※ この話まで小説・ギガマキのネタバレな感じです。
黄昏にまみえる・8
「なあ、カミュ。いいのか? 何も聞かなくて」
金牛宮を出て長い階段を上りながらミロは隣を行く友人を見遣った。
「ああ。アルデバランは今の状況を受け入れている。アイオリアも受け入れその上で戦っている。私の勝手な感情でその思いを壊すのは忍びない…」
「でもさ…!」
「私自身の手で疑問に感じることを調べていくことに決めた。聞くにしても何についてどう聞けばいいのか、正直、私にもよく分からないんだ。そんな状態で問いかけたところで、デスマスクは絶対に答えてくれないだろう」
「そうかもしれないけど。でも、やっぱり何かおかしいのは確かなんだろ?」
「何がどうおかしいとミロは思う? 何についてどう質問をする?」
「う…。纏めるの、無理。分かんねぇ」
「私もだ。だから、問いかけ、回答を引き出せるだけの材料を私も集めてみようと思う」
「危険は無いのか?」
「私は外に弟子を持っている身。むしろ動きやすい。気を付けるのはミロの方だと思う。ミロはやはり色々と目立つから」
「目立つってなんだよ」
「利用されたりとか、ヘマするなよ?」
「しねぇよ! 今、俺のことちょっと馬鹿にしただろ!?」
「馬鹿にはしていない。真実だから心配しただけだ」
「カミュぅぅ」
久しぶりに顔なじみが集まっての夜食会。
アルデバランもアイオリアもよく笑っていたように思う。意外なのは年上の三人組が距離を置いて穏やかに見守るような態度でいたことだろうか。もっと昔のように馬鹿騒ぎして暴れるかと思っていただけに、少し拍子抜けしてしまった。
「でも、まあ。ご飯は美味かったよなぁ。本当に美味かったな。あんなに騒ぎながら食べたのって、いつ以来だろうなぁ」
「ミロはアルデバランと共にずっと食べていたな。その体のどこにあれだけの量が入るんだか」
くすくすとカミュに笑われ、ミロは少し唇を尖らせる。
「美味いもんは美味いんだよ」
「ああ、確かにそうだ。本当に美味しかったよ」
カミュは星の瞬く夜空を見上げながら、静かに呟く。その静かな眼差しを見つめ、そして、ミロもそれっきり口を閉ざしてしまった。
「もう、シチリアに戻るのか?」
「ああ。状況が変わった。弟子の修行の仕上げに掛からねぇと」
露骨に面白くないという顔で言うアフロディーテの問いに、デスマスクは余所を見つめながら答えていた。その顔は少しも笑っていない。
アルデバランたちに晩飯を振る舞った翌日、デスマスクは再び教皇から呼び出されたのだ。
もう少し聖域に居られるものだと思っていただけに、事の性急さに少し苛立った。
半年後には完全に聖域に帰還せよ。それまでに髪の毛座の聖闘士が育たなければ、その者は不要とせよ。
それが、教皇から新たに告げられた内容だった。
盟が使いものにならない時は不要とせよ、つまり、それは始末しろということ。消せということだった。髪の毛座の存在を知るものは残すなと言いたいらしい。
「どこまで卑屈な性格してやがる…!」
忌々しげに舌打ちしたくなる。
盟に髪の毛座の聖衣を与えるか?
