※ 11月上旬の話。

 

 


独り

 

 

 

 

 

―― おかあさん、どこ?

 そこはあまりに綺麗で、綺麗すぎて、見た瞬間に背筋がぞっとした。

 これが、あの子の、菜々子の心の内が作り出した世界なのか。

 あまりの綺麗さに、酷く泣きたい気持ちになった。

―― おかあさん、どこにいるの?


 やめてくれ。頼む、菜々子を連れて行かないでくれ。






「大丈夫か? おい、立てるか?」
 声に顔を上げれば、陽介が困惑しきった顔でこちらを見つめてきていた。
 悪い、そう呟いて、立ち上がろうと足に力を入れる。

 立ち上がる?

 いつの間にか地面に膝を折っていた自分の姿勢にやっと気付いた。

「菜々子…」

 全て自分の過失だと、恭弥は己を呪いたくなる。こうなる事が分かっていたはずなのに、菜々子を一人する状況を作ってしまった。完全に油断があったのだ。だから、遼太郎の前で脅迫状を広げるという失態を犯した。
 もっと慎重であるべきだったのに。犯人に辿り着けると、そう思ったことで油断が生まれてしまっていたのだ。

「今日は、一旦引き上げよう。それで、明日、一気に菜々子ちゃんを救い出す。それで良いよな?」
 陽介が確認するように見つめてくる。
 そうだった。そういう話になっていたんだったか。

 明日、必ず。

 黙って頷けば、仲間たちの安堵の溜め息が聞こえてくる。考え無しにこのまま一人で突っ走って行きかねないと思われていたようだ。そんな表情を、空気を醸し出していたのだろう。

 こんな時でも状況を冷静に分析しようとする自分に、自嘲じみた笑いが零れる。

「とにかくさ、明日に備えて、今は早く戻ろう?」
 千枝の声がする。
 周りで皆が頷く気配がした。






 叔父の遼太郎は入院、菜々子はテレビの中。

 帰る家には、今は誰も待っていない。

 家の前まで来て、やっとその事実に気付く。冷静のようであって、実のところそれほど冷静さを保っていた訳ではないのかもしれない。

 今日で何度目になるか分からない自嘲じみた笑いが口元を掠める。

「は、はははは…」
 玄関のガラス戸に手を付く。がしゃがしゃという戸が揺れる音が響いた。

 何をしているのだろうか、自分は。

 玄関の戸を開けようとしたが、手は動かない。手が、動かない。

『あ、やっと帰ってきた。お帰りなさい、お兄ちゃん』

 いつ戻っても、どんなに遅くに戻っても、そう言って笑顔で出迎えてくれていた少女。

 誰かに「お帰り」と言って貰える事が今まであまり経験をしたことが無かったせいで、始めの頃は慣れなくて気恥ずかしい気分になっていたのに。
 いつの間にか、その言葉に慣れていた。当たり前の環境になっていた。

 恭弥の両親は共働きで、母も会社で役員を務めるような人材で。幼い頃から一番最初に家に戻るのは恭弥であって、 常に恭弥が両親を出迎える立場だった。

 菜々子が喜んでくれるので時折だが振る舞っていた手料理でさえ、料理の出来ない親の代わりに覚えたようなものだった。

 キャリアウーマンを絵に描いたような母は、明るくて活発な人だが家事のセンスは壊滅的なものだったのだ。父の方がやり方は大雑把でも少しはマシでこなせたほどで。
 大げさに言えば、料理は生きるために覚えたに過ぎない。
 そうは言っても、仕事人間な両親が嫌いな訳では決してなかった。仕事ばかりで家庭を蔑ろにするような人たちではなかったし、何とかして出来る限りの事はしようと努力していた事を子供ながらに理解していたせいかもしれない。
 そんな母も、必死だったのか、こっそり夜中に料理をしようとした事もあった。その時はどうやら弁当を作ろうとしていたらしい。
 結果は、豪快に具材を焦がした挙げ句にぼやをおこしかけて、恭弥が叩き起こされる羽目に陥っただけだったが。

 誰かが待ってくれている家。ほんのり胸が温かくなる感触を、ここに来て初めて味わった。
 どんなに遅くなっても、ちゃんと帰ろうと思わせてくれる存在。それが、どれほどに癒されることか、救われることか。

