破滅へのタンゴ
都心の一等地に、日本の税金制度などを無視しているとしか思えない億単位の豪邸を構えるのは、大手企業・跡部グループの総帥である。
西洋的な外観の為か、近所の者達からは「アトベッキガム宮殿」などという、妙な名前で呼ばれている事でも有名なお屋敷であった。
近い将来、今の総帥が引退を表明すれば、次は、総帥の息子がその座に就くだろうと専らの噂である。その息子は、今は跡部グループの経営する証券会社の役員をやっている。一族の人間とはいえ、若くして会社役員になるほどである。かなりの遣り手として有名な息子らしかった。
次期総帥の息子、つまり、現総帥の孫である跡部景吾は、高校卒業までに己の進路を決断しなくてはならなくなると、子供ながらに実感している。
嫌でも家は継がなくてはならないが、仕事も継ぐかどうかはまだ決めかねていた。
テニスでプロ入りを目指すなら目指すで、やるべき事があるし、テニスはあくまで学生の間の趣味で終わらせるのなら、本格的に経済の勉強を始めなくてはならないだろう。
自分が、自惚れではなく、十分に世界でも通用するプレーヤーだという自信はあった。しかし、スポーツ選手の現役時代は短い。プロ引退後のことまで考えておく必要もあるのだ。
引退後の事など、その時に考えれば良いのだと言える人間が羨ましく感じる時がある。
景吾は、家柄故に、十代半ばにして背負うものが大き過ぎた。
「中学三年のガキが悩む内容じゃねぇよな…」
面倒くさげに溜息を吐き、使用人の開けてくれた玄関を通る。
「ただいま戻りました」
迎えに出てきた祖母にそう挨拶をして、二階の自室へ向かった。あと数段で階段を登り終える時になって、母親がリビングから顔を覗かせる。
「景吾さん、お帰りなさい。ちょっと、こちらへ来て下さる?」
もうちょっと早く言って欲しかった。
心の中でそう愚痴りながら、景吾は登ったばかりの階段を下りる。
「何?」
「来週の土曜日なんだけど、学校の帰りにでも行ってみない?」
そう言って差し出されたものは、何故かタンゴの演奏会のチケット。それも一枚。
「お友達と行く約束していたんだけど、急な用事が入って行けなくなったのよ」
「タンゴねぇ。一枚しか無いんじゃ、行っても仕方が――」
「それでねぇ、そのお友達、お祖父様の取引先の娘さんでもあるのよねぇ」
景吾の言葉を遮るように母親は言う。
俺に拒否権は無いのか?
思わず顔を顰めそうになった。
「私と会えるのを楽しみにして下さっていて。何だか、申し訳ないじゃない? だから、せめて息子なら良いかな、って」
「良いかな、じゃないでしょう。だいたい、その人が会いたいのはお母さんにであって、俺じゃないんですから」
頭を抱え込みたい衝動を辛うじて抑える。どこまで、浮世離れした母親なんだ。
「大丈夫よ。お友達は全部で七人だから。私がいないくらい、どうってことないわ」
「だったら、何も俺が行くことは――」
「せっかく、チケットを頂いたんですもの。行かなくては勿体ないわ。それに、みんなそれなりの肩書きを持った人の奥様ばかりだから、迂闊に他の人に譲れないのよ。ね? お願い」
つまり、家名の為に行って来いと。 まったく、つまらないプライドで振り回される子供は良い迷惑だ。
「その後のお食事は、断っても良いし。行きたかったら、行っても構わないわ」
何で、おばさんに囲まれて食事までしなくてはならない。
座席も、恐らく両隣を母親の友人に挟まれているのだろう。端っこの席であれば、関係の無い人間に譲ってもあまり問題も無かっただろうに。
「……判りました。ただし、コンサートには行ってもいいですが、俺は、挨拶した後は単独行動を取りますからね」
単独行動を強調して言う。
「わあっ。ありがとう。さっそく、可愛い息子が行くから宜しくって伝えなきゃ!」
「息子が行くとだけ、伝えて下さい。絶対に余計なことは言わないで下さいよ!」
放って置けば、「みんな、私の息子を可愛がってあげてね。えへっ」などと言い出しそうな母親に慌ててそう釘をさした。
神奈川県のとある地域。
昔からその地域の大地主である真田家は、古武道の一つである剣術を伝えてきた旧家としても有名であった。
ちょっとした日本庭園のある平屋造りという家屋も、今の時代の経済状況から考えると、かなり贅沢な造りである。
真田の所有する土地にマンションを建設したりして、それなりの収入もあるのだが、現在の真田の当主は普通に公務員として働いていた。土地の管理は分家の会社にまかせていると聞く。不動産経営は苦手らしい。