しかし、それは荒神を起こす危険をも伴う行為だ。教皇はそのことには全く意に介さなかった。
神を抑える力を持つ髪の毛座の聖衣が手に入ればそれでいいというのである。呆れた思考回路だ。
最早、地上の支配権しか頭に無いのだろうか。
「デス?」
「半年後には帰ってくるからよ。そしたら、ずっと聖域詰めだ」
「半年後? また何とも急展開になってるようだな」
「ああ。全くだぜ」
「随分とご立腹らしいな、蟹は。そんなに今回の教皇の態度は気に入らなかったのかい?」
「気に入らないな、全てに於いてな」
「ふぅん。ま、せいぜい気を付けて」
他人事のような軽い口調のアフロディーテの言葉に送り出されて、デスマスクは聖域を離れた。
「あっれ? もうお戻りになったんですか!? 一週間は戻らないと覚悟してたのにびっくりだ」
シチリアでの修行の拠点にしている家に戻るなり、盟が素っ頓狂な声を上げていた。
「俺様もびっくりよ。もうちょっと滞在する気でいたんだからな」
発する声が棘を含んでしまう。そして、そのことに気付かない盟ではないのだ。
「師匠?」
何かありましたか? そう問い掛けてくる盟。純粋な気遣いしか、そこにはなかった。
俺とは違って、どこまでも真っ直ぐに育ってんなぁ。
そんな羨望とも付かない思いに駆られるのを、デスマスクは自覚するしかなかった。
「師匠? 大丈夫ですか? お疲れになってます?」
「ああ、また不出来な弟子の面倒見るのかと思うと、疲れるな」
「…ははは。そう、ですよね。俺のせいでお師匠も疲れてるんですよね」
言葉に無意味な棘を含んでしまう。ただのみっともない八つ当たりだ。それを盟は生真面目に受け取ってくれる。本気で申し訳なさそうに落ち込んでいく。
違う。そうじゃない。
お前はよく出来た弟子だ。
そう言い掛けて、口を噤んだ。
盟を髪の毛座の聖闘士にする決心は、まだついていない。不用意な言葉で盟に期待を持たせたくないと、そんな甘ったれた思考が脳裏を掠めていく。
こんなんじゃ、無駄に死なせるだけだ。俺はサガと共に行くと決めた。目的を見失うな。不要なものは今までのように、切り捨てればいいだけのこと。選び取れるものは一つだけ。自分を見失うな。
タイムリミットが迫っているのだ。甘い考えは捨てろと己に言い聞かせるように、デスマスクは意識を切り替えた。
「あと半年で稽古を仕上げるぞ」
「え?」
「この俺様に面倒掛けたくなかったら、振り落とされんなよ?」
「は、はい!」
落ち込みから一変、嬉しそうに返事をする盟が、ひどく眩しく映った。
半年など、本当にあっという間なのだな。ぼんやりとそんなことを思う。
聖衣を与える為の最終試験という名目のものはやらない、そう告げたのは、期限と決めた日の五日前。
「お師匠。俺は聖闘士の最終試験ってやつを受けさせてもらえないんですか?」
「最終試験に挑めるレベルだと思ってんのか、このヘタレ」
「俺、自分でも結構強くなってると思うんですけど」
「聖衣を得るのはそんな簡単なことじゃねぇんだよ。才能無かったと思って諦めろ」
「諦められるわけなんて、ないじゃないですか! 諦めるとか嫌ですからね。俺、絶対に聖闘士にならないといけないんですよ!」
「お前の事情なんか知るかよ」
「俺は聖衣を絶対に手に入れます。エトナ山に行けばどうにかなるんでしょう!?」
「エトナ山から拒絶されるのが関の山だ。無駄なことはすんじゃねぇよ」
「なんで!? ここまで来て、なんで、駄目なんですか!?」
「ここまで来ても、お前に才能は無かったってことだ」
「嫌だ。絶対に、そんなの受け入れられない。俺、絶対に嫌ですからね!?」
「だだこねてんじゃねぇよ、クソガキ!」
苛々とした動作で、デスマスクは盟の横腹に蹴りを入れた。少年の体は簡単に壁際まで吹き飛ばされる。
