君子、危うきに…
夏が近づき、日差しも強くなる頃。
それは、土曜日の昼下がり。
その日、跡部と芥川は、部活の練習を途中で切り上げて、買い物に出てきていた。テニス用品を買うためである。
ただし、買い物が必要なのは跡部だけで、芥川は単純に暇つぶしに付いて来ていた。
「お前なぁ、少しは真面目に部活をしろよ…」
来るなと言っても付いてくる芥川に跡部は今日で何度目になるか判らない溜息を零す。
「いいじゃん。どうせ、俺は部活に出ても寝るだけだCー。今日は、樺地もいないから、俺がお供に付いてやるって」
「お供はいらねぇって言ってんだろっ」
「跡部一人じゃ、電車乗るのも大変そうじゃん?」
「電車の乗り方くらい知ってる。お前は俺のことを何だと思ってやがる」
「常識知らずなボンボン――っ痛っってぇ」
遠慮も何も無い言葉に、跡部も遠慮なく芥川の頭を叩いた。
あまりの痛さに芥川は叩かれた場所を押さえて呻き、跡部は振り向きもせずに歩いていく。
「あ、ひっでぇ。置いて行くなよー」
本気で置いていく跡部に抗議の声を張り上げながら、芥川は小走りで後を追った。
傍目には和やかな遣り取りを繰り広げながら、二人は電車に乗り込んだ。途中の駅で電車を乗り継ぎ、目当ての店がある街を目指す。
改札を出た跡部は、迷いのない足取りで進んでいた。
後ろから付いて来ていたはずの芥川が何かに気を取られて立ち止まったようだ。そのことに気配で気付いた跡部が不機嫌面で怒鳴る。
「ジロー、何してる!?」
「なーなー、跡部。これ美味そう!」
喫茶店のウィンドウを指さして芥川が無邪気に跡部に訴えていた。跡部に奢って貰おうという魂胆が見え見えな言動である。
「……今はわざわざ部活を抜けてテニス用品を買いに来ているという事を、お前は理解しているのか?」
「この巨大パフェすっげぇな!」
「んなもん誰が食うんだ!」
「俺、食いたい!」
「一人で食える量かよ!?」
「跡部も食おうぜ!」
「いらん」
「美味そうじゃん! 食おうぜ!」
「そんな見てるだけで胸焼けがしそうなもん、誰が食うか!」
芥川が指さす問題のパフェは、高さが五十センチ近くありそうな巨大な器に入っており、フルーツや生クリームが盛りだくさんに飾られていた。そして、跡部には冗談としか思えないのだが、そのパフェには標準的なサイズのショートケーキが突き刺さっている。
こんなもんを一人で食べようと思うチャレンジャーな奴が世の中にはいるのだろうか。
「あーとーべー」
「さっさとスポーツショップに行くぞ」
「あとべー」
いつまで経ってもその場を離れようとしない芥川に、跡部はこめかみを押さえて呻く。
母親におもちゃを買ってくれと強請る幼児のように思えたらしい。
「ジロー。これ以上ごねるようなら、当分、試合禁止させるぞ」
「うわー。横暴! 暴君!」
「うるせぇっ」
「帰りにさ、食って帰ろうぜー」
「まだ言うか、テメェは」
いつになったら目当てのスポーツショップに行き着けるのか。
情けない不安感に襲われそうになってきたその時である。
遙か後方で妙なざわめきが起きているかと思えば、もの凄い勢いで誰かが走ってくる気配がした。
「あ!? ああ! お前は! あああああ跡部ぇー!!!」
それが大声で自分の名前を呼んでいるのである。ぎょっとして跡部は振り返る。
「ああ?」
「うにゃ?」
聞き覚えのある声だが、咄嗟には思い出せない。
その誰かが、とてつもない勢いで跡部に突っ込んできた。
「な!? うわっ!!」
反射的に身をかわして激突は免れたが、その人物はあろう事か跡部にしがみつくようにして、急ブレーキを掛けたのである。跡部も巻き添えを食らって、危うく後ろに倒れそうになった。瞬間的に、珍しく覚醒している芥川が神業のような素早さで跡部の腕を掴んで支えてくれたおかげで、倒れずに済んだのだが。
「何しやがる、てめぇ!!」
誰だか知らないが、腕を掴んで放さないその人物に向かって跡部は怒鳴り上げた。
