黄泉より返る

 

 

 

 

 アテナ神殿のアテナ像の下。
 そこには、十四名の聖闘士たちが、呆然とした顔で立ち尽くしていた。皆、ゆったりとした白く長い布を纏っている。トガやヒマティオンと呼ばれる古代に着られた衣服だと知るものは少ない。

 静かに掛けられるアテナからの言葉。
 ある者は感動に泣き咽び、ある者は驚きそして喜び。その中で、不服そうに座り込む者が二名ほどいた。





 聖戦に於いて、アテナによりハーデスが討たれたことは、オリンポスの神々を震撼させた。
 今までの小競り合いによる封印などという生易しいものではなく、討ち滅ぼしてしまったのだ。
 このような所業は、神の世のパワーバランスが完全に崩れてしまうと、天上の神々はアテナを非難した。人間を愛するあまり神としての矜持を忘れたか、と罵った。
 封印されるという体裁で意図的に眠っていただけのポセイドンも、さすがにアテナを庇い立てするのは困難だと宣ったほどだった。
 兄のアポロン、姉のアルテミスは本気で人間がアテナを狂わせたと嘆いた。
 アテナを天界へと取り戻すには人間を粛正するしかない、そんな物騒な思考に達しかけた時、長い時を不在にしていたゼウスが帰還した。
 さすがに全オリンポス神対アテナと聞いて失踪していた父ゼウスも少々慌てたようだった。
 そこで為された提案が、ハーデスの甦りと共に各陣営の主戦力となる人間たちの甦りだった。
 そして、天界、海界、冥界、地上の不可侵条約の締結。ただし、今生のアテナの命運が尽きるまで、という制限付きではあったが。人の肉体を持って転生しているアテナが、この先どれくらいの生を全うするのか分からないことだったが、それでも、次の転生までを入れても後二百年は聖戦は起きないことは約束された。
 ハーデスが完全に力を取り戻すまでに、やはり百年、二百年の時間が必要と思われることもある。
 神にとっての百年など、瞬きをする程度の事。それくらいの時、たまには静かにしてもよかろう、そう、天界の神は言った。
 現在、神としての力を保有したままなのは、天界の神々と海界のポセイドン、そして、地上の戦女神アテナとなる。ただし、ポセイドンは相変わらず地上での実体を得ようとはせず、有事にはソロ家の人間の体を借り受けその姿を表すので、現在においては驚異もなさそうだった。
 むしろ、今生の寄り代がゼウスの娘、つまり姪であるアテナに求婚したことがかなりの痛手だったようで、現在はあまりその寄り代すら使いたがってはいない。


 そして、アテナ像の下に集う黄金たちの姿。
「あの、アテナ様?」
 行儀悪く座り込んで、あからさまに不服そうな声で話かけるのは蟹座のデスマスクである。
「こんな形で復活って、俺らのあの戦いに賭けた信念台無しじゃないっすか。俺、格好悪すぎっしょ」
 そんな言葉も予想済みだったのか、アテナはしおらしく視線を俯ける。
「サガ、カミュ、シュラ、アフロディーテ、デスマスク。あなたたちには、三度も死を味合わせ、経験させてしまいました。その上、また地上の為に、聖域の為に生きろというのは酷なこと以外に他ならないと分かっています。それでも、どうか、今一度、私に力を貸してはくれませんか」
 アテナは涙を澪す。泣いて感動していた他の黄金たちが非難の眼差しをデスマスクに向けるが、当のデスマスクは素知らぬ顔だ。
「……ぶっちゃけ、俺らはもう、生きるのに疲れ果ててんすけど。もう、あの十三年間は全力疾走よ? 太く短い人生でいくつもりだったのに。なにこれ?」
 嘲るようにデスマスクは笑った。
「蘇りって、なんだよこれ」

「まあ、冥王軍と戦った黄金たちはともかく、俺まで何で? とお聞きして宜しいかな」
 とは、デスマスク同様に地べたに座り込み、傍らに立つサガから注意されるも無視を決め込んでいる双子座にして海龍のカノンである。
「あなたも立派に黄金聖闘士として戦い抜いたではありませんか」
「しかし、ただの一時的な戦力に過ぎないはずだ。神々の恩恵に預かれるとは思いもしなかったが」
 恩恵といいながらも、その口振りからは迷惑だと存外に言っているようなものだった。
「カノン…。あなたについては、私からの希望と、そして、海皇ポセイドンによる強い要請があったからです…」
「あー、やっぱりか…」
 めんどくせぇと言わんばかりにカノンは空を振り仰ぐ。
「カノン! お前、さっきから何だその態度は!? アテナの御前にして――、」
「サガ、良いのです」
 サガの叱責をアテナはやんわりと制した。
「カノンやデスマスクの言い分は当然のことでしょう。神の都合で振り回し、神の都合で必要な者だけを甦らせるなどという荒行。決して受け入れられるものではないのですから」
 アテナは静かに涙を澪す。
「私は、また、貴方たちに辛い生を押しつけようとしているのです。ですが、それでも、私は貴方たちに生きて欲しかった。ただ、戦う為だけに生き続けてくれた貴方たちに、今度こそ、人として僅かな間でも、穏やかに生きる時間を……」
 そのまま両手で顔を覆い、アテナは嗚咽を澪す。
 事ある毎に単身で敵陣に乗り込み、単身で敵の大将に突っ込んで行ったあの勇ましい姿は今はなく、ただ、慈しみと悲しみの感情だけが澪れ落ちていた。

