ドイツについて。大まかな歴史の流れ。

まとめるのが面倒なので文章になってます。

紀元前58年から51年までのガイウス・ユリウス・カエサルのガリア遠征などを経てゲルマン人は傭兵や農民としてローマ帝国に溶け込んで行き、紀元後375年には西ゴート族の移動を初めとする大移動によって現在のヨーロッパに定着したと言われる。

紀元前27年 共和制ローマからローマ帝国へ。
378年 ゲルマン民族がローマ帝国領内に侵入。
395年 東ローマ帝国と西ローマ帝国が成立。

476年 西ローマ帝国の滅亡。
  ケルト系民族を北方に追いやったゲルマン人は各地に王国を建てていき、
481年 フランク王国建国。フランク王国が統一される。

843年のヴェルダン条約によってフランク王国が分割され東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国が成立。
三分割されたうちの1つである東フランク王国は、後の神聖ローマ帝国からドイツに繋がっていく。

(西フランク王国は後のフランスに相当。中フランク王国は後にイタリアに集約され、神聖ローマ帝国時代には、皇帝にイタリア王位として兼任される様になる。)

東フランク王国はドイツ王国とも呼ばれるようになり、また神聖ローマ帝国が成立するまでは、ドイツは東フランク王国の政体のままだった。

西フランク王国は987年、中フランク王国は950年頃、東フランク王国は911年に断絶した。

日本は平安時代辺り
(794年〜1185年)

神聖ローマ帝国 : (962年〜1806年)

962年  東フランク王国から神聖ローマ帝国へ。帝国と呼ばれる連合体を形成する。

中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。首都はなかった。

帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国や当時のオーストリア大公領・ハプスブルク家支配地域、プロイセン王国などのドイツ諸国家が成長していった。

神聖ローマ帝国は当初、ドイツ王兼イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。

1032年にブルグント王国の王家が断絶すると、1006年にブルグント王ルドルフ3世とドイツ王ハインリヒ2世の間で結ばれていた取り決めにより、ドイツ王・イタリア王はブルグント王も兼ねることとなる。
ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。

13世紀半ば、皇帝不在の大空位時代を迎えて皇帝権が揺らぐと、ブルグントとイタリアは次第に帝国から分離する。

皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するが、その後も、北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった。

19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、フランスの属国的なライン同盟に再編された。
帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。

末期には「ドイツ帝国」とも呼ばれ、1806年の帝国解散の詔勅はこの名で発布された。
平安時代辺り
(794年〜1185年)

鎌倉時代辺り
(1185年〜1333年)

室町時代辺り
(1336年〜1573年)


ここからドイツ騎士団

ドイツ騎士団の前身
エルサレム王国がアイユーブ朝の攻勢の前にパレスチナの領土を失いつつあった12世紀後半、第3回十字軍の一員としてパレスチナに赴いたドイツ出身の戦士たちを保護するため、ドイツ北部の港湾都市のブレーメンやリューベックの貿易商が資金を提供してアッコンに設立したエルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会

1088年 神聖ローマ帝国において第二回ヴォルムス帝国議会開催。
1096年 第一回十字軍開始。
1099年 イスラム教徒を破りエルサレムを占領。エルサレム王国が誕生。第一回十字軍終了。
1147年 第二回十字軍開始。〜1148年 第二回十字軍終了。
1187年 イスラムの戴いた王サラディンによってエルサレムが陥落。
1189年 第三回十字軍開始。アッコン包囲攻城戦開始。
1190年 リューベックとブレーメンの市民の作った野戦病院がシュバーベン公フリードリッヒによって正式な病院として承認される。エルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会設立。

1191年にローマ教皇クレメンス3世によって公認され、教皇庁の保護下に置かれたが、1198年に騎士身分出身の騎士修道士を中心として聖堂騎士団を模範とし、総長を頂点とする騎士修道会に再編成された。
1199年 ローマ教皇インノケンティウス3世はドイツ騎士団を騎士修道会として公認した。
日本は鎌倉時代辺り
(794年〜1185年)

ドイツ騎士団 (正式名称は、ドイツ人の聖母マリア騎士修道会)

ドイツ騎士団はパレスチナのキリスト教勢力の後退とともに、活動の場をパレスチナに見出すことができなくなった。
そこで、1210年に第4代騎士修道会総長になった騎士ヘルマン・フォン・ザルツァはハンガリー王アンドラーシュ2世の招きに応じて翌1211年にハンガリー領に移り、同国王からトランシルヴァニア(現ルーマニア領)のプルツェンラントをドイツ騎士団の所領として付与され、周辺のクマン人に対する防衛を担った。

これが後に、聖地の防衛者ではなく異教徒に対する尖兵としてのドイツ騎士団の性格を決定付けることになった。

ヘルマン・フォン・ザルツァは、やがてハンガリー王国の従属から離れ、ドイツ騎士団の国を創り上げようとした。
1224年、ザルツァはローマ教皇ホノリウス3世にプルツェンラントをハンガリー王国から切り離させ、教皇支配地とすることを要請し、教皇に教皇直轄領と宣言させることに成功。
しかしこの動きに激怒したハンガリー王アンドラーシュはローマ教皇の命令を無視し、1225年に騎士修道会をトランシルヴァニアから追放した。

日本は鎌倉時代辺り
(1185年〜1333年)

ドイツ騎士団は本拠地を再び失いつつも、ドイツ騎士団の国を創り上げる3回目の試みは成功した。

1225年の暮れ、今度はポーランドのワルシャワ周辺を中心に勢力を持つマソヴィエン公コンラート1世マゾヴィエツキに招かれ、バルト海南岸の異教徒からクルムラントの防衛を担うよう要請される。

