水面に沈む・2







 


 ねえ、あなた人間でしょ? 死ぬの?
 可愛い姿してるのに、こんなところで死ぬの?
 その身体いらないのなら、わたしに頂戴?
 傷だらけで海に打ち捨てられて。こういうのは、人間の感情で可哀想っていうのだっけ?
 ねえ、あなたいらない人間なんでしょ?  だったら、わたしにその人間の身体を頂戴?
 わたしが代わりに、大切な人を守るために生きてあげるから。













 直感めいたものが、聖域近辺でこの顔を――双子座のサガと瓜二つの顔を――晒すのは危険だと訴えかけてきていた。
 俺はこのまま聖域から離れてしまうか、ぎりぎりまで近付き接触を試みるか考えた。
 どうにも印象が激変している教皇については気になる。それだけでも何か情報は掴めないだろうか。
 この僅かな間に、何が起きるというのか?
 俺は海龍の鱗衣を外し、岩陰に隠す。それから、腰に掛かる長さの髪を結い上げ、前髪は垂らし顔が見えにくいようにしてみる。
 ぱっと見の印象くらいは騙せるか?
 そのまま、結界の境目のぎりぎりの位置に立つ。
 聖闘士候補生でも出てくれば有り難い限りだが、そう都合よく行ってくれるのかどうか。
 小宇宙に目覚めている俺は当然のように聖域の結界内に入ることは可能だ。だが、今、この結界がどういう状態で維持されているのか分かりかねる為、結界に触れることを躊躇ってしまっているのだ。
 シオンならば、俺がここに立っただけでおそらく気付くだろう。
 反応は無い。
 シオンはどうした?
「………」
 腹を決め、俺は結界内に踏み込んだ。
 露骨な結界の乱れは感じられない。
「何だ? 警備がザルじゃねぇか…」
 積もるのは不信感ばかり。

 サガは、どうした。

 ゆっくりと、修練の場になっている闘技場へと歩みを進めた。
 明らかに雑兵という風体の男たちが四人ほど座り込みおしゃべりに興じている姿を見つける。
 おそらく、黄金聖闘士の顔など見る機会もないような連中だろうと、当たりを付けた。
 静かに幻朧拳を放つ。
 俺の姿は見知った仲間と認識してしまう、軽い催眠に似たものだった。
 効いてるのかどうか、まだ自信は無かったが、俺はその男たちに近寄った。
「なあ、最近の聖域はなんかおかしくねぇか?」
 俺の言葉に男の一人が振り返る。
「お前、それ今更だろう」
 そう言って呆れたように笑う男。
 魔拳は効いている。そう確信して、俺は遠慮なく踏み込ませもらった。
「今更って?」
「射手座のアイオロス様の謀反に始まって、双子座のサガ様も失踪されたままなんだ。今ではアイオロス様とサガ様が二人で謀反を目論んだと言われてるんだぜ」
「サガ様はアイオロス様の謀反には関わってないと思うぞ。あの方はそんなことを考えもしないだろう」
「それを言うなら、アイオロス様が謀反ってのが、一番信じらんねぇ」
「バカ、お前、そんな発言は止めろって言ってんだろ。お前まで謀反扱いされんぞ!」

 謀反? 失踪?
 なんだそれは。なんだよ、それは!?

 俺は二の句が継げないまま、呆けたように突っ立ってしまう。

 ちょっと待て。なんだよそれ。
 情報の整理が付かない。
 黄金の筆頭各が揃っていないってことか?
 アイオロスは、どうなったというのか。

「お前、今更そんなこと聞きたがるなんざ、新参者か?」
 男がそういい振り返った時には、俺はその場から姿を消していた。


 サガが失踪?
 ふざけるなよ、あいつ。
 俺を岩牢にぶち込んで、失踪だと?
 あれが、失踪するだと?
 何かがおかしい。
 サガの思考パターンを読み取るも、そんな結論には到底結び付かない。
 俺はもう、危険を承知で静かに小宇宙を放っていった。
 ゆっくりとサガの小宇宙を辿ろうと試みる。サガの小宇宙を追っていく。
 確かに、十二宮内のどこにもサガの小宇宙は感じられない。

 どこだ?
 いるとすれば、どこにいる? サガよ?

