。
1870年7月13日 エムス電報事件

フランスは、スペイン王位継承問題プロイセンの推すレオポルト公の王位辞退だけでは満足できず、未来永劫に渡ってスペインの王位候補者をホーエンツォレルン家から出さないことへの約束をヴィルヘルム1世に求めたことから起きるゴタゴタ。

1870年7月13日、ドイツ西部の温泉地バート・エムスで静養中のプロイセン王ヴィルヘルム1世を訪ねたフランス大使ヴァンサン・ベネデッティ伯爵は、上述の保証のために会見を求めた。
しかし既に王位辞退という形で譲歩を行っていた国王は、未来永劫にわたって保証することは不可能であり、自分にその権限はないとしてこのさらなる要求を拒否し、ベルリンのビスマルクに事の経緯を打電した。

国王からの電報を受け取ったビスマルクは、この電報を政治的に利用することを思い付き、ヴィルヘルム1世の電報を意図的に短縮、フランスがプロイセンを侮辱したように改竄した上で、新聞や各国に公表した。
文章の省略によって国王の大使への拒絶は強調され、加えてビスマルクが故意に事実と異なった状況説明を行ったため、かねてからくすぶっていたフランス・プロイセン両国の敵対心は煽られ、世論は戦争へと傾いた。

開戦反対の声もあったが、戦争を求める強い世論に流され、フランスは7月15日に開戦を閣議決定し、7月19日にプロイセンに宣戦を布告した。
( エムス電報事件から1週間も経たない電撃的な速さでフランスはプロイセンに宣戦布告している)
普仏戦争を予測していたプロイセン(ビスマルク)は普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引き(フランスはプロイセンに向け1本)、情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣、観光客にまぎれこませ偵察させ地図を作成するなど万全な準備を整えていた。

また北ドイツ連邦加盟の領邦諸国は、プロイセンが先に宣戦布告された場合には協力するとの条約に基づき参戦した。
その他にも他国が介入しないよう、ロシア、オーストリア、イタリア、イギリスに事前に根回しをしていた。

これに対し、フランスはメキシコ帝国が失敗し、皇帝マクシミリアンが処刑されたことにより、オーストリアからの支援を得られなかった。
1870年7月19日〜1871年5月10日
普仏戦争

第二帝政期のフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争。
ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ。
(プロイセンは北ドイツ連邦と南ドイツのバーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国と同盟を結んで、全ドイツを挙げて戦争に望んだ

戦争はスペイン王位継承問題でプロイセンとフランスの対立が最高潮に達した時に発生。
野戦砲と鉄道輸送を巧みに活用したプロイセン軍の精強さは、ドイツ国境に侵攻したフランス軍を叩きのめした。

防戦一方となったフランス軍は1870年9月2日にセダンの戦いで包囲に置かれ、10万人のフランス兵と皇帝ナポレオン3世が降伏。が、この後も普仏戦争は続いている。

1871年5月10日 フランクフルト講和条約が締結され、正式にフランスはプロイセンに降伏。
   


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