「沙織さんを泣かせるなんて、ひどいですよ!」
「何なんだよ、さっきから聞いてりゃ! あんたたちそれでも聖闘士の最高位の黄金かよ!? 沙織さんがここまでどんな思いでいたか知りもしないでさ!」

 今までアテナの護衛として後方に控えるようにして立っていた青銅たち ――瞬と星矢である―― が非難の声を上げた。

 本気か演技かわからないが、号泣するアテナを前にいい大人に分類される黄金たちは慌て、そして、反抗を示していたデスマスクとカノンに再び一斉に非難がましい眼差しを向けたのだった。
 サガに至っては、立派にアテナの護衛を勤めるまでになって、と星矢たちを見つめ涙を流している。

「だからさ、あんた――、いって!」
 アテナに向かって「あんた」と言った瞬間に、側にいたシュラがその頭を勢いよく叩いた。
「もう少し言葉を慎め、貴様は」
 シュラを軽く睨みながらもデスマスクは言葉を改める。
「ですから、アテナ。この俺を甦らせてもまた不穏の種を蒔くだけだと思わなかったんですかい? 他の連中が納得しないでしょ」
「十二宮における、蟹座の役割を私は分かっているつもりです。あなたがいなくては、聖域は結界のバランスを保てないのですよ。死者に寄り添い生きる、聖域の裏の門番たる蟹座」
「だったら、他に積尸気の使い手を探せばいい」
「デスマスク。あなたでなくては駄目なのです。いえ、デスマスクだけではありません。サガ、シュラ、アフロディーテ。あなたたちも同じく必要なのです。その力がではなく、あなた達という存在そのものが必要なのですよ。それは聖域を維持してきた官吏たちの希望でもあります」
「…維持ねぇ」
「サガが倒れ、そのまま私の手に渡った聖域は、緊急時にも関わらずスムーズに動いてくれました。それが、あなたたちが必死に、そして、しっかりと聖域という組織を維持し管理してくれていた証拠に他ならないでしょう」
「奪い取った聖域なのに?」
「経緯がどうであれ、その後のあなたたちは私が戻るまでの月日を必死に支え続けてくれていた」
「保身のために、そうするしかなかっただけだろ…」
「私はそうは感じません。あなたの行いの裏にあった思い、私は分かりたいと思います。どうか、その機会を私に与えてくれませんか?」
 静かに頭を下げられ、デスマスクはたじろぐ。
「ムウやリアが、納得しねぇだろ」
 その言葉に、サガとシュラの肩が微かに揺れる。
「そう、なのですか? ムウにアイオリア?」
 アテナの言葉に、ムウとアイオリアは一瞬「え?」と呆けたような反応を示した。いきなり話題の矛先を向けられ、咄嗟に対応出来ないでいる。
 すると、今まで後方で黙って事の流れを眺めていたシオンが、すっと静かな動きで進み出た。両手にサガとカノンを捕まえて。
「…!?」
「なに!?」
 気づいた時には腕を捕まれアテナの前に立たされていた二人は、シオンの動きの早さに唖然となるしかない。

「アテナよ。すべての罪はこのシオンにあります」

 ハーデス側に付いた振りをしたあの夜と同様の、十八歳の頃の外見をしたシオンがいた。

「シオン?」
「私が倒れなければ、サガがあれ以上に追い詰められることも、アイオロスが討たれることも、残されたムウとアイオリアが辛い思いをすることも、ありませなんだ」
「シオン…何をいうのです…」
「何より、私がこの二人の育て方を間違えたばかりに、アテナには多大なる迷惑を掛け…!」
 そう言った瞬間、シオンは左右にいるサガとカノンを力任せに座らせ、そのまま勢いよく頭を地面に付けさせた。いわゆる、土下座状態である。
「…!?」
「…ぐえ!」
 光速の動きで頭を押さえつけられた双子は、勢いよく頭を地面に激突させている。
「シオン!」
「すべては、教育の行き届かなかったこのシオンにこそ罪が…!」
 サガはさめざめと泣き、カノンはシオンの手を払い退けようと足掻いている。そして、シオンに殴られた。
「シ、シオン! そのように責めるものではありません」
「アテナよ。この子らを罰する前に、このシオンに…!」
「ですから! 私はあなたたちに罰ではなく、ただ私と共に生きてほしいと言っているだけです! どうして罰する話になっているのですか!」

 確かに、と星矢が呟いた。途中から論点がずれたな、と。
 サガとカノンの姿を気の毒そうに瞬と紫龍は眺め遣る。
 シオンの理不尽ぶりは瞬たちも経験済みだ。あの聖域での夜。シオンに真相を問いただそうとした瞬間、否応もなくぶっ飛ばされたあの夜。
 もう少し、他にやり方ないのかな。と瞬さえごちたほどの衝撃だった。