 教皇の間まで意識を進めていく。
 危険だとは分かっていたが、確かめずにはいられなかった。
 押さえ込まれた小宇宙。だが、俺と同質の小宇宙が、いた。微かだが、辛うじて拾えたレベルの小宇宙だ。
 双子にしか出来ない芸当だろう。おそらく、他の誰にもこの小宇宙は拾えない。それほどに、見事に押さえ込まれた小宇宙があった。

―― サガ。

 その瞬間、俺は見えない力で岩壁に叩き付けられていた。
 凄まじい威力だった。

 どこから放たれた?
 どこだ?
 まさか、教皇の間か? 遙か上空の、あの教皇の間から?

 愕然としつつも、俺は体勢を立て直す。
 確実に気付かれた。まずいな。
 しかし、あれがサガならば、なぜ教皇の間に?
 そんなことを考えていたせいで、意識が疎かになっていたのか。
 目の前に法衣を纏った男が現れるまで、全く気付けなかったのだ。目の前に現れて、始めてその者の存在に気付いたのだ。
 いつの間に、こいつ、ここに来た!?

「何者よ。私を探る小賢しいやつめ」
 再び放たれる力。ギャラクシアン・エクスプロージョン。

―― 誰だ、こいつは!? なぜ、サガと俺のみが操るこの技を使う!?

 アナザーディメンションで時空を歪め、俺はその者の放った技の威力を相殺した。
「ほう? 少しはやるようだが、なぜ私と同じ技を使う?」
「…なに?」
 誰だ? などと問う必要など最初からなかった。声で気付いていた。
 こいつは、サガだ。  分かっているはずなのに、俺はどこかで「違う」とも思っていた。
 だが、技も声も仕草も、全てが双子の片割れであるサガのものだったのだ。
「貴様は誰だ?」
 敢えて技を使わずに、単純な攻撃に移った。
 懐に飛び込み、その者を引き倒す。被るマスクが弾け飛ぶ。
 俺と同じ顔立ちの男。ただし、腰に届くほどの髪は漆黒の色をしていた。
「サガ…?」
 憎しみなどの感情よりも、困惑が勝った。
「その名で私を呼ぶな。私は教皇だ。そして、私の顔を見たものは殺す」
 何を言っているんだ、こいつは?
 サガ、ではない?
 いや、サガだ。確かに、サガの小宇宙だ。しかし、俺に気付かないだと!?
「私の顔を見たものは、生きて帰えさん」
 そして気付く。このサガを俺は知っている。
 あの時に会っている。俺を岬の岩牢にぶち込み、冷えた眼差しで俺を眺めていた、あの時のサガと同じ。
 まずい。こいつは危険すぎる。
 サガであって、サガではない。
 俺が、サガの内に見た悪と呼んだもの。

 あの馬鹿、何をしやがったんだ!?

 不意に、目の前のサガがよろめいた。頭を抱え、低く呻く。
「カ…ノン…?」
 俺の意識が最大の危険信号を発していた。
 今はまだ、サガに会うわけにはいかない。俺の憎しみも怒りも薄まってしまう。俺は弱くなってしまう。
「生きて帰さぬと、言ったはずだ!」
 サガは再び怒りの形相で俺に向かって拳を放った。
 俺は逃げることを選んだ。
 幻朧拳を放つ。魔拳がサガに利くのか賭だったが、それ以外に無かった。
 俺と会ったこの一連の記憶を消し去る魔拳を、サガに放ったのだ。



 そして、俺は、この時サガを殺さずに逃げたことを、十三年の後に後悔することになる。

 殺しておくべきだったのに、俺はその最大のチャンスを自ら捨てたのだ。

 この手で殺してやるべきだったのに。








 聖域から遠く離れ、俺は海岸沿いを一人歩いた。
 サガを殺してやる、アテナを殺してやる。それだけが俺を生きながらえさせた感情だった。それが、今、揺らいでいた。
 あのサガの姿はなんだ?
 俺の殺したかったサガはあのサガではない。
 俺が戦いたかったサガはあんなサガじゃない。
 俺は感情を持て余し、ただひたすらに海岸沿いを歩き続けた。
 これからどうする?
 サガの自滅は時間の問題じゃないのか?
 俺は、どうする?
 立ち止まり、暮れていく空と海とを眺めた。
 今更だったが、どこにも俺の居場所などなかった。分かっていたことなのに、泣き出したい気分に陥りそうだった。
「俺は、何をすればいい?」
 情けないまでの声が自分の口から澪れ落ちていくのを、止めることは出来なかった。









 そこそこに開けた街へと出て、適当に女を引っかけ、その日の飯と寝床にありつく。
 女の柔肌を適当に撫でながら、俺はこれがサガだったら、などと考えていた。
 俺の適当すぎる愛撫に女が不満気な声を上げていたが、俺は取り合わずに視線を窓へと向けた。
 開け放たれた窓と、その向こうに見える満月。
 そして、こちらを覗き込む少女の顔。

 覗き込む少女!?

