けんか

 

 

 

 

 

 

 珍しく跡部と芥川が言い争いをしているなと、呑気に眺めていたのがそもそもの間違いだったのか。
 いつものじゃれ合いじみた言い合いではなく、かなり本気の入った口調だった事に気付いた時点で、誰かが止めに入るべきだったのか。
 今更、そんなことを言っても仕方の無い事ではあるが。

 今は、この危機をどうやって沈めるかが問題やねんな。

 忍足は、部室の片隅で静かな表情で立ち続ける跡部とその跡部によって叩き割られた窓ガラスを見詰めながら、素早く考えを巡らせた。
 素手で割ったおかげで、跡部の左手から血が滴り落ちていた。無意識にでも、利き腕を使わなかったことに少しだけ安堵を覚える。

 初めて知った。跡部が本気で怒るときは、感情も表情も完全に消してしまうということを。見た目だけは至極冷静な態度で怒るのだということを。
 いつも眉間に皺を寄せて不機嫌そうに怒鳴っているのは、全く本気ではなく、それどころか一種のパフォーマンスを含めた態度であるのだと忍足はこの時に理解した。

 跡部が本気で怒りの感情を露わにすることは滅多にないと断言していいだろう。
 幼稚舎からの付き合いである宍戸に言わせれば、数年に一回でも見られればラッキーじゃねぇの? というくらいに貴重な事であるらしい。
 しかし、それが何で、よりによって自分の目の前で起きるのか。
 むしろ、その現場に居合わせてしまった自分のタイミングの悪さを呪うべきか。
 喧嘩の原因をはっきりとは忍足は知らない。
 ただ何となく、いつもの跡部の一方的な芥川への説教だと思っていた。それが芥川がいつもの軽い調子ではなく、本気の反論を開始したのだ。まあ、その反論さえも、跡部が静かに的確に叩き切っていたようだが。
 その跡部と芥川の言い合いが途切れたと思った瞬間、部室の中の空気が凍り付いた事を誰もが意識した。
 悪寒が背筋を這い上がってくるような感覚を生まれて初めて経験した。
 恐る恐る振り返れば、案の定、静かな怒りと共に立つ跡部の姿があった。

 誰もがヤバいと思った。

「跡部…」
 宍戸が宥めようと声を掛けかけた時、跡部が握りしめた左手を思いっきり窓ガラスに叩き付けていた。
 乾いた鋭い音に、部室にいた全員が硬直する。
「何やってんだよ、跡部!?」
 悲痛な声で叫んだのは喧嘩の相手である芥川だった。
 焦った様子で駆け寄ってきた芥川の胸ぐらを跡部は掴み上げる。掴み上げるものの跡部は無言のまま。
「あと、べっ、何で…判んねぇんだよっ!」
 芥川は跡部の手から逃れようと藻掻きながらも、必死に叫んでいた。
「…ざけんなよ、テメェ」

 これは本当にまずい。このままでは絶対にまずい。

 皆がそう思い始めた頃、真っ先に動いたのは宍戸だった。

 跡部の隙を衝いて芥川を跡部の腕からもぎ取り引き離す。
 見事な動きだった。この一瞬の動きだけは本気で神業めいて見えた程だ。それほどに、宍戸も命がけな気分だったらしいが。

 とりあえず、跡部と相手の間に手が届かない程の距離を置くこと。それが跡部の怒りを収める手っ取り早い方法なのだと、後に宍戸は言っていた。

「樺地を呼べ、樺地を!」
「誰か、樺地連れて来てや。樺地以外に押さえられへん」

 宍戸と忍足の言葉に、その場に居合わせた数人の部員が樺地を呼びに走り去る。

「宍戸、離せよっ。跡部、俺の話をちゃんと…っ」
「今は文句も言うな、謝りもするな。言いたけりゃ、明日言え」
 芥川が藻掻きながらも跡部に向かって言葉を投げかけようとするが、それを宍戸が必死に押し止める。
 こうなっては、文句の言葉も謝罪の言葉も、全てが意味を成さないだろう。何を言っても火に油を注ぐだけなのだ。
 その代わり、時間を開け冷静さを取り戻した跡部であれば、文句であろうが謝罪であろうが、「もういい」の一言で済ましてしまうのである。
 今の宍戸達はそれを狙って行動を起こすしかなかった。
 しかし、跡部は今この時も自由の身。そして、宍戸の介入で殊更怒りが倍増していることは明らかである。