「だいたいさ、君が素直に生き返りを受け入れていれば、サガたちがあんな羞恥プレイをされずに済んだんじゃないの?」
 と皮肉を込めてアフロディーテがデスマスクに言い捨てた。
「だから、俺は…!」
「まあ、色んな意味での一番の被害者になったムウとアイオリアの意見だけは私も聞いておきたいかな? 私は蘇りは構わないけれど、君らを困らせるのは好きじゃない。君らが私たちの存在を好ましく思えないのなら、早急に聖域から立ち去るよ。もちろん、後継が出るまで有事には駆けつけるけれど」
 さらりと宣うアフロディーテの言葉に、ムウもアイオリアも立ち尽くす。
 ムウは視線を俯け、じっと考えている様子だった。
 状況を理解したらしいアイオリアは、数回瞬きを繰り返し、そして、
「アテナの愛に背くことの方が愚かだ! なぜ、素直にアテナの愛に応えない!? 俺は被害者なんかになった覚えもないぞ!」
 と、怒り爆発状態で叫んだ。
 ムウがそんなアイオリアを見つめ、そして小さく笑んだ。
「私にも、もう少し時間をくださいませんか。そんなに早く感情の整理など付けられませんよ。そもそもあなたたちはせっかち過ぎます」
「反逆者と一緒の空間にいられるのかい?」
「ですから、あなたたちはせっかちだと申し上げている。私だってこうして我が師シオンに再び会えて嬉しい。かつて、幼い頃を共に過ごしてくれたサガが戻ったことは嬉しいのです。…今しばらく、共に聖域にあって過ごさせて頂けませんか。私だって、ゆっくりとこの現状を吟味したい」

 土下座状態のまま、サガはまた泣いていた。カノンは相変わらず押さえつけてくるシオンの手と格闘している。

「………優しい子に育ったね」
「ですから! 私はもう子供ではないと!」
 くすくすとアフロディーテは笑った。
「私は、ちょっとだけこの甦りに感謝したくなりましたよ、アテナ」
「アフロディーテ」
 嬉しそうに微笑み名を呼んでくるアテナに、アフロディーテは優雅に微笑み返した。そして、デスマスクを見遣り、「異論はあるかい?」と問うのだった。
「はいはいはいはい。観念しますよ。ムウもリアも随分と物分かりのいいこって」
 デスマスクの自嘲めいた言葉に、アイオリアが澄まし顔で反応した。
「おまえ達が何を思い、何をしてきたのかなど、あの嘆きの壁の前に集った時に全て理解してしまったぞ」
「――……」
 完全に鼻白んだデスマスクはようやく口を噤んだ。





「教皇の間に大穴、巨蟹宮は半壊、処女宮に至っては全壊と。……本当にあんたやることすげぇな」
 壊された己の宮である巨蟹宮を見上げながらデスマスクは呟いた。呟きの相手はもちろんサガである。
「教皇の間と処女宮の破壊はサガだが、巨蟹宮を半壊させたのはシャカだ」
 と横から真面目に答えるのはシュラだった。
「ま、どっちでもいいよ、もう」
 言いながら、デスマスクは半壊の己の宮を散策し始める。
「ありそうか?」
 サガはデスマスクのぼやきなど聞き流す体で話掛けていた。
「たぶん、無事だとは思うが」
「もう少し、奥ではなかったかい?」
 そう、一緒に捜し物をしているらしいアフロディーテが声を掛けてくる。
 半壊の巨蟹宮に踏み込み捜し物をしているのは、サガ、シュラ、アフロディーテ、デスマスクの四名で、他の黄金聖闘士たちは遠巻きに見つめている。
 蘇り、全員を揃えて話し合い、それから教皇の間にある広間に移動しそれぞれが再会の喜びを確認し終えた頃、デスマスクが巨蟹宮に降りる許可を求めてきたのだ。
 偽教皇時代に隠したやつを取ってきたいと言って。その言葉に、ならば我々もとサガたちが同行し、気になるから俺らも見ると結局全員がぞろぞろと付いてきた。

「あ、これだろ! やはり、書庫ではなく地下シェルターにしておいて正解だったな」
 アフロディーテの声にデスマスクとシュラが駆け寄る。
「お。これだこれ。…開くかな」
 地面に鉄の戸のようなものがあった。その取っ手にデスマスクは手を掛け開けようと試みるが、破壊時の衝撃がすごかったのか、なかなか持ち上がらない。
「まさか、ここまで壊されるとは思いもしなかったわ。本当、地下にして正解だったよな…。しかし、開かねぇぞ、おい」
 デスマスクの言葉に、サガがゆったりとした足取りで近付いてくる。デスマスクに代わりその鉄の戸に手を掛けた。
 がこんっと大きな音を立てて鉄の板が持ち上がる。というか、取り外された。
「相変わらずのすげぇ馬鹿力」
「放っておけ」
 デスマスクの茶化してくる発言にサガは静かに返している。

 鉄の戸の向こうは、小さめの部屋になっているようだった。アフロディーテが地下シェルターと称したことを遠巻きに見ていたミロたちも理解したようだった。
「なあなあ、何を隠してたんだよ!? 財宝!?」
 堪えきれないというように、ミロが巨蟹宮へと足を踏み入れる。続いてカミュとアイオリアもやってきた。
「アホいうな。資料だよ、資料」
「はあ? なにそれ?」
「俺らが執政を取り仕切ってた頃に纏めた情報。暗殺対象の人間の情報とか聖域内の神官たちの不正の情報とか、隠蔽しておきたいやつをここに移しておいたんだ」
「……なんだ、つまんねぇ」
 と言った途端にミロの頭をカミュが小突いた。
「そのようなものを、なぜ破棄せずに残しておいた?」
 カミュが興味深げに次から次へと地下シェルターから運び出される書類の数々を眺めている。
「俺らが死んだ後に聖域を纏めるやつが困るだろ、情報残ってなかったら」
 あっけらかんとデスマスクは宣い、カミュとアイオリアは絶句する。
「……最初から、生き残る気などなかったのか、お前たちは」
 呆然とした状態でアイオリアは低く呟いた。
 デスマスクは素知らぬ顔で、アフロディーテが小さく苦笑して肩を竦めてみせただけだった。

