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視界の全てが赤かった。
地を濡らすぬるぬるした赤もあれば、空を染め熱を放つ赤もあった。
どうやら自分は立ち竦んでいるらしい。足が動かない。
体に衝撃が走った。
気が付くと、自分はどこかに倒れ込んでいる。納屋と思しき場所。見える天井もまたやはり赤に包まれていた。
誰かが自分の上に覆い被っている。きつく抱きすくめられる。
――泣いちゃ駄目。
そう声が聞こえた。
泣く? 誰が?
自分の手を見る。手もまた赤かった。ぬるぬるした赤だった。温かい、赤。それが自分の上に覆い被さっているものから流れ出している赤だと、ようやく理解できた。
「――――……ッ」
目の前には見慣れた天井。
いきなり景色が変わったように感じて土方は目をしばたいた。
夢と現の境が一瞬分からなくなっていた。両手を左右に思いっきり伸ばすと布団の手触りがあり、その向こうには畳の感触。住み慣れてきた屯所の自室だと把握する。
上体を起こすと、どっと汗が噴き出すのを意識した。
「くっそぅ。昼間の話のせいか、これ。原田の野郎が妙な話を振りやがるから…」
立てた両膝に額を押し当て大仰に溜め息を吐き、ガシガシと頭を掻きむしる。
「あー…、ちくしょう。気分悪りぃ。原田の野郎、ぜってぇシメる」
もう一度、大きく息を吐いた。すっかり意識が覚醒してしまっていた。もう眠る気がしない。
のそのそと布団から抜け出し、羽織を着て障子を開け縁側へと出た。縁側から中庭が見える。屯所の中庭はちょっとし た庭園風に造られており、そこは闇と月明かりとのコントラストによって美しく彩られていた。
これで気分が良ければ一句詠みたいところだ。生憎と気分は最悪なので無理であったが。
縁側の端に座り込み、煙草を咥え火を付けた。風に流されていく煙を、ぼんやりと目で追っていく。
「十四郎…ね」
十四番目の子。本当に分かりやすい名前だ。
親がいなくなった後、親代わりとして面倒を見てくれていた三女、順番で行くと五番目の姉は「のぶえ」といったように思う。しかし、十一歳上の姉は順番で行くと八番目で名は「八重」だった。上の兄姉たちはそれなりに考えて名付けられているように思うのだが、どうも途中から適当に名付けてないか、と思うことがある。
面白がって付けてくれたのか面倒になって適当に付けてくれたのか、今となっては知る手段も無いのだが。
煙草を咥えたまま、夜空に架かる半月を見遣る。
風が強い。雲が月明かりを遮っては追い払われていく。忙しいことだ。
「うわっ、びっくりした。…何やってんの、トシ?」
「あぁ?」
緩慢な動きで声を掛けられた方向に顔を向ける。足音と気配には気付いていたので、驚きはなかった。
近藤の方は本当に驚いていたらしくぽかんとした顔で立っていた。
真選組の局長に収まった野郎のする顔かよ、と土方は微苦笑を浮かべる。
「何って。月見?」
「えー…? 月見って、この風で? しかも半月じゃん」
「別に半月で月見したっていいだろ」
「そりゃまあね。個人の勝手ですけどぉ」
何、拗ねた声を出してんだか。
「そういうアンタはこんな夜更けにどうしたよ?」
「俺? 俺は厠」
「厠は逆方向だぞ」
「えぇぇ? うっそぉぉ?」
「いい加減、この屋敷の造りにも慣れろよ」
再び土方は苦笑を零す。
まあ、確かにこの屋敷を含め、真選組屯所の敷地は贅沢すぎるほどに広い。しかし、いずれ権力を強くし隊士の数も増えていくだろうことを考えると、これくらいで丁度良いとも思う。思うが、真選組としてこの屋敷に移り住んで早一ヶ月
。未だ、屋敷内での迷子者が続出していた。
そして、迷子の筆頭が局長の近藤だったりする。
「俺、来た道戻んなきゃいけないのぉぉぉ?」
「頑張って厠まで辿り着きな」
「トシ、付いてきて。夜の屯所、超怖い」
「はああああああ!?」
恥も外聞も有りはしない。というか、妙な言い方するなと怒鳴りたい気分に陥る。怖いとか言うな。その手の話は近藤以上に土方は苦手としているというのに。これから、夜一人で動けなくなったらどうしてくれるんだ。
「トシ、厠どこ?」
「一人で行けよ!」
「やぁだぁぁ!」
「ガキか、アンタは!」
「ガキでいいもん!」
「よかねぇよ!」
土方の腕に縋り付き離さないという態度に出た近藤に、土方は「はぁぁぁ」と露骨な溜め息を吐いて見せた。
近藤が沖田にとことん甘いように、土方は近藤にとことん甘い。こればかりは、本当にどうしようもないのかもしれない。
「なぁ、トシ」
「しゃべってねぇで済ませるもんをさっさと済ませろよ!」
結局、厠まで付き添うことになり、土方は厠の扉の前に座り込み待機中である。近藤は用を足しながら外の土方に話し掛けようとして怒られていた。
しばし静かになり、水の流れる音がして近藤が厠から出て来た。
「なぁ、トシ」