現当主の息子達も、剣術に関してはかなりの才能を見せた。
特に、次男の弦一郎は、若くして剣術で目録の免状を取るほどの腕前であった。
しかも、それ以上にテニスの才能に恵まれていた。全国のジュニアプレーヤーの中で、最もプロに近いと言われるのが、彼なのである。
その弦一郎は、学校から帰るなり、自室に戻ることなく居間で途方に暮れたように突っ立っていた。手には、コンサートのチケットと思われる紙切れが一枚握らされている。
渋い色使いのチケットには、弦一郎には理解の出来ない外国人の名前が書き連なっている。その中で、一番大きな文字で書かれている名前が、実は、日本でもかなり有名な指揮者の名前だったりするのだが、もちろん、弦一郎が知るはずもなかった。
辛うじて理解できたのは、それがタンゴの演奏会のチケットであること。来週の土曜日の夜にあるらしい。
「何で、俺が一人で行かなくてはならんのだ…」
これはあまりにも理不尽だ。
せめて、チケットが二枚あれば、蓮二でも連れて行けたものを。
「何で、この俺が…」
タンゴの演奏会というのは良いとして、なぜ、一人で聴きに行かなくてはならんのだ。
弦一郎だって、中学三年生という多感な思春期の男の子なのである。
母は、息子の弦一郎が十五歳の子供だということを失念してはいないだろうか。
「何で、わざわざ東京まで行って…」
承伏しかねて、ぐちぐちと言い続ける。
「弦一郎さん、何をぶつぶついっているの? ご飯にするから、お父さんを呼んで来て頂戴」
弦一郎の苦悩の原因である母親はケロリとしたものであった。
「どうしても俺が行かなくてはならないのですか?」
「行かなくてはならない、ではなくて、行ってきなさいと言ってるの。わざわざお祖母様が譲ってくださったチケットよ。貴方もたまには芸術に触れてみなさい。きっと良い勉強になるわよ?」
だから、なぜ、一枚しか用意してくれないのだ。
誰も彼も、弦一郎が中学生であることを忘れてしまっているとしか思えない言葉と態度であった。
コンサート当日。 学校の制服のまま会場の近くにある駅で降りると、至る所にこれから行くコンサートのポスターが貼ってあった。
かなり大規模で有名なコンサートであることに、ようやく弦一郎は気付く。
そして、その駅の構内で見知った顔を見付け、一瞬、顔が強ばった。
「跡部…?」
思わずその名前を口に出していた。
相手も気付いた様で、かなり驚いた顔をしている。すぐに、弦一郎から視線を逸らし、何事も無かったような態度を取ってくれたが。
弦一郎も、何となく声を掛けたくない状況なので素知らぬ顔で跡部とすれ違った。すれ違いざま視界に入った跡部は真田と同様に制服姿で、しかも、どういう訳か三十代か四十代くらいのご婦人方に囲まれているようだった。
お得意の営業用の笑顔でかわしているが、かなり苦労しているようである。
「いったい、こんな場所で何をやっているんだ…?」
小首を傾げながらも、会場へと急ぐ。
そして、コンサート会場のロビーで、またも跡部の姿を見付け心底驚いた。
跡部もこれを聴きに来ていたのか。先程のご婦人方とは別れたようで、弦一郎と同じく一人らしい。
欧州諸国ならまだしも、クラシック音楽というものに馴染みの薄いこの国で、うら若い十代の男子が一人でタンゴの演奏会に来るのは何となく切ないものがある。
出来れば、知り合いとは会いたくない状況であるのに。なぜ、こういう時に限って、一番会いたくない人物と遭遇するのか。
気にせずに、自分の座席へ行こう。そう自分に言い聞かせ、中へと入る。
すぐに、跡部も同じ入口から入ってきた。
まさか…。
そのまさかである。
予想的中であった。
跡部と弦一郎の席が近いのだ。
お互いに、嫌そうに顔を顰める。ただし、絶対に視線は合わせない。
これまた、中途半端な位置だった。弦一郎の斜め後ろに跡部がいるという。
いっそのこと、隣同士とかであれば開き直ることも可能なのに。
「せっかくお祖母様がくださったチケットだ。音楽を楽しもう」
ぶつぶつと己に言い聞かせ、跡部の存在を頭から追い出そうと努めた。
会場の最寄りの駅で降りると、いきなり母の友人と名乗るおばさんグループに捕まった。
「まあ、跡部さんの息子さん? 大きくなって」
「素敵になられたわねぇ」
「お久しぶりね。おばさんの事、覚えてる?」
口々に好き勝手に言い放ち、べたべた触られる。
会場で適当に挨拶だけして、早々に座席に着こうと考えていたのに、駅で捕まってしまうとは。
もしかして、待ちかまえていたのか?