「ふむ。破壊時の熱で少々紙が痛んでいるが、ほとんど無事なようだな」
 とシュラが中を改めながら言う。
 シオンが近付いてきて、シュラの手から書類の一部を取り上げた。
「ほう。それなりに仕事もこなしていたようだな」
「やるしかなかったからな」
 自嘲じみた声でデスマスクが答えていた。
「しかし、なぜまた巨蟹宮に保管をした? 教皇の間の方が安全ではなかったのか?」
 シオンは中身を読みながらそう問いかけてくる。
「黒い方のサガが焼き払うのが目に見えてたんだよ。だから、別のところに移そうと話し合ってさ。サガにも場所は言わなかったけどそのことは伝えてた。巨蟹宮は俺の周りに集まってくる死霊たちの顔のおかげで、まず立ち寄る人間が限られてたからな。教皇の間よりも安全だろうってことで」
「いっちょ前にそんなことをな、考えておったのか…」
 ごりごりとシオンはデスマスクの頭を拳で撫で付ける。
「うぎゃぴー! 何すんだよ、痛てぇって!」
 騒ぎ立てるデスマスクを横目に、サガは暗殺リストと思われる紙の束を静かに読んでいた。暗殺対象のほとんどが、長年に渡る不正で財を成していた神官や官吏たちだったが、後半は、もう一人のサガによるただの横暴で殺された者たちの名が連なっている。
 サガ自らが詳細を書き残すことを指示していた。
 止めようがなかったもう一人の己の暴走による所業の数々。
 どう償ったものか。形あるものとしては賠償金。後は、ただ聖域の為に働くだけか。そんなことしか償いの仕方など浮かばなかった。

「三回も死を味わって、これ以上サガに何の罰を与えられるっていうんだよ。死を嫌ってほど味合わされたんだ、もう贖罪は終わってるよ。後は、これからを生きるのに力を貸してくれればいい」

 サガの葛藤を読んだかのように、側に立ったアイオロスがそう語り掛けた。死した十四歳のままの姿だが、元々成長が早かったアイオロスは十四の時点ですでに身長が百八十センチを越えていた為、現在のサガと並んでもちょっと童顔の人かな、くらいの感覚しかない。
 それを星矢に指摘され、「それって俺が老け顔ってことか!?」と衝撃を受けていたのは先ほどの事だ。

「…ロス」

 冥界で会えなかった時、サガはアイオロスはコキュートスに落ちるのではなく、天界へと上がったのだろうか、と考えていた。
 そうであればいいと、勝手だと分かっていながらもそんなことを思っていたのだ。そして、それは事実として目の前にあった。
 天界にあったアイオロスの魂はあの日からずっと十三年に渡って、アイオリアとサガの側にいた。
 そのことを知った時、アイオリアは我慢していたものが決壊するように泣きじゃくっていた。





 聖域の内部が落ち着くまで、全黄金聖闘士は聖域に待機。教皇には一時的としてシオンが着任。
 改めてアイオロスかサガに教皇を譲る為に二人をしごくということだった。
 ということで、サガとアイオロスは教皇補佐という形でシオンの側近として付くことになる。
 サガは教皇候補そのものを辞退したがったが、何が起こるか分からないのだから、大人しく従っておけとシオンに押し切られていた。



 その日の午後、カノンは教皇とアテナに謁見を求めた。
 教皇の傍らにはアイオロスとサガの姿も当然のようにある。
「カノン。あなたの言いたいことは分かるつもりです」
「アテナ。おそらく、ポセイドンはおれ…私を海界へと戻すよう要請しているのでしょう?」
「ええ。私の、アテナの聖闘士でもあると言いましたが、ポセイドンは自分が救い海将軍にしたのだと主張を止めません」
「実際、私はポセイドンに二度も命を救われている。一度目はスニオン岬の岩牢、二度目はポセイドン神殿崩壊の最中。そのおかげで、私はハーデスとの戦いに馳せ参じることが出来たのも事実」
「カノン、お前…」
 ポセイドンへの恩義を語るカノンを見つめ、サガが困惑気味に名を呼んだ。そのサガに視線を向け、カノンは小さく笑みを作る。
「アテナ。神の恩恵により再び得たこの命。神に逆らうことなど出来ぬことは承知の上でお願いしたく」
「カノン、あなたは、どちらを望みますか」
「海界に集う海闘士たちは、ほとんどが海で命を落としかけ、ポセイドンによって救われた者たちばかり。ポセイドンの下で第二の生を全うしようとする彼らは、地上には帰る場所を持たないのです。自分の力を自惚れるつもりはありませんが、しかし、彼らを見捨てる気にはなれないのです。彼らが私を受け入れようとも拒絶しようとも」
「ポセイドンがあなたを求めている以上、海界であなたを拒絶する者などいないのでしょう?」
 カノンはやはり、小さく笑むだけだった。
「カノン…」
 サガの表情が困惑から悲痛なものへと変わっていくのが分かる。
「ですが、アテナよ。私はやはり双子座の星の下に生まれた身。このまま聖域に留まりたくも思うのです。ようやく再会の叶った兄の側に」
「………」
 サガの目が驚きの表情を浮かべ、大きく見開かれる。
「もう、兄弟で憎しみ合い殺し合うのは疲れました。海界も捨てられず、兄も捨てられぬ身勝手な私を、どうかお許し願いたい。海にも戻れず、兄の側にもいられないのであれば、私の生には何の希望も見いだせない。どうか、黄泉へと戻して頂きたい」
「カノン! 何を馬鹿なことを!」