苦鳴を漏らしながらも、盟は立ち上がった。
「もう、師匠の言う期限が迫ってるのに! なんで、俺の力を認めて貰えないんですか!?」
「俺様の蹴り一つ躱せない程度のガキに、髪の毛座の聖衣が着けられるかっての。聖闘士を舐めてんじゃねぇよ」
尚も、デスマスクは盟を蹴りあげる。しかし、盟は諦めることなく、デスマスクに食らい付いて行った。
疲れ果てたのか、盟は起きあがることを止め、床に寝そべったまま悔しげに何かを呟いていたが、デスマスクにはどうでもいいことだった。
髪の毛座の聖衣には近付けさせない。それが、デスマスクの出した結論だった。今の盟では髪の毛座の聖衣の力に呑まれるだけだろう。普通の聖闘士と比べれば、今の盟が格段に強いのは確かだ。だが、髪の毛座はそれよりも別格なのだ。生半可な力で挑めるものじゃない。
だから、盟には諦めさせたかった。髪の毛座から遠ざけたかった。日本へさっさと帰ってしまえ、そうとも思った。
盟の姿が見えないことに気付いたのは、夕刻間際になってからだった。
ふて腐れまくっていたから、今日の晩飯は盟は絶対に作らないだろうと思い、デスマスク自ら調理したのだ。しかし、その盟がいない。
「まさか、あのガキ!」
不意に盟の行動が読めてしまい、デスマスクは慌てて外へと飛び出す。
遠方に見える霊峰。黒々とそびえ立つエトナ山へと意識を向ける。盟の小宇宙を探ろうと試みる。
「あの馬鹿は!」
師匠の言うことくらい聞けよな、そんな暢気なぼやきすら出て来なかった。
デスマスクはエトナ山へと向けて駆け出していた。
テレポートを繰り返し、瞬く間に山麓に辿り着く。
一般人が入れないルートを登って行く。
陽が沈み、辺りが夕闇に包まれても構わずに、デスマスクはエトナ山の黒い斜面を登り続けた。しかし、決して、山頂へは辿り着けない。聖闘士の力であれば簡単に辿り着けるはずの山頂が、全く見えなかった。
「ちっくしょう!」
忌々しげに吐き捨てる。
盟の小宇宙は、確かにエトナ山麓まで来ていることを示していた。しかし、エトナ山に入ったこと以外、全く分からなかった。小宇宙が完全に途絶えていた。
「くそったれがぁ!」
霊峰はデスマスクを拒絶していた。決して盟が辿っただろう山頂への道を開かせてはくれなかった。
デスマスクは霊峰から敵と見なされてしまったらしい。凄まじい拒絶だった。髪の毛座の宿命を背負う盟を守ろうとするかのように、盟を取り戻しに来たデスマスクを敵と判じたのだ。
盟は、霊峰に受け入れられてしまった。そこに眠る荒神に取り込まれれば、人としての命は無いだろう。神に挑むことと同じなのだ。神に挑むには、神よりも一手先を読む程の力がいる。それほどの力と覚悟を持ってしなくては、神の領域へは入り込めない。
髪の毛座の聖衣が、都合良く盟の元へ現れるとも思えない。あれは、荒神を封じるもの。アテナの名の元に集い戦う聖闘士とは、また別の存在なのだ。普通の聖衣ではない。
もっと早く、盟を手放すべきだったのだ。むしろ、この手で殺してやるべきだったのかもしれない。髪の毛座に、荒神に捕らわれるくらいならば。
盟の意志が荒神を上回れば、盟は聖衣を手に戻って来れるだろう。しかし、そんな望みは皆無に等しい気がした。
もっと早く、盟を手放してやるべきだったのだ。またしても自分の甘さに反吐が出る思いだった。
生温い生活が、人並みの生活というものが、少しだけ面白かった。成長していく少年を見守ることに、心地よさを感じていた。
しかし、そんな甘ったれた感傷で、また判断を誤った。
もっと早く、盟を手放すべきだったのに。
俺はまた、間違えたのだ。
タイムリミットと定めた時刻まであと六時間。
