主従

 

 

 

 

 

 

 着物のあちこちが擦り切れ、汚れていた。しかし、それを脱ぎ着替えることも出来ないまま片倉小十郎景綱は侍医の控える部屋の前に座していた。
 体は微動だにしない。
 じっと見据える視線の先では、小十郎の仕えるべき若君――梵天丸を中心に小姓たちが忙しなく動いている。梵天丸は痛みを堪えているのか、きつく唇を噛み締めていた。それでも、じっと大人しく手当を受け、頭と足と手に包帯を巻かれている。
 彼の左目が、真っ直ぐに小十郎に向けられた。小十郎は静かにその眼差しを受け止める。声もなく、ただ視線だけを交わす。
 力強い眼光に、こんな状況でありながら小十郎は惚れ惚れとした思いにさせられた。

 この眼差しを、ずっと守ろうと誓ったばかりなのに。なんと不甲斐ないことか。

――お役御免になるだろうか。最悪、切腹沙汰か。

 小十郎を邪魔に思う者たちが動けば、そうなる可能性もあり得た。
 懐いてもらえたと油断していたということか。まだ己はこの梵天丸に試されている身に過ぎないということか。
 情けないやら切ないやらで、泣けてきそうである。

 稽古の最中に脱走されたのは、これで何度目だろうか。それでも、最近は素直に小十郎の稽古を受けていたのだ。
 何が不服だったのか。
 稽古の最中に脱走した梵天丸は、一刻ほども山中を逃げ回っていた。その間、小十郎は生きた心地がしなかった。梵天丸に何かあったらと思うと、血の気が引く思いだった。
 やっと小十郎が梵天丸を見付けたのは、崖の下でのことだった。梵天丸は足を滑らせ崖下に落ち、額を大きく切って血を滴らせながら蹲っていた――。


「こじゅうろう」
「は」
 思案に耽っていた小十郎を若君の呼び声が引き戻す。小十郎は反射で返事をしつつ、のろのろと顔を上げた。
「こじゅうろう」
 こちらへ参れ、そう言っているらしかった。
 手当が済んだのなら下がれ、と手を振って他の者たちを追いやってしまう。小十郎が思っている以上に梵天丸は元気であるらしかった。
 元気があるなら良かったと、少しだけ胸を撫で下ろす。
「こじゅうろう、そんなところで控えるな。もっと近くに来い。ここまで来い」
「は。それでは」
 梵天丸の前まで進み、頭を垂れた。
「いちいち頭を下げなくて良い。面倒くさい奴め。そんなことより、さっさとおれを抱き上げろ」
「は?」
「だ・き・あ・げ・ろ!」
「他の者を呼んで参ります」
「お前に申し付けておるのだ!」
「では、せめて着物を脱がせて頂きとう――」
「面倒くさい奴だ! そのままで良いからさっさと抱き上げろ。力が入らん。自分で立てんのだ!」
「このままでは梵天丸様のお召しものが汚れてしまいます故」
「早う、父上の元へ行かねばならんのだ。このままでよい!」
「なりませぬ」
「逆らうな!」
「そうも行きませぬ」
「うるさい!」
「うるさくて結構。輝宗様より沙汰があるまでは、まだこの小十郎、梵天丸様の傅役でございますれば――」
「……何? 沙汰があるまでは…?」
「………」
 左目を大きく見開き、梵天丸の体が強張る。小十郎は繕う言葉が咄嗟に見つからず口を噤んだ。
「沙汰とは、処罰のことか? やはり、腹を切ると申すのかこじゅうろう?」
「やはり…?」
「小姓どもが言うておったわ! 小十郎は切腹する気だと。責を感じて腹を切るだろうと」
「そのようなこと――、」
「おれを置いていくのか!? ずっと…、ずっと側で仕えると、そう申したは偽りか!?」
「梵天丸様」
「お前まで、おれを捨てるというのか!?」
 力が入らぬというのは本当なのだろう、逆上して勢いのまま立ち上がるもよろよろとして後方へ倒れかかる。慌てた小十郎の腕が梵天丸の小さな体を支えた。
「梵天丸様、この小十郎の言葉に嘘偽りはございませぬ」
「ならば、なんで…!」
 幼い瞳に宿るのは激しい怒りと、深い深い悲しみの色。
「されど、今はただ、殿のご判断を待つのが今の小十郎に出来る――」
「う、うるさい! お前が仕えておるのはこの梵天丸だ! 父上の命には従うてもおれのいうことには……!」
「今はまだ、小十郎の仕える主は輝宗様にございます故…」
「黙れ! お前の主はこの梵天丸だ!」
 支える腕から逃れようと藻掻く幼い背を、小十郎は宥めるように撫でた。
「梵天丸様、少し落ち着きなさいませ。傷に障りまする」
「触れるな! 裏切り者め! 離せ!」
「梵天丸様!」
 支える腕から逃れ、腹ばいになってでも小十郎から離れようと足掻く梵天丸の姿に小十郎が情けない悲鳴を上げる。
「梵天丸様! なんという真似を…!!」
「お前なんか嫌いだ!」
「梵天丸様、お待ちなさい!」
「付いてくるな!」
「そうも参りませぬ」
 部屋と外廊下との境目で、匍匐前進で進み続ける梵天丸の体を小十郎は抱き上げた。そこへ、聞き慣れた落ち着いた声が響く。それは優しい色を含んだ声。しかし、二人の体を瞬時に硬直させてしまうほどの威力を持つ声でもあった。

