狂詩曲
何だ、それ。
それが、その話を聞いた時の率直な感想。
あの時、全国への切符を失う決定打となった試合から、数週間が経っていた。
あれから、劣等感と罪悪感と屈辱といった惨めな感情に苛まれながらも、それ以上の闘志を持って練習に打ち込んできた。
負けた自分はレギュラー落ちを宣告されるのかと思ったのだが、それを言い渡されることもなく、それどころか、来期の部長としての期待までされた。
負けはしたが、それでも、お前は氷帝レギュラーの名に相応しい試合をした。だから、胸を張れとまで言われた。
ますます情けなくなって、泣けてきた。
テニスを始めようと思ったきかっけは、たいそうなものでは無かった。
中等部に進学する少し前、歳の離れた従姉が趣味感覚で通っていたテニスクラブのコートで、たまたま試合をしている跡部を見た。ただ、それだけだった。
後にそんな話をすると、チームメイト達は揃って不思議そうな顔をしてくれたものだ。
樺地だけは、妙に納得顔で話に聞き入ってくれていたけれど。
跡部の磨き抜かれたプレイの数々に魅了されたとでも言えばいいのか。
金持ちの道楽スポーツという印象しか持っていなかったテニスが、これほどに白熱したものだとは知らなかった。
スポーツも真剣勝負の世界なのだと、この日、初めて気付いた。
あそこに自分も立ちたいと思ってしまった。
あそこに立って、あの跡部に戦いを挑みたいと思ってしまったのだ。
幼い頃から実家のやっている道場で稽古を付けてきた日吉は、その後もずっと古武術だけを続けていくのが当然と思うようになってきていた。
そこへ、稽古にはあれほど厳しかった祖父がいきなり「武術以外に興味を惹かれるものは無いのか?」と問い掛けてきたのだ。
不可解な気分で祖父を見詰めれば、「いずれはこの流派を継いでほしいが、それでもずっと道場だけにいろとは言わんよ」と返してきた。
やりたいと思うものがあれば、何でもやってみるといい。
これからは、いろんな経験を積み視野を広げなさい。それら全てはお前を生かす糧となるはずだ。
古武術などという歴史を背負う人間らしい言い分だなと、そんな事を思ったものだ。
「日吉は、何か部活するの?」
人も疎らな放課後の教室に、無駄に爽やかな声が響き渡った。
同じクラスで席が近いことから妙に懐いてくる鳳という名の少年を、日吉は鬱陶しそうに横目で睨みつける。
「俺さ、テニスやるんだ」
しかし、日吉の睨みなどまったく気にもしてない調子で鳳はしゃべり続けてくれた。
「テニ、ス?」
その単語に思わず反応してしまった。
今まさに日吉もテニス部に入るかどうか考えていたところだったのだ。
こいつと一緒になるのか。
やっぱり止めようか、などと捻くれた思いが湧き上がる。
「あれ? もしかして、日吉もテニスやるの? だったら一緒に入部しようよ!」
「まだ、決めてない」
「えー? じゃあ、考え中ってとこ?」
「…まあな」
「じゃあさ、今から見学に行こうぜ! 今週一杯は仮入部期間だし、いろいろと見ておこうよ!」
「俺を誘うな。お前一人で行け」
「そんなこと言わずにさ、一緒に行こうよ!」
ズルズルと引っ張られ、教室から連れ出される。
「ちょっ…! 離せよ」
「見学だけ見学だけ」
全く、何て強引な奴なんだ。
「きゃあ! 跡部様―!」
「跡部様、頑張ってー!」
「ああ、今日も素敵ですわ、跡部様…」
仮入部期間というだけあって、日頃は部員以外立ち入り禁止のテニスコート周り及び観戦席は多くの生徒で溢れていた。
しかし、その大半は入部希望とは無関係としか思えない女生徒たちであったが。
「なんだ、これは…?」
「凄いねぇ。噂には聞いてたけど、ホントにあったんだねぇ、こういう光景…」
至る所で湧き上がる「跡部様コール」に日吉は完全に引いていた。隣の鳳は単純に驚いていただけらしい。
やっぱり軟弱なスポーツだったか、テニスってやつは。
入部するの止めるか。
そんなことを考えていると、いきなり周囲が静まり返った。
跡部が右手を掲げながら周囲に視線を向けたのだ。これから試合をするから黙って見てな、という合図であったのか、それまで騒いでいた女生徒たちも黙ってコートを見詰めている。
「なるほど。これが「様」付けで呼ばれる男の威力か」
視線だけで周囲を黙らせたその圧倒的な力に日吉はちょっと感服する思いだった。
「格好良い…」
隣の鳳までもが今にも「跡部様」呼びしそうな雰囲気で魅入っている。
呆れていいのか感心すべきなのか、視線の先に立つ跡部景吾という人間に対して日吉はどういう意識を向ければいいのか少々考え込んでしまった。
しかし、そんな呑気な考え事はすぐに中断される。
試合が開始されたのだ。
跡部からのサーブ。
綺麗なフォームに力強い打球。