「おい、忍足。このままじゃ、跡部の奴がマジでキレて暴れるぞ。樺地が間に合わねぇ。お前、取り押さえろ」
「アホぬかせっ! 何で俺やねん!?」
「この中じゃお前だけだろうが、跡部に体格で勝ってんのはっ」
「出来るかい、アホっ。俺かて命は惜しいわ!」

 こそこそと芥川を取り押さえつつ言い合いを続ける宍戸と忍足に、心の底から鬱陶しそうに視線を向けながら跡部が一歩を踏み出す。

「お前らに関係無い。邪魔だ、退け」

 見事なまでにドスの利きすぎた声。

 気の弱い者なら、これだけで竦み上がり、気が遠退くかもしれない。

「ジロー。テメェは自分で何を言っているのか判ってんのか?」
「判ってるよ。跡部こそ判ってねぇじゃんか!」
「あぁん?」
 薄ら寒いまでに無表情の跡部がまた一歩踏み出す。その姿に周囲から音が消えていくような錯覚すら覚えてしまう。
 まるでモンスターに襲われるホラー映画のヒロインになった気分を味わい掛けたとき、跡部の背後に巨体の影が現れてくれた。
 その影に、宍戸と忍足は心底安堵した。

 とりあえず、この目の前の危機は脱した!

 そう思った。

「樺地、そのまま跡部を連れて出ろ! 左手怪我してっから、保健室連れてけっ!」
「ウス」
 宍戸の叫びに樺地はいつも通りの返事をした。
 樺地に抱き竦められるようにして部室から連れ出される跡部が声を荒げる。
「ウスじゃねぇだろ! 離さねぇか、樺地!」
「今は、引いて…下さい」
「ふざけんなっ! そもそも樺地、テメェが…!」
「ウス。すみま、せん」
「何がウスだ! お前が謝んじゃねぇよっ!」
「とにかく、後でゆっくり話そうぜ!」
「ざけんじゃねぇっ」
「跡部、俺は――」
「ジロも今は黙っとき。謝るのも文句も明日や」
「忍足、離せよ! あとべ、あとべっ!」
「離しやがれっ! 俺はジローと話をしてんだよ!」
「お前のその態度はすでに話し合いじゃなくて、喧嘩か乱闘状態なんだよ」

 押さえ付けようとする宍戸と忍足から逃れようと藻掻き、跡部に向かって必死に手を伸ばす芥川。羽交い締めにして部室から連れ出そうとする樺地の腕を振り解こうと渾身の力で暴れる跡部。

 もう、本当に、俺帰りたい。
 次期部長かなんか知らへんけど、なんやねん、こいつ。怖すぎやん。

 忍足の嘆きなど側にいる宍戸に伝わる訳もなく、この場から逃げる事も当然ながら出来る訳もなかった。

 痛い程の沈黙だけが部室の中を支配していた。
 樺地によって跡部が部室の外に連れ出されてから数分の間、誰も身動き一つ取ることが出来なかった。
「宍戸、離せよ」
 宍戸の手で押さえられたままだった芥川がそう呟いた。
 その言葉をきっかけに、一気に脱力した空気が部室内に漂う。
「ジロー、お前、何で跡部と喧嘩してんだよ…?」
 ようやく息を吹き返したかのように向日が言葉を発した。
 しかし、芥川は向日の問いに答える事はせずに、ただ唇を噛み締めたまま視線を足下に落とすだけだった。

 

 

 テニス部内で起きている小競り合いに樺地が巻き込まれ、その事に気付いた芥川が樺地の為に暴れたという事実を聞かされるのは、翌日の事となる。
 跡部が怒りを爆発させた理由が、勝手に動いて自らも危険な状態に陥ってしまった芥川の身を案じての事だったということも、その時に知ることとなるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2006.5.31
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本当はギャグで跡部を怒らせる話を書こうとしてたんだが、跡部がくだらないことで本気の怒りを見せることは無さそうだと気付き、結局こうなった。
途中で「憧れの対象」で跡部が本気で怒ったという一文を書いていたことを思い出し、それに繋げる形で納めました。
ということで、これは跡部達が2年生の時と思われる。

何とかギャグにしたくて試行錯誤していたら、この「跡部が怒る」から話が3つに分裂。
先にアップしてる「言葉遊び」もその分裂した話しの1つ。雰囲気も内容もまったく違うように見えますが、元が同じなんですよ、あれ。
もう1つもその内にアップします。

 

 

 

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