 俺は思わず仰け反り悲鳴を上げそうになっていた。俺の異変に気付いた傍らの女が盛大な悲鳴を上げてくれたが。

「探しましたよ、シードラゴン」
「は!?」
「海底神殿へとお戻りください」
「え?」
「行きますよ、シードラゴン」
「ちょ、ちょっと待て! 引っ張るな! このまま窓から出れるか! …だから、服くらい着させろぉぉぉおおおお!」
 呆然と座り込む裸身の女を置いて、俺は大慌てで衣服を身に纏い、少女に引っ張られるまま窓から飛び出していた。



 なんで女との情事の最中に乱入されて、挙げ句に俺は少女に付いて出て来てしまっているんだ。
 普通は一緒に寝てる女を選ぶよなぁ。
 何とも自分の行動が情けないと気付いて、俺は心持ちうなだれながら歩いた。
 俺の前を歩く少女、といっても年は俺と同じくらいではないだろうか。十五かそれくらいに見える。
「お前、ポセイドンの何?」
「ポセイドン様! 様です!」
「あー、はいはい。で、ポセイドン様の何だよ、お前? よく俺がシードラゴンだって分かったな。お前に名乗った記憶無いぞ?」
「ポセイドン様のお力です。ポセイドン様に関わるものは何でも分かります!」
「俺には意味が分からんが」
「わたしには分かります! ポセイドン様のお力です!」
 駄目だ。こいつ何か電波飛ばしてるタイプだ。会話が成り立たない。
 言ってる意味がさっぱり分からない。
「ポセイドン様のお力が強まっています。海底神殿に海闘士が集まり始める前に、海底神殿を整えください、というのがポセイドン様のご意志です」
「…………要するに、掃除しておけと?」
「掃除?」
「百年単位で使ってなさそうだもんなぁ、あの神殿。戻るなら、改造から始めるか」
 会話が成り立たないと分かった時点で、俺も会話を半ば放棄していた。
 しかし、こうなるとお互いに独り言を言ってるだけという悲しい構図になり果ててしまうな。ということに、再び気付いて俺はまたうなだれる。
 やはり、会話くらいまともに出来ないときついな、これ。

「お前の名前、聞いて無いんだけど。ついでにどこから来たの? 何でポセイドンの意志と触れ合える?」
「わたしはマーメイドのテティス。海から来ました」
「マーメイド?」
 そんな鱗衣あったか?
 ポセイドン神殿に置かれた海将軍の鱗衣を思い出してみるが、やはりマーメイドというものはいなかったと記憶する。
 となると、海将軍ではないのか、こいつ。
「ってか、海って何だ海って」
「マーメイドは海から来るに決まってるでしょ」
 やっぱり駄目だ。会話がさっぱり噛み合わん。
 はあ…と盛大に溜息を吐いたところで、そんなことを気にする少女ではなかった。


 散々歩かされ、辿り着いたのは聖域も近いスニオン岬だった。
「ふざけてんのか、お前…?」
 声が低くなるのが自分でも分かるほどだ。だが、テティスはそんなことにも頓着はしないらしい。
「着きましたよ!」
 と、なぜか誇らしげだ。
 そして、いきなり岬から身を投げたのだ。海へ向かって。
 あまりの思い切りの良さに、俺も反応出来ずにいた。
「何してんだ、お前!?」
 数瞬遅れて叫ぶのがやっとという始末。
 何で身投げ!?
 岬の崖っぷちぎりぎりまで走り寄り、海面を見下ろす。テティスを探した。
「何をしてるんですかー? 早くこちらへー!」
 とはしゃぐような声が聞こえるが、テティスの姿は見つけられなかった。
 どこだ? と思った矢先に、海面に虹色とでもいうのか、綺麗な色をした魚が飛び跳ねるのが見えた。
 そして、飛び跳ねながら、テティスの姿を取ったその魚。

―― 魚?