そうとしか思えないタイミングで、おばさん達は現れてくれたのだ。
いい加減に解放してくれないだろうか。
七人のおばさんがハイテンションでしゃべってくれるおかげで、軽い目眩を覚える。
人の行き来が激しい駅の構内で立ち話も勘弁して欲しい。これじゃ、いい晒し者だ。
「……?!」
何げに視線を前方に向けた途端、営業スマイルが強ばった。
「……」
何故に、神奈川在住の真田がここにいるのだ。
まったく、こんな格好悪い状況に陥っている時に現れてくれなくても良いだろう。
とりあえず、気付かなかったことにしようと決めた。
さりげなく視線を逸らし、おばさんたちに向き直る。
真田もこんな場所で声を掛ける気など無かったようで、素知らぬ振りで横を通り過ぎた。
これが、普通に街中であれば、「けっ。スカした野郎だぜ」とか言っているところであるが、今は、そんな気分にもならなかった。
「せっかくですから、一緒に歩きましょう?」と誘ってくるおばさんたちに、やんわりと笑顔を向け、丁寧に断る。
まったく、何でこんな場所で、普段使いもしない営業スマイルで社交辞令などを述べなければいけないんだ。
「あー。疲れた…」
何とかおばさんたちを振り切って、一人会場へと着く。
開演まで、まだ少し時間があるので、暇つぶしにロビーをぶらぶらと歩いた。そして、またも真田の姿を見付けて仰天した。
「あいつが、タンゴ!?」
あまりに意外な状況だったため、思わず、口に出して言ってしまった。
まさか、行き先が同じだったとは。
真田は真田で、景吾の姿に気付いて驚いた顔をしていたが。
お互いに、こんな状況で声を掛けたくなかったので、無視を決め込んだ。
先に真田が会場内へと入って行く。
景吾は、自分の座席のナンバーとそこに一番近い入口の番号を確かめて、眉根を寄せた。どう見ても、真田が入っていった入口と同じ番号であった。
まさか…。
そのまさかだ。
予想的中。
座席の位置が近い。しかも、中途半端に近い。真田の斜め後ろ。嫌でも、真田の後頭部が目に入る。
いっそのこと、隣とかなら開き直れるものを。
「くそっ」
小さく舌打ちして、観念したようにチケットにある番号の座席に座った。
音楽を楽しもう。
出来る限り、真田から視線を逸らしてステージを凝視した。
偉そうに足を組んで、腕も組む。 もちろん、わざと偉そうに振る舞っているのだが、両隣のおばさんに手を握らせない最低限の自己防衛術でもあった。
自意識過剰なのではなく、これだけ容姿端麗で家柄も良いとなると、男でも近辺の警戒は怠れないのが現状なのだ。
人気の指揮者と楽団だけあって、演奏は良いものであった。 その点は、大変に満足な一日だった。
とりあえず、タンゴの演奏会で真田に会ったと、明日、忍足に話して聞かせてやろう。
そんな事を考えながら、景吾は帰路についた。
それから、数ヶ月後。 関東ジュニア選抜とアメリカ西海岸ジュニア選抜の試合で、その日のことを思い出す羽目になろうとは、二人とも思ってもみなかった。
しかも、試合中、ずっとあの日に聴いたタンゴの音楽が頭から離れず、そのリズムに乗って二人でタンゴを踊るようにダブルスをする羽目になろうとは、夢にも思わなかったのである。
2005.1.16
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アニプリのアメリカ西海岸ジュニア選抜との第一試合である、跡部と真田のダブルス。
その第三話目辺りが「破滅へのタンゴ」だったように思うが。
あの回で一番気になったのは、何故に、二人とも制服で、しかも一人でコンサートに来ているんだ?! だった。
彼女くらい連れてこいとは言わないが、せめてテニス部仲間くらい連れて行けばいいものを。
男子中学生が、一人でタンゴのコンサート鑑賞。
どう考えても不自然すぎる(笑)
で、その理由と共に、跡部家と真田家のお家事情を捏造してみた。
20.5巻を見る限り、跡部の家系はこれくらいないとおかしい。
一人息子が中学生ということは、跡部の父は三十代となる。遅く生まれた子供でも、四十代前半から半ばくらいか。
そんな若さで会社役員というのは、かなりすごい出世だ。絶対に、跡部グループの次期社長を約束された跡取り息子としか思えない。
真田家。
家の中で真剣を振り回している時点で、凄い広い家じゃないと無理だと思えた。それも、造りの古い家。
そして、中学生で真剣を振り回すということは、家がその資格や免許を持っていないと無理だ。となると、居合い術、抜刀術、剣術といった古武道の家系となる。
でも、武術家は、明治政府の古武道廃止令(とかいうやつ)によってお家がかなり潰されているので、 資産家じゃないと、日本刀を振り回せるような広い部屋を持った家は難しいそう。
ということで、大地主様にしてみた。
個人的な好みで武術の流派というか種類は「剣術」を使用。「居合道」という説が強いらしいが、個人的な好みで。
余談ですが、元々「古武術」という言い方は、「琉球(沖縄)空手」を指していたと聞く。
そうなると、日吉家の道場は琉球空手の可能性も有りますね。(作者がそのことを知っていればの話だが)
ついでに、現在の武道と古武道の呼び方の違いは、明治時代辺りを境目にしているようです。
明治時代以前に発展した武術を古武道と呼ぶらしい。
アニメを見たとき、変身しそうな勢いの跡部のタンホイザーサーブに大笑いして、次の回のタイトル「破滅へのタンゴ」に爆笑した記憶があるです。
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