再び、近藤が同じように問い掛けてくる。今度は「何だよ」と応じた。応じたものの近藤は何も言わない。仕方なく、 土方はその場から立ち上がった。
「用が無いなら戻るぞ」
そう言って近藤に背を向け歩き出そうとした背中に、いきなりずしりと重みを感じた。そして、その重みに耐えきれずに土方はその場に潰されてしまう。
「何だよ!? 何の真似だ? っつうか重てぇんだよ」
近藤の下から這い出ようとしながら文句を言えば、近藤は思案深げな顔で唸っている。
「退けよ。人の上で考え事すんな!」
何なのだ、いったい。
「なぁ、トシ」
「だから、何だ!?」
「何でもさ、俺には言ってくれよな?」
「それ、人を潰しながら言うセリフか?」
言っても近藤は土方の上から退こうとしない。
腕力にものを言わせて土方は上半身だけでも持ち上げた。
「うおっ? すっげぇ力」
感心した声を上げる近藤を振り落とそうかと思ったが、少々重すぎて無理だった。持ち上げるだけでそれ以上は動かない。
「頼むから退いてくれ。マジで重い」
腕が限界である。ふるふると震える腕がついに力尽きてその場に再び潰れる。
「トシ。泣きたい気分になったら肩でも貸すからさ、何でも言ってくれよな」
だから、人を潰しながら言うセリフなのか、それ。
突っ伏し、完全に脱力すると、ようやく近藤が土方の上から退いた。
「殴っても良いか?」
俯せたまま土方が低い声を出す。
「良いけど、避けるよ」
ムカツク。何なんだ、本当に。何でこんなにムカツクんだよ。
完全に力を使い果たした気分だった。もう、起き上がるのも面倒になってきた。
「トシぃ。大丈夫か? こんなところで寝たら風邪引くぞぉ?」
誰のせいだ!?
そう思うものの突っ込みの声を上げるのも面倒だった。じっと俯せていたら「よいせ」という妙な掛け声と共に体を担ぎ上げられる。
近藤の手によって軽々と肩に担ぎ上げられていた。
「なっ!? ちょっ、待て。降ろせって」
何か凄くショックだ。近藤に比べれば確かに土方は細身ではあるが、それでも体付きは武闘派らしく筋肉質である。それを軽々と。かなりショックだ。ちょっと立ち直れないくらいにショックだ。
「さっきから、何の真似だよ!? 何がしたいんだ!?」
降ろせと言っても降ろしてくれず、「こっちの方向で良いんだよな?」などと言いながら局長室と副長室のある棟へと戻って行く近藤に土方は抵抗を続ける。
「いや、何かさ、スキンシップが足りないかなぁと思って」
「何のスキンシップだ!? これのどこがスキンシップだ!?」
何でそんなものを求められるのか、さっぱりである。
「トシ、今日は何か元気無かったじゃん。しかも、夜中に一人で月見とかしてるし」
「元気無いって何のことだ? 俺は別に落ち込んでた覚えはねぇぞ? あと、一人で月見したって良いだろうがっ」
「元気無かったじゃん」
「だから、いつもと変わりねぇって。っつうか、いい加減降ろしてくれ」
何度言っても近藤は土方を降ろそうとはせず、ジタバタ藻掻いている内に副長室の前へと到着してしまった。そこでやっと解放されたが、何か本当にもう立ち直れない気がした。
「っとに、何だっていうんだよ…」
近藤はまだ文句を言おうとする土方の頭を捕らえると、肩へと抱き寄せわしゃわしゃと髪を撫で回した。
「だから、何なんだよ?」
「なぁんかさ、泣きたいのかなぁって」
「……なん…?」
呆気に取られ固まる土方を放置して、近藤は生真面目な顔で髪を撫で回し続けていた。
「泣けない?」
泣かせたいのか?
ああ、この男は理屈で動く男じゃなかったなと思い出す。
頭で考えるよりも先に本能のみで察知して動いてしまう男だと思い出した。理屈は全て後付なのだ。
「生憎、こんなんじゃ泣けねぇな」
近藤の肩に額を付けたまま大きく息を吐く。自然、苦笑じみた笑いが口元を掠めた。近藤が肩を竦めるのが分かった。
近藤の言うように、泣きたかったのだろうか、自分は。
よく分からない。ただ、もうそういう感情は無くなってしまったように思う。
「やっぱ駄目?」
「無理」
あ〜あ、と近藤が溜め息を吐いた。
ようやく、近藤が土方から手を離した。残念そうに溜め息を吐いた割りには、近藤は満足そうに笑っていた。
「まあ、いいや。トシがちょっと元気になったし」
また勝手なことを言って勝手に納得している近藤に土方は呆れた顔をする。
「どこで元気だ元気じゃないだと判断してんだよ?」
「えー? なんとなく? 空気?」
何だそれは。
今度こそ、本気で呆れてしまった。呆れすぎて笑いが出た。
08.1.2
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やっと次から過去話に入れる。
本題に入るまでが長げぇよ…。
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