孤高

 

 

 

 

 夏休みを間近に控えたその日。
 関東大会初戦で団体戦を敗退した氷帝学園中等部のテニス部は、レギュラーたちの引退を前にした総当たり戦のゲームを展開していた。

「40−0」

 審判を務める二年生部員の上擦った声が静まり返ったコート内に響く。
 そこに試合開始直後のような賑やかな声援は無かった。
 レギュラーを務めた部員達でさえ、言葉無く立ち尽くしていた。あまりに一方的な試合展開に。異様な試合内容に。

「何やっとんねん、あいつ…」
 フェンスにしがみつくようにして、忍足が聞き取れない程の小さな声で呟く。

 容赦なく叩き込まれるスマッシュ。いつもの王者の尊大な態度など微塵も無い跡部。殺気立ったというよりも、鬼気を放っているという方がしっくり来るような姿。
 跡部のプレイスタイルを完全にコピーし、跡部がすることをそのまま同じに返している樺地。まるで鏡に映った相手と試合をしているかのような錯覚をさせる試合。
 個人個人の体格に合ったプレイスタイルがある以上、全てをコピーする事に意味は無い。コピーしたところで、樺地にその技を繰り出す為の基礎となるものが無ければ樺地本人に負担が来るだけなのだから。それが分かっているからこそ、樺地は要所要所でしかコピー技を出すことはしなかった。
 今まではそうだった。
 それが、この試合では樺地は故意に全てをコピーし返しているとしか思えなかった。
 見ている側にとっては、異様な光景と言えた。

「ゲームセット。ウォンバイ跡部」

 試合終了を告げる審判の声にも反応しないギャラリー達。コートを取り囲むようにして試合を見つめていた一般部員達は完全に沈黙していた。そこにあるのは、畏怖の念。そう樺地には思えた。

 想像を超えた圧倒的な存在を意識した時、人は感動を通り越し、その先にある畏れという名の感情に支配されるという。まさに、今がその状態だと思えた。

 これはテニスなどでは無い。少なくとも、跡部のテニスでは無かった。
 無茶苦茶も良いところだった。

「負け、ました。完敗…です。さすがは、部長」
 樺地は珍しく息を乱してそう声を掛ける。賞賛の言葉を贈ろうと努力する。これは、跡部が素晴らしく自分が不甲斐ないだけなのだと、ギャラリーに知らしめる為の行為だった。
 それでも、疲労は限界を迎えていた。ふらりと体が傾きそうになるが、何とか寸前で踏みとどまった。
 こんな状況で自分が倒れてしまうことは絶対に駄目だ。そんなことになれば、跡部への尊敬と羨望の眼差しは一瞬にして崩れてしまうように思われた。それだけは絶対にあってはならないことだった。

「跡部!?」

 そう叫ぶ滝の声に、樺地は相手側のコートに目を向けた。そして、ぎょっとする。
 その場に崩れるようにして倒れる跡部の姿。樺地はその巨体からは想像も付かない素早さでネットを飛び越え、駆け寄る。
 丁寧に抱き起こせば、跡部は微かに目を開けた。辛うじて意識は失っていない事にひとまず安心した。

「悪りぃ」
「…いえ」

 いつもの跡部が戻っていた。

 倒れていながらも不適な笑みを浮かべ、樺地を始めとする自分のことを見守っている者たちを眺めやる。

「体調が悪いからって、八つ当たりなテニスをするのはよしなよ。本当に大人げないんだから」
 軽口を叩くように滝がそう言う。
「まったく、帝王様の我が儘に付き合う樺地の身にもなったれ」
 滝に続いて忍足までもがそんな言葉を発した。

「悪かったな」
「体調管理もレギュラーのお仕事の一つじゃ有りませんでしたか、部長?」
「だから、悪かったっつってんだろ」

 いつもの他愛もない会話に近い遣り取り。
 それを期に、コートを包む堅い空気が緩んだように思えた。
 あれは、体調と機嫌が悪かったせいなのか。樺地が跡部の全てをコピーしたのも跡部がさせたお遊びなのか。
 そう無理矢理にでも解釈しようとしている部員達を横目に、樺地は跡部を抱きかかえ立ち上がる。

「さ、さてと。次は宍戸と長太郎だぜ。さっさとコートに入れよ」
 気力で平常を取り戻した向日が出来る限り元気な声を張り上げた。その声に一般部員たちの関心が宍戸と鳳に移っていく。
 宍戸先輩と鳳、どっちが勝つかな?
 そんな会話でコートの周囲が再び賑やかになり始めていた。

 これは異常な事態ではないのだと、皆が思い込もうとしてくれているようだ。それは樺地にとっても有り難いことだった。
 跡部がこれ以上傷付かずに済む。

「樺地。跡部の事、頼むよ」

 跡部を抱えたままコートから出て行く樺地に、滝がそっと耳打ちした。その言葉に樺地はしっかりと頷いた。

 

