水面に沈む
教皇のシオンが、次期教皇を早々に指名した。
まだ黄金たちは幼いものばかりで、しかもその全員が聖域に揃っていないにも関わらず、教皇候補ではなく次期教皇を決めたのだ。
アテナ像の元にアテナが人間の赤子の姿で光臨した、これがすべての始まりだった。
ハーデスの復活に合わせて光臨するといわれているアテナ。つまり、アテナの光臨は、ハーデスの復活を意味している。
アテナが赤子の姿ということは、ハーデスが地上へと手を伸ばし始めるまでにあと十数年あると考えられる。
あと十年とわずか。その間にも、ハーデスの力は徐々に地上へと滲み出ていく。その影響により凶兆は増え続けていくという。
それまでに、すべきことをせねばならないというシオン。
その為に最初に行おうとしたのが、次期教皇の指名。
百数十年近い平穏の中で(大きな戦争が幾つもあったはずだが、聖域に生きる人間には大したことないということか)教皇シオンの目を巧に掻い潜り、気付けば膨大な私欲を肥えさせた官吏や神官たちの整理と新たな聖域の体制の作り直しを、シオンは早急にやりたかったのだろう。
そして、時期教皇に指名されたのは、サガではなくアイオロスだった。
あの脳筋か。
それが俺が最初に抱いた感想だった。
どうして、サガじゃない?
そんなことも思ったが、指名は指名。正式に公表までは至っていない。覆ることもあるかもしれない。
そうどこかで期待する自分と、これは確定だろうな、と半ば諦めと投げやりな気分で思う自分を俺は感じていた。
「私が教皇となれば、カノンは正式に双子座の聖闘士として表に出られるだろう」
そう口癖のように言っていたサガの姿がちらついた。
シオンの選択は、全て聖域の為。
分かっている。分かってはいるが、納得すること理解することとはまた違うものだった。
教皇補佐ともいえる助祭長にでもサガが収まることになるのであれば、バランスは取れるだろうか。
そんなことも考えてみた。
黄金聖闘士が助祭長に、などという降格に見えなくもないことがあり得るのであれば、だが。
それ以前に、サガが大人しく教皇補佐に就くのかどうか。
そして、俺の方は双子座に就くのか用済みと消されるのか、未だ不明だった。
サガと上手くやれないのであれば、アイオロスでは教皇の職は役不足だと思えた。とてもじゃないが、この古く巨大な組織を纏められるとは思えない。
サガの方が完璧に教皇として勤められると思う。兄弟の欲目などではなく客観視しての意見だ。
力も知識も知能もサガの方が遙かに上回っているだろう。
ただ、教皇シオンはサガの抱えるものに気付いているのではないかと、最近思い始めた。
それが教皇にサガを指名しなかった原因なのでは、と。
近頃のサガはどうにも小宇宙が安定しないことが多い。まあ、悩みの尽きない立場だから仕方がないのだろうが、それでも、少々気になる不安定さを見せることが多すぎた。
時折、俺の前で見せる冷徹な眼差し。
あれは、サガなのか?