「魚!? ぇぇぇええええええ?」

 魚から少女に、少女から魚に、と姿を変えて遊んでいたせいか、見事に全裸だったテティス。
「……………。街に戻って女物の服、買ってくるべきなのかな、俺」
 会話が噛み合うはずもない。そもそも、種族?が違うのだから。
 思考回路も違えば、価値観も違う。そりゃ、人間と魚じゃ価値観なんざ違うにも程があるだろう。
 遠くを見ながら、俺はそんなことを考えていた。



「人前で、人間の前で魚に戻るな」
「魚じゃありません。マーメイドです。人魚です」
「分かった。人前で人魚の姿を取るなよ?」
「なぜです?」
 俺の買ってきた女物の服を着ながらテティスは不思議そうに小首を傾げている。
「人間が危険だからだ。お前、とっ捕まって見せ物にされるだけだぞ」
「捕まれば、ポセイドン様が人間を懲らしめてくれます」
「まだポセイドンは覚醒してないんだろ?」
「…無理なんですか?」
「俺に聞くなよ。俺が聞いてんだよ」

 あの後、岬から海龍の鱗衣を呼び寄せ装着した俺は、海ではしゃぐテティスを抱えて海底神殿へと戻った。
 それから、陽が上るのを待って、テティスを一旦置いて、街に戻り女物の服を、出来る限り動きやすそうな服を選んで買ってきたのだ。
 自分の甲斐甲斐しさに泣けてくるわ。

「シードラゴン様はわたしを見せ物にしないんですか?」
「お前を見せ物にしてどうするんだよ?」
「人間はわたしを見せ物にするんですよね?」
「あー、そういう悪意ある人間もかなりいるってことだ。普通は人魚なんざ信じねぇし」
「??? シードラゴン様は信じてますよね?」
「神の存在を知ってるのに、人魚くらいで今更驚くか」
「???」
「とにかく、俺みたいな思考回路に至る人間の方が珍しいと思っておけ。人間は異端な存在に敏感で、時に凶暴になる」
「……よく分かりませんけど、分かりました。人間には気を付けます」
「そうしてくれると、ありがたい」
 こんな会話をかれこれ数時間は繰り返していた。
 テティスは生まれたての子供くらいに思った方がいい、と判断を付ける。知識量の話だが。おそらく、知能はかなり高いだろう。
 テティスは面白そうに人間の体を動かして遊んでいる。
「この身体をくれた子も、人間に傷だらけにされて捨てられていましたし。人間は凶暴な生き物なんですね」
「くれた?」
「貰いました」
 身体って貰えるものなのか? っていうか、どうやって?
 いや、もういい。
 これ以上、突っ込んだことを聞きたくない気がして、俺はもう聞き流すことにした。
「全ての人間じゃないけどな。凶暴になることもある、程度に覚えておけ」
 人間を庇うつもりは無かったが、そんな言葉が出てしまった。
 しかし、テティスは「ポセイドン様が人間を流して清めようとする訳ですね」と独り言の様に呟きながら、神殿内をうろちょろしながら歩き回っていた。
 人の話は聞けよ、この魚人め。




 相変わらず、海底神殿は静かだった。
 頭上を仰げば優しく光る水面。
「静かだなぁ」
 気持ちが凪いでいくのが分かる。感情が凪いでしまうのが分かる。
 あまりいいことではないな。俺にとっては。
 テティスは用が無い時は姿を消しているので、好きに海にでも帰っているのだろうと思っていた。
 俺も腹が減れば、地上へ上がり適当に飯を食って過ごした。
 海界で飯を食えるようにするべきかな、そんなことを考え始める。
 飯の為だけに頻繁に地上に上がるのも面倒になってきた。
 数百年前にはここで海闘士たちが生きて暮らしていたはずだ。人間の衣食住に必要なものが残っている可能性もあるのか。
 ちょっと本気で海底神殿を片付ける必要があるな。
 そんな理由から探索を始めて数分。
 ポセイドン神殿に隣接する形で建てられている小振りの神殿の存在に、今になって気付いた。
 海闘士の住居とかって、ここか?
 部屋数も多い。造りもほとんど神殿だ。海将軍クラスが詰める場所かな。
「おお。あるある。すっげぇ時代がかった調理場が…」
 一番外側の部屋にそれはあった。
 本当に骨董品以前な代物だ。いわゆる竈とかそういった類のもの。その代わり、火を入れれば使える単純な作りなのは助かる。
 どう考えても発電機などなさそうだからな、ここ。