 サガの声を聞きながらカノンは静かに目を閉じる。

 どちらかを選べと言われても、どちらも捨てられないのだ。何も、何一つとして、自分のものなど持たなかった己が、捨てられないと迷う日が来るなどと、夢にも思わなかった。
 こんな贅沢な悩みを持つ日が来ようとは。
 選択肢が多いというのも、結構きついものなのだな、と今頃、幼い日のサガの葛藤を思いやる。隠された弟の存在と聖闘士であることの使命の狭間で藻掻き苦しんでいたサガの気持ちが、今頃になって理解出来た。

「分かりました」
 アテナの声は静かで、だが、力に溢れた声だった。
「私も、カノンを手放す気にはなれません。しかし、海界を見捨てるのもまた心苦しいことです。カノンがいなければ、海界を纏める者としてジュリアンの護衛に就いているソレントが引き戻されます。ソレントが今生のポセイドンの寄り代であるジュリアンの側を離れれば、ジュリアンは再びこの私、城戸沙織に求婚するということですし」
「は…?」
 という間抜けた声はアイオロスのものだった。
「え?」
 という声はカノンのもの。
「サガはいずれにせよ、教皇か教皇補佐です。双子座を空ける気は更々ありません! しかし、ポセイドンの海龍もまた空けるわけにはいかないのでしょう。ならば、兼任なさい!」
「えええ?」
「は、え? はああああ!?」
「アテナ! そのような暴挙、許されるはずは…!」
 アイオロスの素っ頓狂な声に、予想外な返答に声を上擦らせるカノン、思わずアテナを叱責しかかってしまったシオンの声が響き、そして、沈黙した。
「交渉してきます! ただし、叶ったとしても、カノン!」
「は、はい!」
 思わず素直に返事をしてしまう迫力である。さすがは神の化身。そして財団の総帥。
「あなたはサガ以上に働くことになり、忙しい身となりますよ。それでも良いのですね!」
「え、ええ」
「では、伯父のポセイドンに謁見して交渉して参ります!」
「アテナ! また単身乗り込もうとなさりますな! 誰か警護に当たらせよ! ――ああ、もう、カノン! お前がアテナの警護に当たれ!!」
「はああああ!? い、今からですか!?」
「良いでしょう。さ、カノン参りますよ」
「サガ、お前も行け! ポセイドンの勢力からアテナを守り抜け!」
「!? ぎょ、御意に、ございます」
 ほとんどやけっぱちにしか聞こえないシオンの号令に、カノンとサガは慌ててアテナの後を追った。



 カノンが空間をねじ曲げ切り開き、手続きなど無視で海界へと入り込む。スニオン岬から通じているポセイドンの領域だ。カノンのおかげで崩壊した神殿である。ここ以外にもポセイドンの神殿はあるのだが、どうにも今生はこのギリシャ海域の神殿が気に入っているらしいポセイドンは、今もここに留まっている。
 そんな経緯から、この地のポセイドン神殿の再建を、残った海闘士たちが必死に行っていた。

 進入者の気配に、テティスが駆けつけてくる。そして、カノンを見るなり嬉しそうに歓声を上げていた。
 テティスも蘇りが叶ったのか、とカノンは微かに笑みを澪した。それをサガが静かに見つめている。自分の知らない十三年間に思いを馳せているのか。
「シードラゴン様もご無事でしたか!」
「本当にソレントはいないのか? てっきりあいつが来て皮肉でも言われるかと思っていたのだが」
「ソレント様はジュリアン様の護衛に付いたままです。一度も帰ってきません!」
 はきはきと言うことか、とカノンは軽く頭を押さえた。こんなテンションだったか、こいつ?
 誰か、使えるまともなやつは残っていないのか。
「あー! アイザック様ー! シードラゴンのカノン様が戻って来られましたー!」
 大声で喚き、辺りをぎょっとさせてくれたテティス。
 その声に誰もが驚き、そしてどよめいた。
 とりあえず、海皇の補佐であるテティスをカノンは捕らえて口を塞ぐ。
「お前は! もう少し、人の話を聞けと、毎度言ってるだろうが! 事態がややこしくなる!!」
「ぎゃあああああ! なんですか、いったい!?」

「テティスどうした!?」
 騒ぎに気付いたアイザックが駆け寄ってきた。うん、まあ、一番の常識人かもしれないと、カノンは己を納得させる。
 その隣では、カノンたちの騒ぎにも動じずに物珍しそうにサガは辺りを見回している。
「カノン。海界とはなかなか愉快なところだな」
「そうか。気に入ったなら何よりだ、サガよ」
 若干、遠い目をしながらカノンは呟いた。