デスマスクは、修行の拠点である家の庭先にある岩の上に腰掛けていた。ただじっと空を見つめていた。腹立つくらいに、綺麗に晴れ渡った空だった。
ここにいられるのも、あと六時間。
「馬鹿が…」
呻くように呟かれる言葉。それは、自分へ向けた嘲りなのか勝手に動いた弟子を思っての罵りなのか。
もう一度「馬鹿が」と吐き捨て、デスマスクは立ち上がる。
三年という歳月を過ごした家を振り返ることなく、歩き出す。
視線は真っ直ぐに、地中海を越えた先にあるギリシャの島々を見つめる。
「弟子を育てる師匠」はもうどこにもいない。ただの黄金聖闘士に戻るのみ。教皇に与する黄金聖闘士だ。
正義を唱え、世界の安定を願う教皇に付き従う、ただの蟹座の黄金聖闘士に戻るだけの話。
ただ、それだけの話なのだ。
「お帰り」
やはり、聖域の十二宮へ入るなり出迎えてくれたのはアフロディーテだった。聖衣は着けていない私服姿で。
「ああ」
抑揚の無い声で軽く挨拶を交わす。
「弟子は、どうなった?」
デスマスクの様子から、駄目だったのだろうと推測しながらも、アフロディーテは問い掛けた。たぶん、今ここで聞いておかねばいけない気がしたのだ。デスマスクの抱えるものを見定める為にも。
デスマスクは僅かに鬱陶しそうな素振りを見せ、それから、はやり抑揚の無い声で答えた。「失敗だったわ。使い者にならねぇガキだったぜ」と。
「…そう」
アフロディーテはそれだけを言って、白羊宮へ続く階段を登った。その後ろをデスマスクも続いた。
デスマスクの剣呑な小宇宙を感じたのかただの不在か、金牛宮の主は姿を見せなかった。
アフロディーテは今は喋る気にはなれなかったので、内心でほっとしていた。そんな自分が滑稽ではあったけれど。
巨蟹宮に着くなり、デスマスクは「じゃあな」とだけ呟き、宮内へと姿を消す。
「教皇には会わないのかい?」
そう問えば、「全部、明日でいい」そう小宇宙で返ってきた。
弟子の盟は死んだのだろうか。
可愛い子だったのにね。
そんなことを考えながら、アフロディーテは十二宮の階段を登り続ける。
盟が弟子に来たばかりの頃に、シュラを引っ張って修行中のデスマスクの元を訪れたことが幾度かあった。
真っ直ぐだが、柔軟な子だったと記憶する。ジョークも上手く、いつも笑っていたイメージしか浮かばない。
デスマスクには勿体無い弟子が来たね、そう言ってからかったものだ。
髪の毛座とは、なんだったのだろうか。
後半から見られた、デスマスクの思案ぶりから思うに、かなり特殊な星座で聖衣なのだろうとは思っていたが。
「本当に、ただの青銅聖衣ではなかったんだね、デス」
自宮へと引き上げてしまった友へと、アフロディーテは小さく問いかけていた。
「デスは戻ったのか?」
磨羯宮へと足を踏み入れれば、主のシュラが顔を見せる。
「ああ。ついさっきね。疲れたらしく、今日は自宮で休むらしいよ」
そう答えながら、アフロディーテはシュラの顔を見ることなく宮を通過しようとした。その腕を、シュラは掴む。
「何かあったのか?」
「別に何もないよ?」
やんわりとシュラの手を解きながら、アフロディーテはやはり冷たい声音で答えていた。
「なぜ、お前が苛立っている?」
「そう感じるのなら、そっとしておこうとか思わないわけ?」
「理由を聞きたい」
「随分と上から目線な物言いだね」
「別にそんなつもりでは、」
「デスの弟子育成は終わった。弟子は連れてなかった。それだけのことだよ」
「弟子を連れていない? なるほど。駄目だったのか。しかし、修行に耐えられずに命を落とすことなど、聖闘士の修行には付き物だろう」
「デスの弟子育成は他とは違った目的を持っていた」
「ならば、尚のこと。そう簡単に行くことの方が…」