 以前に遼太郎が家というものを語って聞かせてくれたが、それを今やっと理解出来た気がした。

 ガラス戸に背を向け、もたれ掛かる。
 冬の夜空は凜と澄んでいて星が綺麗だった。まるで、菜々子の作り出した世界のように。
 そう思った瞬間、ぞっとなって、思わず両肩を掻き抱く。
 そのまま、ずるずると玄関の前で座り込んでしまった。

 今、この家には、誰も待っていない。
 家の奥に明かりは点いたまま。菜々子が連れ出された状態のままなのだろう。
 明かりは点いているのに、あの子は待っていない。

 不意に、この町を訪れた日に、奇妙な空間で出会った奇妙な人物の言葉が脳裏に蘇った。


―― 今年は貴方にとっての転機となる年。

―― 謎を解き明かさねば、貴方の未来も閉ざされるやもしれません。


 未来が、閉ざされる。

 どういう意味なのか、ずっと深く考えないようにしてきた。あまりに漠然とし過ぎていた。
 しかし、今、菜々子が姿を消して、初めて、あの時の言葉に恐怖という感覚を覚えた。

 伸し掛かる重圧。
 それがあまりにも重いことに、今ごろ気付く。認識する。
 その重さに、気を抜けば潰されてしまいそうだった。

 唐突に、息が出来ないと感じた。体を折り、胸元を掻きむしるようにして空気を求めるが、自分の体は上手く酸素を取り入れてくれない。


「おい! 大丈夫か?!」
「センセイ、すっごい顔色クマー!」

 その瞬間、ふっと自分を取り巻く空気が軽くなった。
 酸素が一気に肺に入ってくる。 逆に過呼吸になりそうになり、激しく咳き込み地面に手を付いてしまう。

「うわー、もうマジで来て正解じゃんよ」
「センセイー!」
 耳元で聞こえていたはずの陽介とクマの声が一瞬、遠退きかけた。

「ちょ、待て! ホントに待って! こんなところで気を失うのは止めて! お前、自分の体格を考えろ。俺にはお前 を抱えて家に上がるなんて無理だかんな! マジでここでは止めて!」

 陽介の必死な声に、場違いにも笑いが零れた。
 まだ、笑う余裕があるのか。そんなことすら思った。

 こんなところで立ち止まってどうする。菜々子は、今もあの世界で一人、怖い思いをしているというのに。助けを待 っているというのに。

 菜々子を、必ず助け出す。
 未来を閉ざさせたりしない。誰の未来も。

 足に力を込め、立ち上がろうとガラス戸に手を置き支えに使う。陽介が横から手を貸してくれた。

「大丈夫か?」
「悪い。みっともないとこ見せた」

 一気に思考が回り始める。
 何故、ここに陽介とクマがいるのかも、粗方の予測は付く。陽介たちが様子見の為に足を運ぼうと思わせる程に、自分は危うい空気を纏っていたのだろう。

「センセイー…」
「クマもありがとう。でも、もう大丈夫だから」
「それのどこが大丈夫だというのですか、センセイ」
 答えたのはクマではなく陽介だった。その口調からすると、強引にでも一緒に上がり込むつもりらしい。人の顔色を気にする傾向の強い陽介にしては珍しい態度だ。しかし、陽介にそんな行動を取らせたのも、自分なのだと理解していた。

「本当に、もう大丈夫だから」
「殴るぞ、お前」

「……」

 怒気を孕んだ陽介の声。
 思わずその顔を見つめた。

「お前のせいじゃないんだ。誰のせいでも無い」

「……分かってる」
「分かってない」
「……」
「こういう時まで全て一人で背負い込もうとすんじゃねぇよ。何の為の相棒だってんだよ、俺」
「…悪い」
「謝るな」
「…難しい要求ばかりするんだな」
 言いながら、僅かな苦笑が浮かぶ。陽介は依然、怒った様な顔つきだ。
 言葉が続かず、二人して黙り込む。

 クマがおろおろと動き始め、 「クマはセンセイと一緒に寝ることに決めたクマー」 と控え目に宣言してくれた。

「俺もそうする」
 そう続けるのは陽介で。
「…いや、」
「悪いが、”一人になって考えたい”というのは、菜々子ちゃんを助け出した明日以降に延ばしてくれ」
「……いやに先回りしてくるね、今日は。何で、一緒に寝るわけ?」
「一緒にいた方が良さそうだから。…いや違うな。俺が今日は一緒にいたいから。お前の側を離れたくないと思ったか ら」
「そうなんだ」

