自分の為のメモ。

BASARA設定と合うかどうかはともかく。

政宗、小十郎、成実、綱元、喜多、小次郎。 他、家臣数名。

(年齢は当時の数え方に従って、数え年で。 満年齢にプラス1才)
(数え年とは、生まれた時点で1歳。0歳が存在しない)

伊達政宗 (だて まさむね)

1567年9月5日生まれ
   (陰暦 8月3日)

幼名 …梵天丸
通称(字)…藤次郎

片倉景綱 (かたくら かげつな)

1557年生まれ


通称(字)…小十郎

遺骨鑑定によると、
身長: 約160p。(その時代の男子としては平均的か長身な方になるらしい)
血液型: B型
米沢八幡社の神職・片倉景長の次男。

政宗の乳母の喜多は異父姉。

どうも、小十郎が生まれた時には家督は兄が継ぐと決まっていたっぽい印象なので、兄の景広とは異父兄弟になるのかもしれない。

神職の片倉家の資料が少なすぎて謎が多い。
※ 政宗は書状の中で固有名詞を略す癖があったそうで、書状の私的なものでは小十郎のことを「かた小」、自分の署名は「政」と書いてたらしい。
(原田氏は「原」と略されたり)
家督を継げない立場からか、親戚の藤田氏へ番代(跡継ぎが出来るまでの繋ぎ)に出されるも、藤田氏に跡継ぎが生まれた為、藤田氏からも出ないといけないことに。

結構、不遇な幼少時代かも。

逆境にめげずに頑張っていることを輝宗(政宗の父) の目にとまり徒小姓として取り立てられる。 (14才の時に小姓になっているという情報もあるんですが)
  伊達の三傑の一人。 「智の片倉景綱」

伊達軍の参謀総長。

軍事方面を担当。
  1570年 (14才) 伊達輝宗の小姓として召し抱えられる。

1571年 (5才) 疱瘡を患い、右目を失明。
(1572年と記しているやつもあるが)

 
1572年 (6才) 虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始まる。仏教や漢学を学ぶ。  
1575年 (9才)

1575年 (19才) 梵天丸の守り役(傅役)、近侍に抜擢。

1577年 (11才) 元服。名を藤次郎政宗に改める。後に政宗。  
1579年 (13才) 愛姫を正室にする。(結婚)
 
1581年 (15才) 初陣。  

1584年 (18才) 家督を継ぐ。

 


伊達成実 (だて しげざね)

1568年生まれ

幼名 …時宗丸
通称(字)…藤五郎


鬼庭綱元 (おにわ つなもと)

1549年生まれ

後に「茂庭延元」に名を改める。
別称:左衛門、石見、了庵

※ ゲームでは「鬼庭延元」の名前で出てきてますけど。

父と母はもともと叔父・姪の間柄であったことから、成実は母方をたどれば伊達政宗と従兄弟、父方をたどると政宗の父・輝宗と従兄弟にあたる。
(ややこしい…)
喜多の異母弟。
小十郎から見ると、異父姉の異母弟ということから、義理の兄になるらしい。(ややこしいな)
伊達の三傑の一人。 「武の伊達成実」