「水は…、どうするかな。海水を小宇宙で浄化して真水に、とか可能か?」
 やってみる価値…あるのかどうか。甚だ不安ではあるが、他にするとこも無いから、飲料水作りから始めてみることにした。
 浄水を作る一番シンプルな装置をイメージしながら、水瓶に汲んだ海水に小宇宙を当てる。
 水の原子を破壊せずに、こう、組み替えて…。塩分を取り除くように、こう…。
 真水。水。
 聖闘士の戦い方は、小宇宙を燃やし対象物を原子レベルで破壊する。その応用で、原子を破壊せずに動かすことも可能ではないのか、というただの思い付きだったが、意外に思い付きも当たるものだ。
 まあ、小宇宙をこんな使い方する奴もそうそういないだろうがな。
「おおお。普通に水だな。飲んでも問題なさそうか?」
 舐めて海水では無いことを確認し、それから一掬い口に含む。
 普通に飲めた。
「うむ。これで水は確保…と」
 水があれば、あとは何とでもなるか。
「シードラゴン様、何をなさっているのです?」
 いつの間に戻ったのか、テティスが傍らに立って水瓶の中を覗いている。
「飲み水作ってた」
「飲み水?」
「人間は海水を飲んで生きられないんでね」
「あ! 本当だ。お塩の味がしないですよ、これ!」
「お塩…」
 思わず笑いが漏れてしまう。
 どこで言葉を覚えてくるのか、本来の身体の持ち主の知識なのか。テティスの使う言葉はどこか子供っぽいところが多かった。外見は俺と同じくらいな年齢に見えるだけに、少し愉快だった。

 食材は、求めれば魚たちの方からやってきた。
 これもポセイドンの力? 意志?
 サンマの群から数匹、神殿内に落ちてきた時は、さすがに驚いた。
 神ってのは、何でも有りだな、おい。
 目の前でビチビチと跳ねる数匹の魚たち。何ともシュールな絵だ。
 まあ、せっかくの魚だ。頂きますか。
「焼くにしても、味付けは塩だけか」
 飲み水を作る際に出来た、海水から取り出した塩のみが現在の調味料。
 皿なんてものを探すのが面倒だった俺は、豪快にそのまま串刺しにして焼いて食ってみた。
 俺が魚を食してる時は、テティスは姿を消していた。
 さすがに、魚を食う気にはなれないのか。人魚と魚って別ものなのか、同類なのか俺には判断など付かなかったが。

 そんなことをしながら海界に引き籠もるように過ごしていれば、一年が経過していた。






「シードラゴン様ぁぁ! 誰か来ますよぉ!」
 テティスに言われるまでもなく、俺も何者かの接近には気付いていた。
 海界の結界に触れるのを感じ取る。
 結界を通過した。ということは、ポセイドンに導かれて来たか。
 位置は南氷洋の柱がある方角だと分析する。
「神殿の前ではなく、南氷洋か。これは、海将軍の一人か?」
 俺は、少なからず期待に胸が踊った。
 俺レベルは求めないから、即戦力になるようなやつがいるならば……。
「…………………」
「シードラゴン様?」
「お前、これ、何に見える?」
「人間の子供、ですか?」
「だよな? 子供、だよな?」
「はい」
「子供! 俺よりも年下にしか見えねぇし! ガキじゃねぇかぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 叫べば、テティスに冷静な声で「うるさいです」と言われた。
 そこにいたのは、十歳にも満たないような子供だった。ちなみに男だろう。
 それも、どうみても衰弱している。死にかけの子供。
「何だよ、これ! おい、ポセイドン! ふざけんなよ! 貴様は戦う気あるのか!?」
「ポセイドン様です。様です!」
 テティスのズレた突っ込みは放置し、俺は頭を抱えた。
 海で溺れたのか、全身ずぶ濡れな姿で横たわる子供は、小さく痙攣をする。
「ああああ、もう!」
 俺はもう一度だけ叫ぶと、目の前の子供を抱きかかえて神殿へと駆け戻った。
 俺の部屋にしている一室へと子供を運ぶ。
 ぼろ布と化している服をはぎ取れば、出てくるのは黒ずんだ色の内出血の跡。
 首の周囲には薄く手指の形に痣が見える。
 暴力の跡。
「……お前も殺されかけたってのか?」
 返事など返さない衰弱した子供に向かって、俺は呟いていた。