 何が、そうなんだ、なのか分からないが、陽介もクマも引くは無いようなので、こんなところで押し問答をするよりも好きにしてもらう方が良いのだろう。

「やったクマー」
「ついでに、三人分の弁当も持参だから、これから飯食うぞ」
「はははは…、準備万端じゃないか」
「相棒やってますからね」

 陽介の返事に微苦笑を浮かべ、恭弥は家の戸を開けた。

 居間にはあまりいたくなくて、恭弥は自室に陽介とクマと共にいた。

 食いたくなくても食え、と怒られて恭弥はもそもそと陽介の持って来たジュネスの惣菜弁当を食べた。

 明日は日曜日だから、朝から集合な。
 そう言って、陽介は毛布を掛けながらソファに横たわる。そこにクマが「クマがソファで寝たいクマー!」と陽介を 押し退けソファから落としていた。
 二人してしばらく言い合いをしていたが、その内に陽介が折れて恭弥の方へとやってくる。

 いつでも揉め事が起きそうになると、真っ先に折れるのは陽介だなと、ぼんやり見つめながら思った。
 場の空気を読むにしても、読み過ぎな程だ。

「寒いから、そっちに俺入れて」
 と恭弥の布団に潜り込もうとする陽介に、恭弥は薄く笑った。
「陽介は、優しいな」
「へ?」
 布団の中で丸まって寝ようとしていた陽介が、きょとんとした顔で見つめてきた。
「優しいな」
 もう一度言うと、何故か蹴飛ばされ、布団から追い出された。

「ちょっと。それ、俺の布団」
「俺はもう寝てますー」
「寝てる人が返事しません」
 そう言って、掛け布団を奪い取り陽介の隣に体を横たわせる。
「さむっ! 少しでいいから分けて!」
 再び陽介が潜り込んでくる。
 今度は大人しくさせるがままにしていた。
 丸まって寝る癖があるらしい陽介を眺め、恭弥は笑みを深くする。可愛いな、などと言ったらまた蹴飛ばされるのだろう。

「あー!」
 いきなりクマの奇声が上がる。
「何だよ!?」
 陽介がうるさいとばかりに問い返せば、クマが二人の上にダイブしてきた。

「うわっ!?」
「ぐえっ」

 見事に陽介の上に落ちたクマはそのまま陽介を組み敷いたままジタバタと暴れた。

「クマもセンセイと一緒に寝るクマよー」
「お前、自分でソファが良いって言ったじゃねぇか!」
「陽介だけセンセイと一緒なんてずるいクマ!」
「うるせぇんだよ! 耳元で怒鳴るな!」

「クマもおいで」
 揉み合いながらの大声で喧嘩を始めようとする陽介とクマの間に割って入る。

「良いクマか?」
「うん」
「やったクマ!」
 クマがいそいそと陽介の上から降りて、恭弥の隣に移動してくる。そして、ちゃっかり恭弥の毛布の中に潜り込んだ 。

 陽介が呆れ顔で上体を起こしながら呟く。
「あー…はいはい。じゃあ、俺はソファ行くわ」
「陽介もこっちで寝なさい」
「……」
「何、その顔」
「いや別に」
 数瞬だけ思案顔になった陽介はぼりぼりと頭を掻く仕草をし、それからソファの下に落ちた毛布を手にとって恭弥の元へと戻ってきた。

 思わずニヤリとした笑みが零れかける。

「何だよ…」
「何でもないよ。寒いから、こっちおいで」
「はいはい。今日は存分に甘えさせて差し上げますよ」

 軽口を叩くように呟いてから、クマとは反対の右隣に体を横たえた。

「温い…」
「こんだけ引っ付いてればな」
「なんか寝れそう」
「そうかよ」
「…うん」

 今日は絶対に眠れないと思っていたのに、両隣の体温に誘われて眠りに落ちそうだった。思考が途切れていくの分かる。

 少しでも体を休めて、力を蓄えて、明日、必ず菜々子を助け出す。失敗は許されない。許さない。

 そう自分に自分に言い聞かせながら、恭弥は目を瞑った。














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09.9.15

こんな妄想をして菜々子のいない寂しい夜を乗り切ってました。

菜々子の「おかえりなさい」がないと半端無く寂しい、あの居間。><