幼少期から政宗に使えている近侍の一人。

政宗とは主従というより兄弟のように仲が良かったらしく、政宗から成実に宛てて、「別に用はないけどこの頃逢ってないから手紙を書いた」という書状が残ってるらしい。


功績に対する恩賞の不満から政宗のもとを去り、高野山に出奔している。が、出奔の本当の原因は謎とされる。

出奔中に妻子を殺されたと言われているが、この時はすでに成実の正室は他界していて、他に妻子がいたとする資料も無いらしい。

後に帰参していることからも、不満からではなく、何か政宗を守るための裏工作での出奔だった可能性も高いっぽい。

本当に何があったんだ。

伊達の三傑の一人。

小十郎と共に政宗の傅役を勤めている。

伊達家の政治方面を担当。

政宗の失態の尻ぬぐいはほとんどこの方がされている。 政宗が二日酔いで偉い人との謁見を放棄したときも、綱元が言い訳(謝罪?)に赴いてる。

自身の細かい情報が少ない謎の多い方でもある。


父親の鬼庭良直(左月)は、 人取り橋の戦いで劣勢に立たされた伊達軍を救うための防戦の果てに戦死した名将。




1575年 (8才) 梵天丸の近侍(徒小姓)に。 1575年 (27才) 梵天丸の傅役、近侍に。
1579年(と思われる) (12才)
  元服。名を藤五郎成実に改める。
 
1584年前後に大森城主になっていると思われる  
  1585年 (37才) 人取橋の戦いで父が戦死したことにより、家督を継ぐ。
  1586年 (38才) 奉行職に就く。行政方面に優れていた人物だったらしい。


片倉喜多 (かたくら きた)

1539年生まれ。らしいが、確証が無いらしいです。





伊達政道 (だて まさみち)

1568年生まれ (1574年説と1578年説もある)
(バサラとしてなら、1574年説を押したい。母親の愛情が政宗から離れた原因として納得が出来るというか)

幼名 …竺丸
通称 …小次郎

「政道」が本当に小次郎の名であったかの確証は無いらしいですが。
小十郎の異父姉。
政宗の乳母。





政宗の弟。

1590年に急死。(23才) (17才、13才)


政宗が弟を斬った話は後生の創作の可能性が高いそうで、 死因については不明というか、謎が多い。

死後長らく勘当状態だったらしいが、何があったのか。

 ※喜多は綱元の父・良直(左月)と正室の娘で、男子に恵まれない鬼庭家に正室ではなく側室との間に男子・綱元が生まれる。

良直の短気な性格から正室(喜多の母)は良直から離縁され、その後、娘の喜多を連れて片倉家に嫁ぐ。が、皮肉なことに片倉家に嫁いだ後に男子・小十郎景綱が産まれる。

そのことから、片倉家と鬼庭家との間には多少の確執があった可能性もあるらしい。
微妙にぎくしゃくしてたとか?

母親の愛情を一身に受けて育っている。

政宗から母親の愛情が離れた原因が小次郎が生まれてかららしいとも。

小次郎の性格は、穏やかで優しく、屈託の無い性格だったと伝えてるものもある。

兄・政宗と仲が良かったのか悪かったのか、よく分からない。

 

他、SSに使いたい家臣メモ
遠藤 基信 (えんどう とものぶ) 1532〜1585。小十郎を政宗の傅役に推挙した人。行政方面に優れていたらしい。輝宗の死去した後、輝宗の墓前で自刃したと言われている。
虎哉宗乙 (こさいそういつ) 臨済宗の禅師。政宗の学問の師。
留守 政景 (るす まさかげ) 1549〜1607。輝宗の弟。政宗の伯父。(伊達政景ともいう)
白石 宗実 (しらいし むねざね) 1553〜1599。輝宗の代から仕える勇将。
原田 宗時 (はらだ むねとき) 1565〜1593。通称・左馬之助。武勇に優れ、政宗の厚い信頼を得ていた。
後藤 信康 (ごとう のぶやす)

生誕・死没は不詳らしい。知勇に優れた武将。
  (死没は不明だが、江戸初期まで生きてたっぽい。大阪夏の陣に参戦できなかったことを悲しんでたとの逸話もある)


※ 桧原城を任されていたが、政宗に「あまりに退屈なので、城主を解任して戦場に赴かせてほしい」と嘆願を出すも、政宗に拒否されてしまい悲嘆し身投げした。という逸話を持つのはこの方。

知も勇も優れていた上に人格者でもあったらしい後藤が本当にそういう死に方をしてるのか、すごく気になる。
生誕も死没も不明のままというだけあって、逸話しか残ってないというのも凄いな。

 

 

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