「衰弱したガキに魚の丸焼きは無理だよなぁ」
 テティスにガキを看ているように言いつけ、俺は一度地上へと出た。
 金はある。ポセイドンの元へ来てからの二年弱、海底神殿にある適当な骨董品を目利きと思える人間に見せ、金に変えていた。
 あからさまに値の張りそうなものには手を出さず、アンティークものレベルの物品のみを持ち出していた。
 あまりにも高価なものは、聖域の人間に見つかる可能性が高いと思ったからだ。下手を打って神話の時代からある代物なんか持ち出したら大事だ。神話絡みな代物を裏ルートなんかに流せば、それこそ聖域の人間に気付かれるだろう。
 今はまだ、聖域の人間に気付かれる訳にはいかない。

 小さな雑貨屋に入り、レトルト食品を手に取る。
 ここは日本製の品物を多く扱っていた。日本製は上質のレトルト食品が多くあってこういう時は本気で助かるものだ。
 まずは乳幼児向けの離乳食みたいなものも買う。
 あと、温めるだけで食えるミルク粥のようなやつも。
 とにかく、流し込むだけで食せるものを手当たり次第に買った。ガキの病人食なんか分かる訳が無い。
 作るとか、まず無理。
 かなりの量を買い込み、海底神殿へと急ぎ戻る。
 子供は意識は保っていた。昏睡していたら、さすがに俺も見捨てていたところだ。
「調子はどうだ?」
 綺麗な衣服に身を包み、綺麗なシーツと毛布にくるまれた子供は、視線を動かし俺を見返してきた。
「変わりないです」
 とテティスが返事をする。
 子供の視線は、俺が誰かと問いたげな色を含んでいるのは当然として、なぜ生きているのかと不可思議に揺れてもいた。
 だが、生きていることに絶望はしていない。
 その目が、俺を少しだけ愉快にする。
 生きる気力があるやつだけが生き残れるのだ。
「声は出せるか?」
 俺が問いかけていることは分かるのだろう、子供は困惑したように俺を見つめてきた。
 もしかして、と気付く。
 言葉が通じていない?
 見た印象からヨーロッパ圏の人間だと推測するが、どこの言葉だ?
 ドイツ語かイタリア語かスペイン語かフランス語か、英語か。
 俺が分かるのはイタリア語とスペイン語とドイツ語くらいか。
 ギリシャ近辺で必要とする言語はこれくらいだ。
 どういえば伝わる? と考え込みかけ、ポセイドンに海将軍として導かれて来ているのならば、小宇宙に目覚めている可能性があることに気付いた。
 俺は小宇宙を通して子供に話しかけた。
(お前、名は?)
 子供が驚いたように、目を見開いた。
 小宇宙での会話が可能ならば有り難い。
(小宇宙を通して、直接お前の頭の中へ問い掛けている。安心しろ、ここはお前に害を為すものはない)
 子供が何を思ったのか、俺に向かって手を伸ばしてきた。
 それも必死な面持ちで。
(どうした? お前も頭の中で何か俺に話しかけてみろ。通じるはずだ)
 子供はただ闇雲に手を伸ばす。
「シードラゴン様、手を握ってあげたらどうです?」
 テティスが不思議そうに俺と子供を見比べながら言った。
(なんだ? どうした?)
(女神様、おれ、死にたくない)
「は?」
 必死に手を伸ばす子供。そして、小宇宙を通して聞こえた言葉。
(おれ、死にたくないよ。死にたくない)
 俺は静かに、目の前の、伸ばされた子供の手は叩き落とした。
(お前は生きている。この先も生きる気があるなら、飯を食え。それから、俺はシードラゴン。海将軍で男だ。断じて、女神なんてもんじゃない)
 子供は呆然という顔で俺を見上げていた。
 俺は女、それも女神とか馬鹿げたものに間違われたことに憤慨していた。
 どこをどう見たら女神なんざに見えるっつうんだ!?
 しばしの沈黙の後。再び子供の声が小宇宙を通して聞こえてきた。
(おれ、生きてる? 生きて良い?)
 不安げに揺れる瞳には、やはり絶望の色は無く生への執念だけが感じ取られた。
 俺は自分の口元が緩むのを意識する。
「シードラゴン様、嬉しそうですね?」
「うるさい」
 テティスに言い捨て、俺は湯を沸かしに部屋を出た。

