紀元前58年から51年までのガイウス・ユリウス・カエサルのガリア遠征などを経てゲルマン人は傭兵や農民としてローマ帝国に溶け込んで行き、紀元後375年には西ゴート族の移動を初めとする大移動によって現在のヨーロッパに定着したと言われる。 |
日本は平安時代辺り
(794年〜1185年) |
神聖ローマ帝国 : (962年〜1806年) 962年 東フランク王国から神聖ローマ帝国へ。帝国と呼ばれる連合体を形成する。 中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。首都はなかった。 帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国や当時のオーストリア大公領・ハプスブルク家支配地域、プロイセン王国などのドイツ諸国家が成長していった。 神聖ローマ帝国は当初、ドイツ王兼イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。 1032年にブルグント王国の王家が断絶すると、1006年にブルグント王ルドルフ3世とドイツ王ハインリヒ2世の間で結ばれていた取り決めにより、ドイツ王・イタリア王はブルグント王も兼ねることとなる。 ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。 13世紀半ば、皇帝不在の大空位時代を迎えて皇帝権が揺らぐと、ブルグントとイタリアは次第に帝国から分離する。 皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するが、その後も、北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった。 19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、フランスの属国的なライン同盟に再編された。 帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。 末期には「ドイツ帝国」とも呼ばれ、1806年の帝国解散の詔勅はこの名で発布された。 |
平安時代辺り
(794年〜1185年) 鎌倉時代辺り (1185年〜1333年) 室町時代辺り (1336年〜1573年) |
ドイツ騎士団の前身: エルサレム王国がアイユーブ朝の攻勢の前にパレスチナの領土を失いつつあった12世紀後半、第3回十字軍の一員としてパレスチナに赴いたドイツ出身の戦士たちを保護するため、ドイツ北部の港湾都市のブレーメンやリューベックの貿易商が資金を提供してアッコンに設立したエルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会。 1088年 神聖ローマ帝国において第二回ヴォルムス帝国議会開催。 1096年 第一回十字軍開始。 1099年 イスラム教徒を破りエルサレムを占領。エルサレム王国が誕生。第一回十字軍終了。 1147年 第二回十字軍開始。〜1148年 第二回十字軍終了。 1187年 イスラムの戴いた王サラディンによってエルサレムが陥落。 1189年 第三回十字軍開始。アッコン包囲攻城戦開始。 1190年 リューベックとブレーメンの市民の作った野戦病院がシュバーベン公フリードリッヒによって正式な病院として承認される。エルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会設立。 1191年にローマ教皇クレメンス3世によって公認され、教皇庁の保護下に置かれたが、1198年に騎士身分出身の騎士修道士を中心として聖堂騎士団を模範とし、総長を頂点とする騎士修道会に再編成された。 1199年 ローマ教皇インノケンティウス3世はドイツ騎士団を騎士修道会として公認した。 |
日本は鎌倉時代辺り
(794年〜1185年) |
ドイツ騎士団 (正式名称は、ドイツ人の聖母マリア騎士修道会) |
日本は鎌倉時代辺り
(1185年〜1333年) |
ドイツ騎士団は本拠地を再び失いつつも、ドイツ騎士団の国を創り上げる3回目の試みは成功した。 |
日本は鎌倉時代辺り
(1185年〜1333年) |
14世紀後半に入ると、騎士団の専権的な支配は在地勢力や都市、地方領主などの反感を買うようになり、彼らはポーランド諸公国が統一されて誕生したポーランド王国を頼るようになった。 ポーランド王国もまた騎士団が神聖ローマ皇帝の権威を後ろ盾にポーランド国王の権威を蔑ろにし、ポーランド北部のクヤーヴィ、ポモージェ、ドブジュンの諸地方を横領、マゾフシェにも触手を伸ばしている状況に対して敵対心を募らせていた。 1382年、ハンガリー王とポーランド王を兼ねたラヨシュ1世(ルドヴィク1世)が没し、9歳の娘ヤドヴィガがポーランド女王となると、その夫としてリトアニア大公ヨガイラに白羽の矢が立った。 1385年 ヨガイラはキリスト教に改宗、ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王ヴワディスワフ2世として即位した。 リトアニアの改宗により、バルト海南岸のキリスト教化をもって存在理念としてきた騎士団国家は存立の危機となった。 1410年7月15日 タンネンベルクの戦い。(ドイツ騎士団はヴワディスワフ2世率いるヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合王国とのタンネンベルクの戦いに大敗を喫し、西プロイセンを失った) |
日本は室町時代辺り
(1336年〜1573年) |
15世紀のドイツ騎士団は、強大なポーランド・リトアニア連合の脅威に晒される。 |
日本は戦国時代辺り
(1467年〜1573年) |