ハンガリーでの失敗に懲りたザルツァは周到に準備を行い、神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世と交渉。
1226年のリミニ金印勅書で騎士団に「クルマーラントとプロイセンラントにおける領邦主権者」としての法的地位を認められた
(これは異教徒の先住プロイセン人の土地を征服、領有する権利を保証するものである。)

1230年にはローマ教皇グレゴリウス9世から、異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖うことができる救済行為であるとして、武力によるキリスト教化を正当化する教勅を与えられ、満を持して先住プロイセン人の土地の征服に着手する。

騎士団は1283年まで50年以上を費やして徐々に征服地を広げ、原住民に異教の信仰を放棄させた。
さらに征服した土地にドイツ人の農民が次々と入植し、ドイツ式の農村が建設された。
この圧力の前に先住プロイセン人はドイツ人やポーランド人に同化し、民族語である古プロイセン語も消滅に向かった。

ドイツ騎士団は本拠地をマリエンブルク(現マルボルク)に置き、選挙で選ばれる総長を統領として宗教的共和国とも言える統治体制を築いた。

日本は鎌倉時代辺り
(1185年〜1333年)

14世紀後半に入ると、騎士団の専権的な支配は在地勢力や都市、地方領主などの反感を買うようになり、彼らはポーランド諸公国が統一されて誕生したポーランド王国を頼るようになった。

ポーランド王国もまた騎士団が神聖ローマ皇帝の権威を後ろ盾にポーランド国王の権威を蔑ろにし、ポーランド北部のクヤーヴィ、ポモージェ、ドブジュンの諸地方を横領、マゾフシェにも触手を伸ばしている状況に対して敵対心を募らせていた。

1382年、ハンガリー王とポーランド王を兼ねたラヨシュ1世(ルドヴィク1世)が没し、9歳の娘ヤドヴィガがポーランド女王となると、その夫としてリトアニア大公ヨガイラに白羽の矢が立った。
1385年 ヨガイラはキリスト教に改宗、ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王ヴワディスワフ2世として即位した。
リトアニアの改宗により、バルト海南岸のキリスト教化をもって存在理念としてきた騎士団国家は存立の危機となった

1410年7月15日 タンネンベルクの戦い。ドイツ騎士団はヴワディスワフ2世率いるヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合王国とのタンネンベルクの戦いに大敗を喫し、西プロイセンを失った
日本は室町時代辺り
(1336年〜1573年)

15世紀のドイツ騎士団は、強大なポーランド・リトアニア連合の脅威に晒される。
騎士団は復権に向けて様々な努力を行うが、ポーランドによってただ圧倒されるばかりだった。

騎士団領の商業都市はポーランド王国から直接の庇護を得ることによって騎士団からの独立自治権を獲得していた。

1440年3月14日 ドイツ騎士団に対抗することを目的としてプロイセン地方の20の都市と貴族や僧侶53人が合同してに結成された、ポーランド人とドイツ人のプロイセン連合が誕生する。

1444年11月10日 ヴァルナの戦い。ポーランド・ハンガリー王ヴワディスワフ三世が組織したヴァルナ十字軍最初の戦い。(ポーランド、リトアニア、ハンガリー、ドイツ騎士団、神羅、ローマ連合、他 対 オスマン帝国の戦い)
オスマン帝国がキリスト教国連合軍を敗退させた。ハンガリーとポーランドが同君連合を解消。

1454年〜
1466年 十三年戦争開始 (ドイツ騎士団 対 プロイセン連合、ポーランド・リトアニア連合の戦い。プロイセン連合側の勝利)

1457年 本部をマリエンブルクからケーニヒスベルクへ移転させる。

1462年 プックの戦い
 (ドイツ騎士団 対 プロイセン連合の戦い。プロイセン連合の勝利)

1464年 エルビング海戦
 (ドイツ騎士団 対 プロイセン連合。プロイセン連合の勝利)

1466年の第二次トルニの和約により、騎士団は大都市ダンツィヒや首都マリエンブルクを含む東ポモージェをポーランドに割譲し、残る領土はわずかにケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンのみとなった。

1497年 ポーランド王の対トルコ十字軍に参加

しかも、東プロイセンもポーランド王の宗主権の及ぶ地域と定められ、騎士団総長はポーランド王と封建関係を結ぶ臣下となった。
これによってプロイセン連合はドイツ騎士団に対抗するという役割を終えたため解散した。

1519年 ポーランド・ドイツ騎士団戦争開始 (ドイツ騎士団 対 ポーランド)

1521年 ドイツ皇帝カール五世の斡旋により、トルンでポーランドと休戦条約を結ぶ。ポーランド・ドイツ騎士団戦争終結。


1510年、総長に選ばれたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、1523年にマルティン・ルターと面会して感銘を受け、支配下の騎士とともにルター派に改宗。
こうしてカトリック教会の騎士修道会国家は歴史的な役割を終える。

1525年、ポーランド王国の宗主権下に、ホーエンツォレルン家を世襲の公とする世俗の領邦であるプロイセン公領に変わった。

※  騎士団国家の消滅後も、騎士団自体はドイツ南部に持つ封土を中心に、カトリック教徒のドイツ人によって保持され、ヴュルテンベルク地方で主にハプスブルク家の成員を総長として続いた。その後、騎士団は1809年に世俗的な領土を失い、第一次世界大戦でハプスブルク家の後援が断たれたが、騎士団は一種の慈善団体となり、現在も存続している。

日本は戦国時代辺り
(1467年〜1573年)


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