 

 

 部室に戻り、樺地は革張りのソファーに跡部を横たえた。
 ハンドタオルを水で濡らし、跡部の汗で汚れた顔を拭いてやる。

「お前、何で途中から俺様のコピーばかりした?」
 天井を見つめたまま跡部がそう聞いてきた。汗を拭く作業を止め、樺地は跡部の瞳をじっと見つめる。
「…ウス。それ以外に、あなたを受け止められないと、判断したから、です」
「あん?」
「正気を失ったとしか、思えない、あなたに、叩きのめされる訳には、いかなかった、ので。負け試合でも、最後まで立っていないと、いけないと、思えたので」
「正気を失っただと?」
「ウス」
「俺様はずっと正気だったぜ」

 そういう跡部の顔は、苦痛に耐えるように歪められていた。その頬をそっと両手で包み込む。

「もう、あんな無茶はしないと、約束、してください」
「何が、無茶だ」
「自分から、独りになろうと、しないでください」
「なん…?」

 反論しかけた跡部を遮り、樺地はもう一度だけ「約束してください」と繰り返す。

 苛立ちと困惑が入り交じった跡部の顔から視線を逸らした樺地は、ロッカー横の棚に向かった。その中から薄手の毛布を取り出してくる。

「少し、休まれて、ください」
「眠くない」
「休んで、ください」

 駄々っ子のような声を上げる跡部の両目を、樺地は優しく右手を当てて塞いだ。その手を払い退けるかと思ったが、跡部は目を覆う樺地の手に自分の手を重ねる。
 その手に縋るようにしながら、跡部はくぐもった笑いを零していた。あまりに自嘲じみた笑いに、樺地は苦しくなる。堪えきれず、その細い体に覆い被さるようにして抱き締める。

「あなたは強い人、です。どうか、見失わないで、ください」

 祈るような気持ちでそう囁いた。

 跡部の笑いは収まらない。樺地の腕の中で震えるようにして彼は笑い続けていた。

 樺地はただじっと抱き締め続けることしか出来なかった。

 苛立ち、焦り、悔しさ、悔恨。それらが彼を追い詰めていたように思われた。
 それらから逃れようとするかのように、彼は日頃の力のセーブを忘れた。箍が外れたかのように、荒々しいプレイに没頭していった。周りのもの全てを蹴散らし、全てを拒絶しようとしているかのように感じられたのだ。
 彼が冷静さを思い出すまで、決して倒れる訳にはいかなかった。彼のプレイ全てをコピーすること以外に試合終了まで持ち堪える術が思い付かなかった。
 あのままでは、確実に尊敬は畏怖へと変わってしまうように思われた。仲間から後輩から恐怖の念でもって接せられる存在となってしまうだろう。それだけはどうしても樺地は避けたかった。
 彼は尊敬と憧憬でもって接せられるべき存在だと信じていたから。彼に影は似合わないと思っていたから。
 そして、何より、彼が疲れ傷付いていく様を見るのが嫌だったのだ。

 あの日。関東大会初戦。
 シングルス1での試合。勝利を納めていながら、彼は敗北感を抱いていた。無言の背中は苛立ちを訴えていた。
 勝っていながら負けたと言う。矛盾した思い。

 それでも、彼は最強の名を維持し続ける。

 圧倒的な存在感と力。それ故に頂点に一人佇み続ける。全てを一人背負い。畏れの目で取り囲み、羨望と嫉妬の眼差しを向けてくる周囲を制圧し、王者として一人立ち続ける。
 それが彼の役目だと言わんばかりの振る舞い。
 永遠に負けることを許されないと、彼の精神を蝕む勝利への執着。

 彼のこの感情を理解してやれるのは、彼と同じ位置に立ち、彼と戦い切った手塚だけなのかもしれない。

 そんな思いが、酷く樺地を落ち込ませる。

 すみません、と力無く呟いた。
 あなたの望みに応える力がなくて、すみません。そう何度も呟いた。

 気付けば、腕の中の跡部は笑うことを止めていた。代わりに、彼の手は樺地の髪を乱暴に撫でてくれる。
 これをどう解釈すべきか計りかねた樺地は、抱き締める腕から彼を解放出来ずにいた。
 彼がいつもの傲慢な笑みを見せるまで、じっと抱き締め続けるしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2006.12.16
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狂気じみた跡部で樺跡を書こうと思ったんですよ。樺跡を。
狂気というより単なる駄々っ子でしたが。

まあ、私の書く樺跡なんてこんなもんだよね…。


関東大会敗退前後が一番面白いんだと今更のように認識しました。全国はトラウマが多すぎる(笑)

 

 

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