 古びた調理場で湯を沸かし、とりあえず離乳食から温めた。
 適当な器に中身を移し、スプーンを添えてガキの元へと戻る。
(食えるか?)
 問い掛ければ、子供は必死な様子で手を差し伸べる。
(生きたい生きたい生きたい)
 生きたけりゃ食えって言ったのを、そのままに受け取ったか。
 俺は苦笑し、器をサイドテーブルに置いて子供の背に腕を当てた。様子見に体を少し動かしてみた。
 子供が痛みに悲鳴を上げる。
 体はぼろぼろか。
(そのまま寝てろ)
 俺はそう言い、ベッドの端に腰を下ろす。
 怯えた様にびくりと身を竦める子供の体、心臓に近い位置に手を当てた。慎重に小宇宙を流し込む。
 ヒーリングというやつだ。こればかりは、俺も実践したことがない。ただ、サガの得意分野だったことは確かで、おそらく俺にも出来るのだろう。見よう見真似でも。
(なに…?)
 相変わらず子供は怯えた調子で声を発する。
(体はどうだ?)
(暖かい)
 うむ。効いてるのか?
 子供の腕を持ち上げてみる。
(痛みは?)
 子供は不思議そうに俺を見つめてきた。
(さっきの痛み、無いよ?)
 効いてる、らしい。
(動けるか? 寝たまま食うのは、さすがに危ないからな)
 俺の言葉に子供は少し顔を顰めながらも、上体を起こしてみせる。
 激痛は消えても、まだ小さな痛みはあちこちに残っているようだ。
 まあ、俺にしては上等か。
 子供の背中にクッション変わりの枕を入れてやり、上体を支えてやる。
 それから、離乳食を入れた器を手渡した。
(美味くはないだろうが、とりあえず食え。その衰弱ぶりからだと、このくらいのしか胃が受け付んだろ)
 なんだこれ? という顔をしながら器を受け取り、子供はスプーンで掬い口に運ぶ。
 スプーンの持ち方は握り込んで持つのか。
 見た目云々の前に食いにくそうだな、と思ってしまった。
 子供の手を取り、スプーンを持ち直させる。
(この持ち方の方が食いやすいだろ)
 背中や腕に触れた時は無かったのに、手に触れた途端、子供は恐怖に近い驚きの表情を見せた。体はかちかちに強ばっている。
(おい? どうした?)
 何なんだ、いったい?
(ごめんなさいごめんなさい)
 器とスプーンを握ったまま体を丸め込み、子供は萎縮する。
 それは、暴力から回避するための、子供なりの術。
 なるほどな。
(飯冷えたら不味くなるぞ。さっさと食ってしまえ)
 俺は傍らに腰を下ろしたまま、ぶっきらぼうに言うしかなかった。
 子供は先ほどとは違う驚きの目で俺を見ているが、俺にもどうしていいやら分からない。
(ごめんなさい)
(謝るようなことしたのか?)
(え?)
(俺は飯を食って栄養を取れと言ってるだけだ)
(え? 叩か…ない?)
(言ったはずだ。ここにはお前を害するものはいないと)
 しばらく呆けたように俺の顔を眺めていた子供は、今度は猛烈な勢いで離乳食を平らげた。
(食べた! 食べたよ!)
「あ?」
 なんだ、この誇らしげな表情。
 褒めてくれとせがむ犬のようだな。そんなことを考えかけ、ああそうかと納得する。
 俺の言うとおりにしたと、そう訴えているのか。
(ああ、そうだな。よく食えたな)
 こういう時、どうしてやるのだろうか。
 俺は、どうして欲しかった?

―― カノン! すごいね。一回教えただけなのに、もう出来たのか。

 俺は、どうして欲しかった? どうしてもらっていた?