「少し黙ってくれないか、シュラ。何も知らないくせに。知ろうとしないで逃げ続けてる君に、…………言い過ぎた。謝罪する」
「…………」
瞳目したまま、シュラは立ち尽くしていた。思考が停止しているかのように見える。
アフロディーテは小さく「すまない」と口にし、動かないシュラの横を通り過ぎた。
真実を探ることを是とさせなかったのは、自分たちだというのに。シュラが真実に辿り着けば、確実に正気を保てないと、勝手にシュラを真実から遠ざけ、けれど、教皇の正体は教え。こちら側に巻き込みながら、真実は自分で探せと突き放し。
卑怯なのは自分たちなのに。シュラを責める資格などありはしないのに。
アフロディーテは自責の念に駆られそうな己を叱責しながら、ただひたすらに十二宮の石段を登り続けていた。
無性にサガに会いたくなった。サガに会いたくて、仕方がなくなっていた。
「サガは、出て来てくれるだろうか」
泣きそうな心境に陥りながら、アフロディーテは己の宮をも通過し、その先へと進んでいた。
「魚座のアフロディーテ、入ります」
教皇宮の謁見の間。扉を開ければ、重苦しい空気を纏った教皇が座していた。
外に待機する者に人払いを命じ、アフロディーテは進み出る。
「教皇、ですか」
教皇であることは分かり切っているというのに、アフロディーテは落胆を隠せなかった。
「私であることが不満か?」
くつくつと喉奥で笑いを澪す教皇。笑っているが、纏う空気は冷たい。
「お前が私の前に膝を折るなど、珍しいことがあるものだ。何か火急か?」
片膝を付き、頭を垂れ、アフロディーテは小さく唇を噛みしめる。何をやっているのだろうか、自分は。本当に呆れて言葉もないとはこのことだな。そう自嘲したくなる。
「いえ、特に用件は無く。教皇のお加減は如何かと少し気になりましたもので…」
白々しい台詞を口に乗せながら、ますます気が滅入りそうだった。
ただ、サガに会いたいだけなのに。なぜ、これほどまでに難しくなったのだろうか。
サガは、今も本当に無事でいるのだろうか。
「私もサガだということを、お前はよく失念しておるようだが?」
「……」
「私はサガの本性。押さえ込まれた本音の具現よ。いずれ、私が主人各となろう。心しておけ」
そう言い、教皇は冷たい笑いを澪し続けた。
アフロディーテは顔を上げ、鋭い眼差しで教皇を睨め付けていた。
くだらん、というように、教皇は手を振りかざす。アフロディーテを凄まじい波動が襲うのは一瞬のこと。
「ディーテ。無事か? すまんな、この頃はどうにも奴の力に押され気味のようだ。お前が来てくれて嬉しく思うよ」
「サガ!?」
衝撃に耐えようと、両の手を眼前で交差させていたアフロディーテは、歓喜に満ちた声を上げた。上げずにはいられなかった。
「サガ! ご無事で。良かった。貴方は無事なんですね。良かった」
子供のように泣きそうになってしまう。
いつ以来になるのか。サガの顔を見れるのは。
デスマスクが聖域を離れるようになってからは、本当に数える程度しかなかったのだ。
サガは無事だ。優しく気高く、正義を成すために戦い続けている。まだ私の正義は生きている。
アフロディーテは見栄も外聞もかなぐり捨て、サガへと駆け寄っていた。サガの両手を握り、自分の額に押しつける。祈るような仕草だと、サガは小さく苦笑いを澪すが、アフロディーテが気付くことはなかった。
「ディーテ。どうした。とても悲しそうな顔をしている」
サガの優しい声。優しい指先がアフロディーテの髪をゆるく解かす。
「デスが戻りました。教皇に命じられた髪の毛座の聖衣は持っておらず、弟子も、いませんでした」
「デスマスクはどうした?」
「報告には明日行くと。疲れた様子で、自宮に引き上げています」
「そう、か…」