「家臣どもが騒いでおるから来てみれば。元気そうではないか、梵天丸」

「ちち、うえ…」
「…! 輝宗様!」
 梵天丸の父であり小十郎の主君である伊達輝宗の姿に、小十郎は慌てて梵天丸を下ろしその場に平伏する。
「小十郎も無事か」
「はっ!」
 安堵とも苦笑とも付かぬ笑みを浮かべ、輝宗は小十郎へと近づいた。しかし、梵天丸がその間に割って入ろうとする。左目で精一杯に父を睨んで。
「梵天丸。何をしておる」
「……」
「梵天丸」
「こじゅうろうは…この梵天丸のものだ。こじゅうろうは渡さぬ。父上でも渡さぬ」
「…!」
 梵天丸の予想だにしなかった行動に、小十郎はぎょっとして顔を上げた。
「ほう。父と争うか梵天」
「……。渡さぬ」
 いきなり始まった意味の分からない親子の争いに、小十郎は二の次が継げない。
 輝宗は梵天丸の正面に屈み込み片膝を付いた。何故か意地の悪い笑みを浮かべて。
「梵天丸よ。家督を継いでおらぬそなたに権限など無いことを忘れたか。小十郎は儂に仕える小姓であるぞ。なかなかの才を持つ故、この度はそなたの傅役に付けてやったまでの話」
 わざとらしく意地の悪い物言いをする輝宗に梵天丸は逆上する。
「こじゅうろうは、渡しませぬ。こじゅうろうに、腹など、切らせませぬ」
 怒りからか恐怖からか、震えそうになる声を梵天丸は必死に張り上げた。その体がいきなり引き倒された。
「梵天丸様、およしください!」
 小十郎は何とかそれだけを言うと、梵天丸の体を抱きかかえそのまま再び頭を下げる。
 このような真似が一国の主を前にして許されるものではなかった。輝宗が気性の激しい人物であれば、その場で斬られていてもおかしくはないのだ。
「殿、どうかこのご無礼をお許し頂きたく。全ての責はこの小十郎にあり、若君には非の無きこと故――」
「離せ! おれを除け者にするな!」
 緊迫感に満ちた小十郎の物言いとひたすら癇癪を爆発させる梵天丸の姿を見つめ、輝宗は唇を引き締めた。何かを我慢するような表情であることに、平伏し続ける小十郎は気付かない。
「……くっ、くくく…。ふはははは! 全く、仲の良い。されど、兄弟喧嘩もほどほどにいたせよ、梵天丸」
「きょう…!?」
「?」
 唐突に降ってきた笑い声に小十郎と梵天丸は唖然として見上げる。
「周りの者に何を吹き込まれたか知らぬが、人の話は最後まで聞く癖を付けい、梵天よ」
「……?」
「儂がわざわざここに参ったは、堅物の小十郎が早まって腹など切なぬよう言い付ける為じゃ。これしきのことで一々腹など切られては堪らぬからな」
「父上…?」
「そなたのような悪鬼を小十郎以外に誰が扱えると申す気か。小十郎も早まった真似はしてくれるなよ」
 梵天丸を悪鬼と呼ぶその声は、言葉とは裏腹に慈愛が滲んで聞こえた。
 まだ意味の掴めぬ梵天丸は呆然と父を見上げ、小十郎は輝宗が罪を問う気などないと言っていることを理解し、平伏したまま感極まって泣きそうになる。
 そんな二人の反応を余所に、輝宗は擦り傷だらけの梵天丸の顔に手を伸ばした。
「気が付けば、このような腕白な真似をするようになりおって」
 訝しげに父を見上げる梵天丸は、何を思ったのか頭に巻かれた包帯を解いて見せた。
「腕白というは、この傷のことでありますか…?」
 包帯の下から生々しい大きな切り傷が現れ、輝宗が呆れ返った様に眉根を寄せた。
「梵天丸様! そのような軽々しい行為はお慎みくださいと、あれほど…!」
「まあ、よい。小十郎」
 そう言い、小十郎を制した輝宗は包帯を取った梵天丸に向き直る。
「痛むか?」