 海皇に取り次ぎを願いたい、そうテティスとアイザックに伝える。不思議そうにしながらも、テティスはポセイドンの眠る最奥へと消えていった。
「シードラゴン。何のつもりだ、これは?」
 アイザックの口調は厳しい。
 当然、アテナと双子座の聖衣を纏ったサガを伴っていることに付いてだろう。むしろ、そのことを全く追求してこなかったテティスに目眩を覚えるカノンである。
「今は聖域の使者として来た。アテナとポセイドンとの談話の場を設けて頂きたい」
 あくまでも事務的な口調で言えば、アイザックは少し寂しそうな顔をしたように見え、カノンは「おや?」と思った。
 顔を見るなり帰れと言われてもおかしくない、確実に恨まれてると思っているのだが、意外に帰りを待っていたのだろうか。まあ、この残った海闘士の使えなさをみると恨みは後回しという気にもなるのかもしれないが。


 一瞬にして場に巨大な力が満ち、緊張が走る。反射でサガが戦闘の体勢に入り掛けていた。そのサガを制してカノンはアテナに伝える。
「アテナ。ポセイドンの許可が下りたようです。参りましょう」
 案内人としての役割は必要なかったらしいアイザックが、置いてけぼりを食らい、小首を傾げながらカノンたちの後ろ姿を見送っていた。


 交渉は、意外と早く片が付いたようだった。今生のアテナの世では戦いが起こせない以上、別に兼任であろうと構わないという決断をポセイドンも下したようだった。
 それが叶わないのなら、この命などいらない、つまりハーデスの元へと行くと言っているようなものなのだから、ポセイドンも条件を飲むしかない。
 現在のポセイドンはアテナとよりも兄のハーデスとの方が仲が悪い。ハーデスに渡すくらいなら、兼任でも構わないと思ったようだ。
 ポセイドンの言い分は、随分とアテナに有利なものばかりだった。基本、聖域在中で構わんが、海界にも滞在するようにとのこと。復旧の目処が立つまでは海界の仕事を優先すること。それを飲むのであれば、聖域預かり兼の海龍でいいとのことだ。
 出入りは好きにしろ、がカノンへのお言葉であった。

「随分とポセイドンに好かれているようだな」
 サガが少しだけ寂しそうにぽつりと言った。
「使い勝手の良い手駒としか見てねぇよ、あの色ぼけじじいは」
「海皇に向かってじじいとは。お前は本当に奔放だな」
 サガの寂しそうな笑いが苦笑へと変わる。
「十三年、ずっと側にあったからな。いろいろと勝手が分かって便利だと解釈してんだろうよ」
「十三年、か…」
 本当に長い歳月を別かたれて生きてきたのだと、今更のように二人は感じていた。


「戻って来られるのですね!」
 テティスが嬉しそうに言う。
「いつ、正式に復帰されるのですか!?」
「聖域での身の周りの整理が片付いたら、すぐにこちらの仕事に就く」
「こちらも人手不足なんです。早めにお願いしますよ」
 目を合わさずにアイザックが言ってくれた。
「ああ、分かった」
 小さく苦笑を澪しながら、カノンはそう言い、その日は海界を後にした。




 聖域に戻ると、今度はカノンの異例の肩書きを皆に公表しなくてはならない。
 やることが本当に多すぎだと思う。

 会議などに使われる広間で行われたカノンについての説明が終わり、納得しようがしまいが、決定に代わりはないということから、各々が自由に行動に移る。
 用事のあるものはすでに自宮へと帰り、カノンに興味あるものは残って話に加わっていた。
 アテナもすでにアテナ神殿へと引き上げている。
 途中から、広間の床に直に座り込んでの談話へと成り果てていたが。
 シオンは何か言いたげにしていたが、今日は何も言うまいと緩く首を振って立ち去った。

 正面からポセイドンとやり合った星矢たち青銅は、冥界で共に戦ったカノンが海界を捨てずにいることを訝しがった。
「沙織さんを水攻めなんかにしたポセイドンに、なんで恩義なんか感じるんだよ。そりゃ、命を救われた恩はあるんだろうけどさ、それはアテナにもあるじゃないか」
 とは星矢の言である。
「一つだけ訂正させてもらうが」
「なに?」
「アテナをメインブレドウィナに入れたのはポセイドンではなく、ポセイドンの力で暴走したジュリアンだからな。アテナの壷をメインブレドウィナに入れたのは俺だが」
「え?」
「どういうことですか!?」
 動揺を隠せない星矢と瞬が話しに食いついてくる。
「あの時点でポセイドンは力を発揮していなかった。あれはジュリアンの嫉妬の末の暴挙だ。あれは俺でも引いたわ。どん引きしたわ。男の嫉妬は見苦しいな」
「……そんな、まさか」
「だから、俺は再三ポセイドンを刺激するな、起こすなって言ってただろうが。めんどくせぇんだよ、あのじじいは」
「なんだよ、それ!? だいたい、あんたがポセイドンを唆して…!」
「神を利用しても、唆せる人間なんかいるか。俺の株も知らないところで随分と上がってるもんだな。有り難いこって」
 ふざけた口調で話していれば、サガから頭を豪快に叩かれた。
「お前は反省という言葉を知らないのか!」
 拳骨で叩いてくれるので、本当に痛い。頭を抱え込みカノンはその場に蹲る。
 それを見ていたデスマスクとミロが爆笑する。
「いい大人が、ダッセェ!」とミロは笑い転げた。
 いきなり始まる双子の子供じみた派手な喧嘩に、星矢も愉快だと言わんばかりに笑っていた。
 もっと厳格な人たちだと思っていただけに、意外もいいところだった。