「ここで会ったのも何かの縁だ。頼む。跡部、俺を匿ってくれ!!」
跡部の怒りなど気にもしていないその人物は、勝手なことを申し出て来た。
「アーン?」
訝しげにその人物を見下ろす。
「あ! ルドルフの!!」
芥川が思い出したように、跡部の背後に隠れようとする人物を指さした。
「……お前、赤澤か?」
「おう!」
悪びれた様子も無く、聖ルドルフ学院中等部の三年生である赤澤吉朗が返事をする。
「何をやってやがる。この俺様に突っ込んでくるなんて良い度胸してんじゃねぇか。ああ?」
ドスを利かせた声で赤澤に凄むが、赤澤はまったく気にしていなかった。
「悪りぃ。マジで悪気は無かったんだよ。怪我とかしてないだろ?」
今更な質問である。 脳天気で身勝手な言い分に、何とも腹が立つ。
「ふざけんな。危うく怪我するところだった――」
「このバカ澤ぁぁっ。今日こそ成敗してくれるわ!!」
跡部の文句は、赤澤の背後からやって来た人物の罵声によって掻き消えた。
声のした方角を見れば、少女じみた顔立ちの美少年が、般若のごとき怒りの形相で立っていた。いや、立っていたのではなく、後ろから羽交い締めにされていた。
「……」
「うわー…」
その形相に、さすがの跡部も声を無くす。芥川など、小さく驚きの声を上げつつ、跡部の後ろに隠れてしまったほどである。
「うげっ。もう来た!」
そう言って、赤澤まで跡部にしがみつく。
「観月。ちょっと落ち着くだーね」
「そうそう。落ち着いて。ほら、いい加減に赤澤も観月に謝りなよ」
「何度も謝ってんじゃねぇかよ!!」
怒れる美少年・観月を背後から取り押さえるようにする二人。あれは、確か赤澤と同じルドルフの柳沢と木更津だったか。
姑息にも、赤澤は跡部の背後に隠れて言い返している。
「ええいっ、離しなさい! 離せと言ってるでしょう!!」
「駄目だーね。観月、頼むから落ち着くだーね」
こいつらとも、それなりに付き合いは長いのだが、こんな光景に出会すのは初めてかも知れない。このままでは、面倒くさい厄介事に巻き込まれそうだと、意識の端でそんなことを思った。
跡部以上に意地っ張りでプライドばかりが高く、しかし、常に冷静であるあの観月をここまで怒らせるとは。赤澤はいったい何をやらかしたのか。
気になるが、くだらない面倒事に関わるのはご免被りたい。
「てめぇなぁ。他校生を巻き込んでじゃねぇよ。てめぇンとこの問題はてめぇで解決しやがれ!」
そう言うなり、赤澤の首根っこを掴み、観月に向けて放り出した。
「うわあっ。跡部の薄情者!!」
「てめぇに薄情者呼ばわりされる言われもねぇな。どうせ、自業自得なんだろうがっ。大人しく成敗されてこい!」
思いっきり、赤澤の背中を蹴り飛ばしてやる。 ぎゃーぎゃーと喚く赤澤を、すかさず観月が捕らえた。
木更津と柳沢は、もはや自分達の部長を助けることは放棄したらしい。見事なまでの判断力と素早さを見せ、今では数メートルも先にいる。
「跡部くん。お久しぶりですね。この度は、ご協力感謝しますよ。っんふふ」
今頃のように挨拶をしてくる観月に、跡部はいつもの皮肉めいた笑みを返しただけである。
「おや。そちらにいるのは芥川くんでしたね。前日は我が部の裕太くんがお世話になりました」
「えー…。裕太って誰だっけ?」
「っんふふふ。記憶にも残ってませんか。まあ、いいでしょう」
いつもに増して異様な迫力のある観月に、芥川は若干怯えたように跡部にしがみついた。
無言のまま、いちいち相手にするのも面倒だと言わんばかりの態度で跡部は踵を返す。
背後で尚も赤澤が騒いでいたが、振り返らずに歩みを進めた。
――君子、危うきに近付かず。
そんな言葉を脳裏に浮かべる。
それと同時に思い出される過去のとばっちりの数々。
聖ルドルフの赤澤吉朗。その名は、跡部の中で天敵と言っても良い存在としてインプットされていた。
「ぼけっとすんな。置いていくぞ、ジロー」