サガは苦しそうな声で呟く。全て、己がしでかしたことなのだと、言い聞かせているかのようだと、アフロディーテには思えた。
「あやつが髪の毛座を探せと命じていたが、何をする気だったのか。私は、デスが聖域を離れることを何をしてでも、阻止すべきだったのだろうか」
「サガは…! サガは、デスをどう思っているのですか。鬱陶しい? もう一人の貴方について指摘をして以来、貴方はデスを遠ざけていたように見えました」
「鬱陶しいなどと…。そうだな。私自身にもどうにも出来ない事象を的確に指摘され、あの時の私は正気を保てる自信がなくなりかけていた」
「サガ…」
「しかし、時間を置き静かに考えれば、デスの言うことは正解なのだと思ったよ。私は、デスに申し訳の無いことをした」
「サガ。思っても、デスには謝らないで下さいよ? 謝罪なんかされたら、あいつ、本気で貴方に殴りかかりますよ」
「そうか。私はデスに殴られるか」
少しだけ愉快そうにサガは笑った。それもいいかもしれないと笑い続けたが、アフロディーテはデスマスクの逆鱗に触れるだけだから止めておけと、釘を刺すことを忘れなかった。
サガと過ごす穏やかな時間。穏やかな会話。
この数年、縁の無かったものだと思うと、何とも切ない気分に陥る。
アフロディーテはサガの差し出すワインを受け取りながら、ゆるりと笑んでみせる。泣き笑いのようだと思われていなければいいが、そんなことを思った。
深夜を回り、新月の為に月明かりも無い時刻にデスマスクは教皇宮を訪れていた。
「報告に上がりましたよっと」
気安い口調でそう言い、デスマスクは遠慮無しに教皇の私室へと足を踏み入れる。
「報告って、こんな時間にかい?」
呆れたようにアフロディーテが言えば、デスマスクは盛大に顔を顰めてみせた。
「お前のピンク色の小宇宙だだ漏れでおちおち寝てられねぇんだよ!」
指先をアフロディーテの顔へと突きつけ、声を荒げてみせるも、アフロディーテはわざとらしく優雅に微笑むだけである。隣でサガが微苦笑を浮かべていたが、無言を通していた。二人のじゃれあいのような喧嘩には首を突っ込まないと決めているらしい。
一通り、いつものようにぎゃいぎゃいとやり合った後、デスマスクは気が済んだかのようにサガに視線を向けた。サガはその眼差しを静かに受け止める。
「デスマスク。任務、ご苦労だった。よくやってくれたようだ」
「任務は失敗ですよ。弟子は聖闘士として使い者になりませんでしたし、聖衣も見つけ出すのは不可能でした」
報告は以上、と無表情のままに切り上げようとする。
「そうか」
囁くように、サガはただ静かに答えていた。
デスマスクはそのまま退出しようとしたが、何か思い出したかのように足を止めた。
「ああ、と。そうだ。サガ、あんたが表にいる内に言っとくか」
その言葉に、何だ? とサガは思案げにデスマスクの顔を見つめる。
「弟子の育成に費やした三年の間に、色々調べ回したんだよ。アテナのこととか」
「ほう…。何か分かったのだな?」
「これはまだ推測の域を出てないが、アテナは、生きている。そして、恐らく日本にいる」
「ふむ。その根拠は?」
「この数年で一気に増えた聖闘士候補生の八割方が日本人か日系人だと気付いてるか、あんた?」
「ほう。この聖域に新たに来た候補生も日本人だったが、そんなにいるのか。誰かの差し金か?」
「グラード財団が裏で咬んでいるっぽいな。何をしたいのかはまだ不明だが」
アフロディーテも細かい情報を聞くのは初めてだったのだろう、少しばかり驚いたような顔を見せている。
「城戸光政。すでに故人のようだが、こいつの元に引き取られた孤児たちがほぼ全員、聖闘士候補生として各地に送り込まれていたようだ」
そこまで言い、デスマスクは小さく息を吐いた。