 ふるふると首を横に振り、小十郎にしがみつく梵天丸。この傷は己に責がある。小十郎に責は無いと暗に言っているのだろう。それを見て輝宗は僅かな笑みを唇の端に乗せた。
「小十郎。此度の事は一切の責を感じずとも良いぞ」
「…はっ」
 またも平伏しようとする小十郎を制し、輝宗は己の意志をはっきりと表に出し始めた梵天丸に目を向ける。小十郎もつられてそちらを見た。
「これが疱瘡を患って何年経つかな。顔に残るかと思われた痘痕(あばた)は消えたが、光を失った右目は、光を失うだけに止まらず眼窩からもこぼれ落ちようとしておったわ」
「…さようでございました」
「あまりの異形さぶりに、鬼子と呼び蔑む者、嘆き悲しむ者まで出てくる始末でな」
 そう嘆き悲しんだ者の中の一人が、梵天丸の母だった。可哀想な梵天丸。もはや家督は継げぬ。家を守れぬ。そう悲嘆に暮れたのだ。
 その負の感情は、次男が誕生したことで拍車が掛かっていった。母は、次男を溺愛するようになり、梵天丸を容赦なく遠ざけた。
 幼い心で何を感じ取ったか、想像に難くない。言葉を発することが減り、人前に出ることも嫌がり始めた梵天丸。
「治療法など見つかりもせぬ。こぼれ落ちてくる眼球を元に戻すことなど不可能だと、侍医は申すばかりだ」
 光だけでなく、目としての機能も形も失った眼球を元に治すなど、どう考えても不可能だった。
 干からび、腐り落ちようとする眼球。その毒素が残った左目にまで影響を及ぼす可能性も高く。しかし、どう処置したものか周囲の者は苦悩した。
「その右目を抉り出し切り離したは、そなたであったな」
「……は、」
「小十郎。ようやってくれた。そなたも辛かったろうに」
「そのようなことは。責めは受けても褒められるようなことでは…」
「儂がせねばならぬ事だったのだ。決心が付かず、だらだら先延ばしにしておったのだ」
 何故か楽しげに呟く輝宗に、小十郎も咄嗟にどう対応して良いのか分からず、返答に窮するばかりだ。
「あれ以来、梵天丸も表に出るようになった。果てはこのような怪我まで負うてくる始末よ」
「それは、誠に申し訳ござりませぬ…」
 考えてみると、結構無茶をやりまくっている小十郎である。いつお役御免になってもおかしくない状況ではあった。よく、今まで首が繋がっていたものだ。
「これがこのように大声を出す姿を見るは、いつ以来だろうな」
 感慨深げに言う輝宗を小十郎は眩しげに見詰めた。
「…輝宗様」
「この傷が悪化して熱を出さぬとも限らぬ。よう注意してやってくれ」
「はっ」
 恭しく頭を垂れた小十郎の袖を梵天丸が控えめに引っ張った。
「梵天丸様、如何された…?」
 そう問いかけた言葉は、本日三度目の悲鳴に変わった。
「ぼ、梵天丸様! 申し訳ござりませぬ! 傷は! 傷は痛みますか!?」
 すっかり輝宗の言葉に聞き入っていた小十郎は、僅かの間ではあるが、梵天丸のことを失念しかけていたのだ。
 当の梵天丸は、傷を押さえていた包帯を取ったままの状態で、当然のように塞がってもいない傷からは新たな血が流れ出していた。
 大慌てで梵天丸の傷を保護するため包帯を巻いていく小十郎に向かって、輝宗は厳かな声を発する。
「景綱。お主はこのまま梵天丸の側に仕えよ。傅役として、近侍として梵天丸の補佐を頼む」
 通称の小十郎では無く諱の景綱の名で呼ばれ、小十郎は梵天丸の顔に巻いていた包帯から手を滑らせた。包帯がはらはらと梵天丸の足下に落ちていく。
 梵天丸はそれを不満気に見つめた。
「御意に、ござりますれば!」
 小十郎は反射で頭を下げる。その姿についに癇癪を起こした梵天丸が逃走を図った。血を滴らせながら走り去る梵天丸に、小十郎はまたも悲鳴を上げる羽目になる。