 もう、盛大に溜め息を吐きたい。己の思考回路にだ。
 俺は頭上を降り仰ぎ、子供に気付かれないように息を吐き出した。
 俺がされていたこと。してもらいたかったこと。あいつが、チビどもにしていたこと。
 ゆっくりと、子供の頭に手を伸ばす。
 海水でバサバサになったままの髪をゆるく撫でてやった。
(今はまだ、ゆっくり体を休めろ。お前は大事な海将軍の一人だ)
 驚きと喜びの綯い交ぜになった顔つきで、子供はコクンと頷いていた。

 子供を寝かせ、部屋を出ていこうとして俺は聞き忘れていたことを思い出す。
(ああ、そうだ。お前、名前はあるのか? 生まれはどこか覚えているか?)
(え? お、おれは、カーサ。ポルトガルの国境沿いの村で生きてた。……その…、みんなに、悪魔憑きのカーサって呼ばれてた)
 悪魔憑き? また前時代な単語が出てきたな。
 聖闘士のような力さえも、一般人には全て悪魔憑きに見えるだろう。
(何の力でそう呼ばれた?)
 子供は飽きずに驚いた顔で俺を見上げてきた。
(悪魔…怖くない?)
(俺は、悪そのものらしいからな。悪魔憑きなんざ可愛いもんだろ)
 俺の顔を凝視するカーサと名乗った子供。
(嘘だ)
(あ?)
(天使様が悪なはずない)
 誰が天使だ、おい。
 こいつは、何が何でも俺を女神か天使に仕立てあげたいらしい。
(んなことはどうでもいい。何の力でそう呼ばれた?)
(おれ、人の心っていうのかな、人の想ってるものが見えるんだ。天使様からは、優しい笑顔の天使様が見えるよ)
(…………俺はシードラゴンだと名乗ったはずだ)
 カーサは小首を傾げる。
(こんな優しい笑顔を持ってるシードラゴン様が、悪なんておかしいよ)
 優しい笑顔?
 この顔で優しい笑みを作れるのは、俺じゃない。俺では無い奴だ。
 俺の中にそれが見える?
 俺は、否定して叫びたい自分とそうだろうなと納得する自分とを抱え、ただ混乱するしかなかった。
(おれ、シードラゴン様の中にずっとそれが見えてたから、すごく気持ち良かったんだ)
(そう…か…)
(シードラゴン様は優しく笑うシードラゴン様が好きなんだ。自分のことが好きだって思えるの、いいな)
 それじゃ、ただのナルシストだろ。
 そんなふざけた突っ込みなどする気も起きなかった。
 ずっと、俺ではなくサガを見ていたのか、こいつも。
 だったら、俺は、本当の俺はどこにいるというのか。





 俺の傍らには常にサガがいた。
 俺はサガの影で、サガを守り共に生きていくはずだった。

 それが、今ではもう、遙か遠い昔のことのように思えて仕方がなかった。
















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13.1.4

テティスさんは永遠の15歳! で宜しくお願いします。

カノンのサガへの依存度が半端無いよね。
ポセイドン編での、戦う価値も無いとか殺す価値も無いな勢いで色々言われまくってた小物臭いカノンが愛おしいです。
本当、あの小物臭いのは何だ。ww


海将軍たちはいつ頃から海界にいたんでしょうかね。
聖域との戦い直前に集まっただけとか、そんなことは無いだろうなぁと。聖闘士でもない人間が修行無しに戦うとか不可能だろうし。
聖域以外に戦闘訓練(それも対神レベルの)する組織が存在しそうにないし。
とか誰もが考えただろうことを私ももだもだ妄想していたり。

本当はね、カノンの元に来る海将軍の第1号はイオがいいなぁと思ってるんですけどね。身を挺して柱守った子。
海皇の為ってよりもカノンに仕えカノンの為に戦ってたようにも見えなくもないイオ。

しかし、年齢的にはカーサが1番手なんだろうなぁとしかならない。もう、何番煎じですか、だよね。
カノン以下の年齢が低すぎるよ、海界!
カノン以外では、20代はカーサだけだし。


イオの生まれのサンフェリクス島を調べたら、チリ領の島で、検索しても出て来ないレベルの小さな島だし。
どこにあるんだよ!?
チリは90年代まで独裁政権下で内戦が続いてた国なわけですが、 イオはその影響を受けてる子なのかなぁ。
チリ本国とどのくらいの距離なのか気になる。サンフェリクス島の位置ってどうやったら分かるんだ!?

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