「俺の弟子だった盟だが、こいつは城戸光政の実子だったのは確実だ。どうも、盟のやつは自分から孤児となって修行に送り出されたようだが」
「盟が? なぜ自分から、また…」
「さあな? 自分だけ坊ちゃん扱いの特別待遇に耐えれなかったとか? あいつの性格なら有りそうだなとは思った」
「…そうか。盟は、」
そう言いかけ、アフロディーテは口を噤む。これ以上は言う必要の無いこと、盟も望まぬことだと判じたのだろうか。
余計なことを言ったと、決まり悪そうにデスマスクは髪を掻きむしる。
サガは何を思うのか、静かに目を瞑っていた。
デスマスクもそれ以上口を開くことをしなかった。何となく、立ち去るタイミングを逃したようで、どうしようかと立ち尽くしていた。
「サガ。アテナについて、もっと深く追求させてみますか?」
沈黙を破るように、アフロディーテはそう提案を持ちかける。しかし、サガはゆるく首を振った。
「いや、今はこれだけで十分だ。これだけ分かっていれば、今は十分だよ。ありがとう、二人とも。感謝する」
「あんたに感謝されたくてやってる訳じゃねぇよ」
「デス!?」
アフロディーテの非難めいた声。サガは切なげに笑いを澪す。
聖域の外へと追いやった三年という隔たりが、デスマスクとの間に確執めいたものを残したことは間違いないのだ。サガ自身が招いたことだ。デスマスクはいつだって、サガを第一に考え動いてくれていたのに、それを裏切るような真似をしたのは、己の弱い心。
デスマスクはサガを見限り、いつ袂を別ってもおかしくないというのに。それでも、デスマスクはサガを糾弾することはないのだろう。
「デスは、私の……、」
「それ以上、何かくだらねぇこと言うならぶっ飛ばすぜ?」
サガの言葉を遮り、デスマスクはサガに向けて拳を放っていた。顔の真正面、触れるぎりぎりで止められた拳。
またもアフロディーテが非難の声を上げていたが、聞き流した。
「今の私に、謝罪の言葉は許されないか」
「分かってんなら、言うんじゃねぇよ」
睨んでくるデスマスクを静かに見つめ、そして、サガはふっと力無く笑った。
「私は私の求める道を突き進んでいいのかな?」
「ああ、好きなだけ突き進んでくれよ。俺はあんたの行く道を行くって決めたんだ。あんたの邪魔になるものは排除してでもな」
「お前は、いつまで経っても優しいな。私に甘すぎるのではないか?」
「自覚があんなら、もうちょっとは頑張れよ、教皇様?」
「ああ、そうだな。もう少しだ。もう少しで、時が動き出すのだから」
サガは穏やかに笑い、気付けば、デスマスクの纏う空気にも棘が無くなっていた。そして、勝手に話を進める二人の間に、我慢できないとばかりにアフロディーテは割って入るのだった。
「デスばかりがずるい! サガはいつだってデスはデスはデスはだ! 私だって、」
「ディーテ。お前は本当に真っ直ぐで気持ちが良いな。おいで」
「……その言い方。まるで私は子供じゃないか」
「お前の言動はどう見てもガキだったじゃねぇか」
「うるさい蟹。少し黙ってろ蟹」
「何だよ、その言い方!」
「たまには私にサガを譲れって言ってるんだ! お前ばかりサガと!」
「その見苦しい嫉妬がガキなんだろうが!」
「うるっさい! 蟹は黙れ!」
「二人とも落ち着きなさい。ディーテ、ほら。こっちに、そういい子だ」
「うー…」
サガに抱き込まれ、感情を押さえ込んだアフロディーテは威嚇するようにデスマスクを睨み付けていた。
「まんまガキじゃねぇか」
「こら、デス! もう止しなさい」
アフロディーテを片手に抱き込みながら、サガはデスマスクをも近くへと呼び寄せた。
幼い子供だった頃のようにサガに優しく抱き込まれたことで、二人とも気持ちを沈めていったようだった。
放つ小宇宙がひどく優しかった。