そんな考えが脳裏を掠めるほどに、普段のサガとはかけ離れすぎた、ぞっとするようなあの瞳。
いつもの憂いと慈しみの混じった独特の穏やかさが消え失せているサガ。
あれもまた、普段は表に出さないサガの持つ一面だ、と言われればそれまでだろうが、しかし、ずっと共に生きてきた俺が知らない一面などあるのだろうか。
この頃、そんなことばかりを考えるようになってしまった。
サガとアイオロス。
決して表に出ることがない俺に全てが分かる訳ではないが、仲良くやってるように見えて実際は全く噛み合っていないように思えた。
サガには双子座の資格者が双子であることや俺の存在など、隠すべきことを抱え過ぎているせいもあるのだろうが。
サガが決して本音で渡り合えない以上、上手く噛み合う訳もないか。
また、ここでも俺という存在が足を引っ張っているということか。
本当、いい加減、うんざりしてくるな。
どうして、隠匿しないといけないのなら生かしたんだ。さっさと葬ってくれれば良かったものを。
必要なのはサガだけで良かったのに。
どうして、俺を生かし続ける。
俺がいなければ、サガもこれほどに追い詰められ、悩み苦しむことも無かったはずなのに。
二人だけで生きていた幼い時間がひどく懐かしく思えてきて、またどうしようもない思考の迷路に陥っているのだと気付く。
俺は考えることを止めた。
こんな気分の時は、寝るに限る。
次期教皇にアイオロスが選ばれた。そう俺に告げたあの時からサガの背負う影が濃くなり始めたな、と微睡む意識の中でぼんやりと思い出していた。
双子を区別するために兄と弟を決める基準は、時代や場所によって変わるという。
先に出てきた方が兄とする場合と、後から出てきた方を兄とする場合だ。
先に出て来たのだから兄だ、という分かりやすい理屈と、後から出てきた方が上にいたのだから兄になる、という理屈らしい。
俺たちを出産の場で取り上げたのが誰なのか知りもしないので、俺たちの「兄と弟」はどちらの基準で付けられたのか謎のままだが。
先に生まれようが後に生まれようが、俺が「弟」と定義付けられることに変わりはないように思えたが。
俺たちが生まれた頃、この国は軍部が政権を握り続く内戦で荒れ果てていた。
市場は低迷し、物資不足に食料不足が起きる。富裕層と最下層の差が激しくなる。
物心付いた頃には、俺はサガと二人きりで生きていた。
どこで生まれ、誰の子として生まれたのかの記憶も残っていなかった。
パンク状態の酷い環境にあった孤児を預かる施設を飛び出したのは、いつのことだったか。
どうやら、俺たちは二人揃ってすでに小宇宙というやつを体得していたらしく、それも飛び抜けて強かったようだ。
幼い子供が大人の保護を受けずに生き抜いて来れたのも、この小宇宙に寄るところが大きかったのかもしれない。
食い繋ぐ為にスリもやったし盗みもやった。まあ、パン一切れとかリンゴ一個とか可愛らしいもんだけどな。
小宇宙、つまり生き物の気配どころか命というものが読み取れるのだから、スリなど簡単だった。
俺が初めて人を殺したのも、この頃だ。
幼い頃から俺たちは、それはそれは可愛い綺麗な容姿をしていた。薄汚れていても、それは損なわれることは無かったらしい。今でもサガは「天使のような清らかさ」とか言われてるが。
そんな外見にサガの静かな気性が加われば、本当に「綺麗なお人形さん」の出来上がりだ。
廃屋や路地裏を寝床にしていれば、男娼として金を稼がせてやると、声を掛けてくる大人は絶えなかった。
何度も引っ張られそうにもなった。ついでに俺も加えて、可愛い男娼のコンビにでもするつもりだったのか。
おかげで、常に寝床を変えて逃げ回る羽目になった。本当に迷惑な話だ。
こんだけの美貌があれば男娼をせずとも稼ぐ手段は腐るほどあるだろうに。
今思えば、あれは軍部の車だったのだろう。どこかで使えるガキがいると噂に上がっていたのかもしれない。
サガが強引に担ぎ上げられ車へと連れ込まれかけたことがあった。必死に俺の名前を呼ぶサガをこの時初めて見た気がする。常に俺を守り俺よりも優等生であろうとしていたサガが、形振り構わずに俺に手を伸ばし助けを求め叫んでいた。
サガに求められることで、初めて俺の中で俺という個が確立したような気がした。
俺の中で何かが弾け飛ぶのを感じた。
サガを返せ、そんなことを口にした気もする。
周囲を爆風に包み込み、吹き飛ばしていた。それだけだった。自分が何をしたのかも理解出来ていなかった。