「あの、カノンさん…」
「カノンでいい」
 恐る恐るという調子で問いかける瞬にカノンは短く返す。
「あの、カノン。話を聞いていると今の海界はすごく楽しそうに聞こえます。なのに、あなたはなぜそんな海界を巻き込んで地上を滅ぼそうと…?」
「聞きにくいことをストレートに聞くな、お前」
「そ、そうですか?」
 瞬の返答にもそっぽを向いたままカノンはしばらく黙っていた。
 それから観念したようにがしがしと頭を掻く。

 神聖な空気を持つサガと同じ外見を持ちながら、こんなにも言動や仕草が違うものなのかと、星矢は無遠慮に眺めてしまう。

「サガが、十二宮で自害したと分かった時、無性に全てが嫌になった」
「サガのこと、誰に?」
「双子の直感かな。感覚が繋がってた。サガの慟哭が聞こえて、死にゆくサガの感覚が自分のものとシンクロして感じた。ずっと、サガが死ぬのなら俺が殺す時だと思って生きていたから、……いろいろ腹が立って。聖域も世界も…。サガを否定した全てが憎かった。こんな世界、滅んでしまえと。ポセイドンは好きにしろって体だったがな」
 初めて聞く話なのだろう、サガが驚きに身を強ばらせていた。
 サガがいなくなった世界に、耐えられなかった。そう聞こえたのだ、サガには。
 思わず口元を押さえ、泣きそうになる衝動を押さえるサガである。
 そんなサガを眺め遣り、デスマスクはにやにやと笑っていたが、サガは気付いていなかった。

「あんたのヤケクソな行動に巻き込まれたわけか、俺たちは」
 冷徹な感想をくれたのは、今の今まで無言を通していた氷河だった。突っ込みもクールだ。凍り付く勢いで。
「だから、それは悪かったと思ってるって」
 さすがに居たたまれないと感じたのだろう、カノンはそっぽを向いたまま謝罪の言葉を口にする。
 しばらくの沈黙の後、瞬は空気を変えるように話題をジュリアンへと戻した。
「でも、ジュリアンは、水害にあった地域に財産をなげうって支援していると聞きました…。今も、各地を回っていると。彼もポセイドンとしての罪に…?」
「ポセイドンは、ジュリアンの記憶を操作して、ポセイドンの寄り代だった時のことを忘れさせている。よほど、アテナに求婚したことが堪えたらしいな。まあ、千年単位で喧嘩を繰り広げている弟の娘に求婚なんざ、笑えない話ではあるか。それから、ソロ家は破産することはないから安心しろ」
「破産しない? それ、どういうことですか?」
「代々、ポセイドンの寄り代に使われている代わりに、ポセイドンはソロ家に永遠に近い繁栄を約束している」
「そんなことが…。まさか…」
「神に都合よく体を乗っ取られるんだ。そのくらいの見返りがあっても良いだろうよ。ちなみに、ソロ家の人間はそのことを知らないがな。知らないというより、遠い昔に忘れ去られているようだ、そんな約束は」
「ポセイドンって、意外に律儀…?」
「さあな? 好色で有名だが。……痛ってぇ!」
 しゃべり疲れたというように、肩をこきこきと鳴らしながらカノンは呟く。その呟きの内容にサガが反応し、再びカノンの頭をはたいていた。
「こうしょくって?」
 星矢の素朴な疑問に、サガが固まる。
「あ? 女好きってことだよ。ポセイドンは男も女も構わんようだが――、痛ってぇな! サガ、何発殴る気だ、てめぇ!」
「十代の子供の前でそんな質問に答えるな、貴様は!」
 若干、顔を赤らめながらサガはカノンに文句を言っていた。
 瞬と紫龍も何とも言えない顔付きで視線をそらせている。



 散々しゃべり尽くした後、ようやくそこも解散となった。
 デスマスクとアフロディーテはこのまま教皇宮に残って過去の書類の整理をすると言っていた。サガも残ると言えば、なぜか追い出された。
 シュラはアイオロスとアイオリアと夜食を取るということで人馬宮に向かった。「彼らも色々と複雑だったからね。話せる機会を大事にしたいのだろう」そうアフロディーテは言う。