しばらく、そんな状態を甘受していたが、不意にアフロディーテは呟く。
「私、シュラに謝らないと。シュラに酷いことを言った」
きゅっと唇を噛みしめ、懺悔を求めるように言葉を紡ぐ。
「シュラは、本当にアテナを守ることになると信じて戦っているのに。アテナはこの聖域にいると無理にでも自分に言い聞かせて、私たちと共にいてくれてたのに…。そのシュラに、酷いことを言ったんだ、私は」
「…朝になったら、シュラに会いに行こうぜ」
そっぽを向いたまま、デスマスクはそう提案する。アフロディーテが嬉しそうに笑うのを、サガは目を細めて見つめていた。
サガに言うべき言葉はなかった。アフロディーテが苦しむのも、デスマスクが苦悩するのも、全てサガに起因すること。けれど、今のサガに謝罪の言葉は許されない。今はまだ、許されないのだ。
サガは穏やかな口調で二人に話し掛ける。
「二人とも、天馬座の聖衣のことを知っているかい?」
その問いかけにアフロディーテは軽く首を傾げる仕草をした。
「天馬座? 名前くらいは」
「逸話のこと言ってんのか?」
「逸話って?」
デスマスクの言葉にアフロディーテは問い直し、サガは静かに頷いた。
「天馬座は、いつの時代も常にアテナの側にいる聖衣と言われている。その天馬座の聖衣の候補者が現在、この聖域内から二名出ているんだ」
「ってことは、天馬座の聖衣が見つかったのか!?」
「そういうことだ」
「アテナを守る天馬座の聖衣…」
「滞っていた聖域の時が、動き出すようだ。私の成すべきことも、近づいてきている」
そう言い、サガはそっと目を閉じた。
デスマスクとアフロディーテは、申し合わせたように視線を交わしていた。気を引き締めるかのように、気持ちを確かめるかのように、そっと頷き合っていた。
滞っていた、聖域の時が動き出す。
あの日から一歩も動けずにいたサガの時が、動き始める。
闘技場で行われる天馬座の聖衣を掛けての戦い。
観客席は久しぶりの娯楽とでもいうように賑わっていた。
サガはサガのまま、教皇の姿でその戦いを眺める。
ついに、天馬座が動き出す。
サガの側には、黒いマントで素性を隠したデスマスクとアフロディーテが控えていた。天馬座の姿を見ておけと、サガが同行を指示したのだ。
「お前たち、聖衣はどちらが勝ち取ると思うかい?」
サガは二人の力を見定めるように、そんな問い掛けをした。
二人は迷うことなく、小柄な東洋の少年を指した。理由を聞けば、
「あの子の小宇宙を見れば」
「聖衣があのガキを欲しがってる」
というものだった。
さすがだな、とサガは嬉しそうに微笑むのだった。
-------------
13.10.27
ちょっと途中で放置し過ぎた。7話目の更新が3月とか…。本当にすみません。
シチリア師弟アンソロで小話を書かせて頂いたり、カミュミロアンソロで小話を書かせて頂いたり。
この話を書いてる途中だったもので、どっちのアンソロの話も根底にこの話の設定が流れてるという始末。ははは…。本当はね、せめてシチリア師弟アンソロが出る前にこの8話目をアップしたかったんですよね。
あれで盟の話の補完というか完結という形にしていたので。蟹視点の話では書けないネタだったので。
いや、そう思ってたんですけどね。
うっかりCCFF7プレイして、そのまま何故かDFFやDdFFをプレイしてそのままFF7熱を再熱させてしまったり。
今更にFF7の外伝小説を探し回り買い求めたり。
セフィロス熱がちょっと落ち着いたら、怒濤の勢いで進撃にドハマリしかけたり。
そうこうしてる内に、仕事がクソ忙しくなって毎日へたばって、文章書く気力なくなってたという有様。
ようやっと帰ってきました。遅せぇよってね。ホントにすみません。
|