傍らに芥川の姿がないことに気付いた跡部は、溜息を吐いて振り返る。後方で蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くす姿を認め、大声で呼びかけた。
「お、おう」
観月に捕まり、それでも往生際悪くジタバタと藻掻く赤澤に気を取られていた芥川が跡部の元へと駆け寄って来る。
「ぎゃー。跡部ー。お前、友達だろう!! 助けろ! 薄情者ー」
本気で立ち去ろうとする跡部達に気付いた赤澤の悲鳴とも非難とも取れる声が響いてきた。
その声に跡部は僅かに振り返り、綺麗な微笑を浮かべて見せる。
「健闘を祈ってやるぜ、赤澤」
「んなもん祈る暇があったら、観月を何とかしてくれー!」
「じゃあな」
右手を軽く挙げて、再び歩き出す。
「さあて。赤澤くん、僕にした行いの数々の意味を説明して貰いましょうか?」
地を這うような観月の声が聞こえてきた。
気にせずに歩く。
数メートル進んだ先にいる木更津と柳沢を、跡部は見遣った。
「放置する気か? 通行人の邪魔にならねぇように注意はしとけよ」
「はははは。判ってるだーね」
「でもさぁ、あれを止めろって方が無茶な話だよね」
柳沢と木更津は、これ以上は面倒になってきたという風情で呟いていた。
「ま、がんばりな」
それだけ言って、跡部は再び歩き出す。
赤澤のしでかした事が何であるのか、結構気になっていたが、聞かない方が良いだろうと思った。
関わると本当にろくでもないことばかりが起こる。
「クラッシャーぶりは健在だな…」
跡部は忌々しげに吐き捨てた。
思い出したくもない過去の出来事が己の意志とは裏腹に蘇り、跡部は益々眉間の皺を寄せる。
お互いに、全国区の実力と呼ばれるプレーヤーだったから、必ず大きな大会での個人戦では顔を合わせた。
聖ルドルフ学院内では、「クラッシャー赤澤」などという呼び名が付いているそうだが、それは、校外でも発揮されるようで。
赤澤が関われば必ず何かが破壊される、という。
イライラと跡部は無意識に足を速める。歩幅が違うため、芥川がほとんど小走りにならないと追い付かないほどだったが、跡部は足をゆるめることをしなかった。
脳裏をよぎるのは、昨年の全国大会、新人戦のこと。
試合前に水を掛けられずぶ濡れにされたことが一回。どういう経緯か会場のフェンスを蹴破ってくれて、跡部はたまたまその場に居合わせただけなのに、一緒に説教を食らわされること一回。試合終了後興奮した赤澤によって、跡部のラケットのガットに穴を開けてくれること一回。
後は何があったか。 思い出すだけで、沸々と怒りが込み上げてくる。
本人にはまったく悪意が無いのが、ますます手に負えない。
こうなれば、跡部の方が徹底的に災厄から逃げ回るしかないように思われた。
奴には、出来る限り近づくな。
俺には、俺の生活スタイルがある。それを死守せねば。
頭を軽く振り、ストレスの原因を振り払う。
買い物が終われば、また学校に戻って部の方にも顔を出さないといけないのだ。色々と忙しい。
さっさと用事を済ませて、さっさと自分の居るべき日常に帰ろう。
思考を綺麗に遮断して、跡部は自分のこなすべき業務にだけ意識を集中させた。
気を取り直したように芥川がまたもパフェの話題を持ち出したようだが、それすらも無視してやった。
2005.2.5
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跡部の手を離さない赤澤がそのまま逃走。逃走先で二人でだらだらしゃべる、といったイメージが当初はありましたが、あまりに長い上に収集が付かなくなるので、こんな感じで半端に切ってしまいました(==ゞ
あの豪快な性格の赤澤は、絶対に「壊し屋」だと思う(笑)
ええと、赤澤が観月に何をしたのか。
赤観好きな私としては、「勢い余って公衆の面前で大声で告白しながら押し倒してしまい、尚かつ、チューをした」に1000点(爆)
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