その全てが完璧と呼ぶに相応しい姿だった。
まさに王者の貫禄。
対戦相手は跡部と同学年だったらしいが、実力に差があり過ぎなのは、傍目でもよくわかる。
しかし、跡部は相手が格下でも手を抜かない。相手が本気を出そうとしている以上は、全力でもって戦う。叩きのめす。
「面白いな」
あの場に、俺も立ちたい。あの男に戦いを挑みたい。
やはり、入部するか。
目の前で展開する一方的な試合を眺めながら、日吉はそう思った。
ずっと古武術だけを続けていくのだろうと思っていた。
跡部と出会わなければテニスというスポーツに興味を示すこともなかったはずだった。
ついに、古武術と同じくらいに興味を抱くものを見つけてしまった。
戦いを挑み、倒したいと思う相手を見つけてしまったのだ。
テニスを始めて僅か一年半で日吉は準レギュラーAクラスの位置まで上り詰めていた。
決して基礎を疎かにせず、そして、頂点だけを見詰めてコツコツと練習に励んできたおかげだった。
周りからは、一種の天才扱いをされたこともあった。テニス暦の長い鳳とすでに対等に並んでいたからだった。
ある時、監督に古武術の構えの癖が抜けないことを見抜かれ、そして、やり易い姿勢でやってみろとアドバイスを受けた。
せっかくなので、遠慮なく自分の一番得意とする型の構えを取った。
それは、どうやらテニスではありえないフォームだったようで、周りからどよめきが起きたが構わずに続けた。
これが、案外良かったらしい。
日吉にとっても動き易い体勢であったし、対戦相手から見るとどこに球を打ち返すのか予測が付き難いようで、試合ではかなり有利に働いた。
準レギュラーAクラスの中でもトップの位置に日吉はいた。
公式戦では控えとしてだが試合にも参戦できる。レギュラーと同等の扱いになる位置だった。
そして、本当に控えとして参戦した大会。その控えにまで試合が回ってきたあの時。
皆の期待と願いを背負い挑んだ戦い。
かなりの接戦を繰り広げた後の敗北。
一瞬、視界が暗転しそうだった。崩れ落ちそうになるのを、宍戸に支えられたことだけは覚えている。
本気で絶望を味わいかけた。
倒したかったのは、あの生意気なルーキーではなく、跡部ただ一人だったはずなのに。
いつの間にか皆で戦う団体戦の結束力に引き込まれていた。
先輩たちの為にも勝ちたかった。
その思いが負けて初めて頭をよぎったのだ。
いつのまにか、自分一人のテニスではなくなっていた。
それでも、自分たちの戦いは関東大会緒戦で敗退となった。
自分たちの夏は終わったのだと、そう踏ん切りを付けたのに。
もう、あの人の背中を追うことが出来なくなったのは悔しいけれど、まだ自分の戦いは終わっていない、そう自分を奮い立たせようとしていたのに。
それが、いきなりお情けのような扱いで全国大会行きの切符が舞い込んできた。
「なんだ、それ」
それが日吉の率直な感想だった。
実力で勝ち取ったもの以外に何の意味があるんだ。
そんなことすら思った。
それでも、他の部員たちは歓喜に沸いた。
元部長を探し回って、そして、全国大会に出ることを頼んだ。
馬鹿馬鹿しいとさえ思っていたのに、コートで一人サーブを打ち続ける彼の姿を見たとき、誰よりも戦い続けたかったのは彼自身だったはずだと、今更のように気付かされた。
そして、思わず日吉までもが叫んでいた。
「俺は、やつらに借りを返したい!」
お願いします部長、と。
彼は苦笑の混じった、それでも嬉しそうな顔で振り返る。そして、いつもの優雅な動きで指を鳴らし、全国大会へ出ることを宣言した。
お情けでもいい。
また戦えるというのなら戦いたい。
まだ彼を追い続けるチャンスが与えられるのなら、そのチャンスを逃したくない。
下克上を達成するために、俺はもっと強くなる。
俺は、あの男に真っ向から勝負を挑めるだけの強さを手に入れる。必ず手に入れてみせる。
2006.8.27
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かなり前に途中まで書きかけていたけど、WJ本誌で氷帝戦が始まってしまい、どうにも書けないテンションになってしまって放置されまくってました。
日吉から見た全国行きの話を書きたかっただけなんですが、やっぱり書きあがってみると日吉の葛藤はあまり無く、淡々と話は進んでいく感じになってますね。
私の中の日吉はどこか常に冷静であり続けるタイプのようだ。(というか、古武術をやってるならそうであってほしいという願望ですか)
武術絡みの話になると楽しくてウキウキ書いてしまいテニスのことをすっ飛ばしそうになる(笑)
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