 サガとカノンは仕方なしに自宮である双児宮へと戻ることにした。
 双児宮での戦いは迷宮で妨害した程度だった為、損傷もほとんど無いようだった。
「お前、十三年間ずっと教皇宮で過ごしていたんだろ?」
 カノンは綺麗に片付けられている居住スペースを見回しながら言った。
「ああ、ここへ戻ることは危険すぎたからな。年少の子らが、私やアイオロスを探してよくこの宮にも立ち寄っていたから、尚更、近付けなかったよ」
 過去を思い出しながら、サガは苦々しい笑みと共にそう語る。
「その割には綺麗だな」
「アフロディーテが、定期的に掃除に入ってくれていたんだ。私の 存在を消したくないと言ってね」
「ふーん。それで、長年無人だったにも関わらず部屋が傷んでいないわけか」
 カノンは奥の窓を開け、ソファを軽くはたくが、わずかに埃が舞う程度だった。
 ざっと辺りの小さな埃をはたいた後、カノンはソファに腰掛ける。
「今日はどこで寝るよ?」
「私たちが海界へ行っている間に、アフロディーテとデスマスクがベッドのシーツを変えてくれてるそうだよ」
 キッチンへ入り、湯を沸かす用意をしながらサガは答える。
「アフロディーテね。よっぽどお前のことが好きらしいな」
「あの子たちは、ずっと私を支えてくれていた。なにものにも代え難い愛しい存在だよ」
 サガの言葉を聞きながら、カノンは懐かしそうに目を細めた。自分も確かに、ここで生活し生きていたのだ。
「デスは、面白い方向に育ったな」
「あの子が一番、私の闇を引き受けてくれたんだ。贖罪ではなく、どうこの思いを返すべきなのか、未だに悩むよ」
「デスもディーテも、昔からお前に懐いていたからな。むしろ変な気を回して二人を困らせるなよ?」
「困らせてしまうかな?」
「お前は考え込みすぎると全部空回りするだろ? どうせ、その辺も変わってないんだろ?」
 くつくつとカノンは喉を振るわせ笑う。
「そうだろうか?」
 気づけば、サガがソファの後ろに立っていた。コーヒーのいい匂いがする。コーヒーを淹れる道具の一式もアフロディーテが昼の内に持ってきてくれていたという。
「お前、本当に箱入りのまんまになったな」
 愉快そうに笑えば、後ろから顎を捕まれ上を向かされた。サガの困ったような顔が逆さまに見える。
「箱入りか…」
「ミロ以上に箱入りに見えるぞ」
「そんなに浮き世離れしているか?」
「相変わらず、考えが極端なとことかな」
 薄く笑い、カノンは腕を伸ばしサガを引き寄せる。サガも軽く身を屈め、カノンの額に軽く口づけを落とした。
 ゆるりと目を細め、サガは囁くように言葉を発する。
「本当に、長い時間を掛けてしまったな。ずっとお前を探していたのに」
「探していた?」
「ずっと…。お前を求めていたよ」
 カノンは少し驚いたように目を見開いた。
「そうか…」
「何をするにも、お前の影を求めていた。そんな自分に気付いた時、愕然となったよ」
「お前が悪いんだ。俺を幽閉しようとするから」
「奔放なお前が二度と帰って来ないようで、怖かったのだよ、あの頃は」
「馬鹿だな、相変わらず」
「ああ、自覚してる」

 カノンは子供じみた笑みを浮かべている。あの頃と変わらない笑い方だった。

「忘れないでいてくれたのか」
「忘れるものか…」

 サガは俯けた顔を益々俯けてきつく目を瞑る。
 カノンの指が頬を撫でるのを感じた。

「ただいま、サガ」
 耳の側で囁かれた言葉。サガの体がびくりと跳ね上がる。予想外もいいところな言葉に、大きく目を見開く。そして、耐えるように唇を噛みしめた。感情の整理が付かないまま、目に涙が溜まっていくが、すぐに簡単に澪れ落ちてしまう。
 カノンの頬へと涙が落ちていき、それを見てカノンは苦笑する。
 サガをもう一度引き寄せ、今度はカノンがサガの額に口づけた。にっと笑ってみせる。
「おかえり」
 立て続けに発せられる言葉。サガは震える唇を必死に動かそうとした。
 喉につかえて音にならない言葉。
 何度も息を吸っては吐き出す。
 口を開こうとすれば、涙が溢れ出る。
 言葉に出来ないもどかしさから、サガはひたすらに泣いた。声を上げずにただ泣きじゃくった。
「本当に、馬鹿だなぁ。この兄貴は」
 カノンは、おかしそうに笑う。
「ただ、おかえりと言っただけだぞ、俺は。この双児宮にようやく戻ってこれた」
 サガは必死に顔を上げる。涙に濡れた顔を上げ、言葉を繋ごうとした。
 言葉を発しようとすれば、涙と共に嗚咽が澪れ落ちてしまい、どうしようもなかった。
 それでも、必死に口を開いた。

「ああ…、そうだな。……ただいま、カノン」

 絞り出すように、サガはようやくその言葉を発することが出来た。













12.10.24
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一度はやってみたい甦り設定。
蟹とカノンの話を書き上げてから書くつもりだったんですけどね。結局、ちまちま書いてる内に、先に設定確認として書き上がったという。

星矢の裏設定に「天界の大神ゼウスは地上を娘のアテナに譲り渡した後、失踪している」とあったんですよ。
そんなことからこういう話を連想してたんだけども、先日、「聖闘士星矢大全」を読んでみたら「ゼウスは、大地を自分の娘であるアテナに託すと、天界へと消失する」とありました。
天界へと消失って、何!?
天界に帰っただけ? それとも、星矢の世界ではゼウスいないの!? どういうこと!? どう解釈するのこれ!?

と、ちょいパニクってます。


別々に考えてたデスマスクの話とサガ・カノンの話を、面倒だったから一緒に纏めて書いてしまった結果が、このやたらとごちゃごちゃした話になりました。