 屋敷のあちこちを血で汚して走り回る梵天丸を捕まえた時、屋敷内は様々な悲鳴に包まれていた。
 鬼子だ悪鬼だと陰で囁かれていた若様が顔から血を流して走り回るのだから、それを不運にも目撃してしまった者は当然のように悲鳴を上げていた。
「力が入らないから一人では立てないと、そうおっしゃっていたのは何だったのです…!」
 予想以上の逃げっぷりに、小十郎も本気で怒りを露わにする。
「ご自分の状態をお解りなのですか! その傷が悪化でもすれば、致命傷になるやもしれないのですぞ!」
「致命傷になんかならぬ。こじゅうろうが腹切るようなことにはならぬ」
「―――っ」
 ふて腐れ、ふいと顔を背けてしまった梵天丸に、しかし、小十郎はそれ以上怒ることが出来なくなっていた。
 それどころか、顔が緩みそうになる。
 言葉や態度の端々に垣間見える梵天丸の心に、小十郎はどうしようもなく愛しさを感じてしまう。
 甘え方を知らなかった子供が、必死に甘えようとしているのだ。
 何に代えてもそれに応えてやりたい、否、応えたいと思う自分がいた。
「梵天丸様。何故お逃げになるのか、それだけでもお聞かせ願えませぬか」
 声を抑え、優しく問いかけた。
 ふて腐れた表情は変えぬが、梵天丸は小十郎に視線を向けてくる。
「こじゅうろうが…。……こじゅうろうは、父上にばかり懐く。おれに仕えているというくせに、父上にばかり懐く」
「…………」
 抱きしめても良いだろうか。
 そんな立場もわきまえない思いが沸き上がる。
 思いっきり嫉妬されていたらしいことに今更ながら気付かされ、何と答えようかと迷ってしまった。思わず片手で口元を塞ぎ視線を彷徨わせた。
 嬉しすぎる。
 含み笑いを見せる小十郎に気付いた梵天丸が再び癇癪を起こしかけた。
 左目で真っ直ぐに小十郎を睨んでくるのだ。射抜くような眼差しを小十郎に向けるのである。
 強い眼差しだった。
 決して生きることを諦めようとはしなかった強い瞳。

 侍とは、主君に仕えてこそのもの。

――この身が滅ぶその時まで、この方に仕えお守りすることを、今ここに新たに誓おう。

 そっと梵天丸の右目の位置に手を添えた。この孤独が少しでも和らげばいい、そう願いながら。
 びくりとして仰け反る梵天丸の体を捉え、そのまま腕の中に抱き留める。まるで泣きわめく子供をあやすように宥めるように、その背を撫でた。
 梵天丸の着物もすっかり血で汚れてしまっているため、今度は小十郎も遠慮はしなかった。
「梵天丸様」
「何だ」
「この小十郎は輝宗様のお計らいで徒小姓に召し抱えて頂きました」
「知っておる」
「元服も輝宗様によって出来たこと」
「…うん」
 何を言い出すのだろうと、梵天丸は怪訝そうに小十郎を見やる。
「元服の折には帯刀も許され、武士として生きていく道も作っていただいた。その上、この小十郎に生涯を掛けてお仕えする主君までも与えてくださったのです」
「…うん」
「それ故、この小十郎は輝宗様には返しきれないほどの恩義がございます」
 主はあくまでも輝宗だと、そう言われるのかと思い、梵天丸は唇を噛み締めた。どう足掻いても、結局、何一つ手に入らないのか。
 小十郎の手が梵天丸の髪を優しく梳く。梵天丸は泣きたくなった。
「輝宗様は、恩義は梵天丸様を立派に育てる役目をもって返せと、そうおっしゃられた。梵天丸様の側を離れるなと仰せくださった」
「それでも、こじゅうろうは父上に仕えておるのだろう…」
「今はまだ、小十郎の主は輝宗様にございますれば。なれど、この小十郎が生涯を掛けてお仕えするは、梵天丸様ただ一人でございます」
「……」
「早う、立派になられて家督をお継ぎになり、この小十郎の真の主とおなりくださいませ。小十郎が仕える主に迷う必要がなくなるよう、立派な殿におなりくださいませ。それが、今の小十郎のただ一つの望みでござりますれば」
「こじゅうろうは、梵天丸のもので良いのか?」
「御意のままに」
 抱き込んでいた腕を放し、小十郎は梵天丸の膝元へ頭を垂れた。忠誠を誓うと、そう態度で表したのだ。
 梵天丸は、初めて心から気を許したように、晴れやかな笑みをその口元に浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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08.8.28

書きたかった話が一部分裂していき、残りの部分で書いたらこんな感じになってしまった。
もうちょい重くしても良かったか…。