凄まじい力で破壊され、ほとんど原型を留めていない車からサガを引っ張り出し、俺は走って逃げた。
サガは俺に引っ張られながら、呆然とその光景を見つめていた。
「何? 何をしたの?」
その問いに、答えられるはずもなかった。
それからだろう、俺たちの間に違いが生まれてきたのは。互いの自我がはっきりと現れ始めたのは。
ここにきて、ようやく互いに別の存在なのだと、認識し始めたのだ。
俺の巻き起こした騒動は、表向きはただの事故で被害者無しで片付けられていた。
しかし、これによって俺たちの存在が聖域に知られるようになる。
それから程なくして聖域から迎えが来た。使者ではなく教皇自ら出てきたのは驚いたが、この時の俺たちはその男が教皇なのだと知りもしなかった。
改めて謁見した時に初めてあのじいさんの正体を知り驚いたけれども。
俺たちを迎えに来た時、教皇は教皇とは名乗らずに、聖域から来たシオンだとだけ名乗った。
そして、俺たちを抱きかかえ、今までよく二人きりで頑張ったな、と静かな声音で言った。
その声にサガは泣き出していたが、俺はこれで寝床に困る必要が無くなるのか、腹が減って死にそうな思いはしなくて済むのか、とそんなことを考えていただけだった。
「今しばらく、不自由な思いをさせるが許せ」
シオンは俺に向かってだけそう言った。
俺たちの守護星座、背負う宿命が全く同じであることを導き出した時、シオンは酷く苦悩していた。うなだれ、考え込む様子が何度も見られた。
双子なのだから、守護星座とやらも同じで当たり前じゃないのか? と俺は不思議に思いながらそんなシオンを眺めていたものだ。
あれは、俺とサガのどちらを表に出し、どちらを影として隠すかの思案をしていたのだ、と今ならば分かる。
結果、サガが表に出て俺はサガの影という形に収まった。
常に監視下に置かれ行動も制限されるが、それは内戦という状況下で軍の監視も強かった街にいた時と大して変わらないし、むしろ、俺は警戒無く食って寝れる場所があるなら歓迎だった。それ以外は本当にどうでも良かった。
とにかく俺はサガ以外には無頓着だった。サガと一緒に食って寝て生きていられるのであれば、それ以外はどうでも良いというガキだった。
切々とアテナの加護について説かれても、「それがどうした」という態度だったのだ。
そういう意味でも、双子座の聖闘士として表に出るのがサガであることは、正しかったのだろう。
正式に双子座の資格を得た俺たちは、生活の場も十二宮へと移した。まさか本当に古代神殿の中で生活を送ることになろうとは思いもしなかったので、これには正直驚いた。
訓練はサガと一緒にすることが多かった。同じ宿星を持つ以上はどちらも同じだけ戦えるようにと、勉強も共にさせられた。
途中からサガは同年代のアイオロスと組み手をするようになる為、こういう時は俺は別個に訓練を組み込まれていた。
環境が整うまでは俺の存在を隠すことを許せ、シオンは何度もそう言ってきた。
サガはこの新しい生活を受け入れ、それなりに楽しめるようになっていたし、俺もこの状況に別段不満は無かった。聖域内での人との接触を制限されるだけで、許可を得れば街にも出られるのだ。サガが泣くこともなく安定しているならば、本当に何も不満は抱かなかった。
そのはずだった。
いつからだろうか。サガが夜によく一人で泣くことが増えたのは。
俺に気付かれまいと、声を押し殺して泣いていた。しかし、小宇宙がだだ漏れな上に双子特有の直感で俺にはバレバレだった。
なので、あまりに小宇宙の乱れが酷い時はサガの元へと行った。傍らに座り、蹲るサガをただ撫でていた。それで、サガが落ち着くこともあれば、余計に酷くなることもあった。
原因のほとんどは、俺の存在とアイオロスの存在だったのだろう。
アイオロスとサガの実力は拮抗していた。
サガはいつしか焦りを感じ始めていのかもしれない。
俺がいつまでも表舞台に出られないのは、自分が弱いからだと、そう思い詰め始めていたのだろうか。
俺がどれだけ気にするなと言っても、頑なに聞かなくなっていた。
「どうして、お前だけがこんな思いをする!?」
「こんな思いって、別に不満も無く過ごせているが?」
サガの叫びに似た問いかけに俺が軽くあしらえば、それはヒステリーを起こさんばかりに怒ってきたものだ。
「私だけが皆に褒められ、お前はいつまで存在しないような扱いを受け続ける!?」
「俺はここにいるし、お前やシオンは知ってるじゃないか」
「違う! そうじゃないんだ、カノン!」
ほとんど泣き叫ぶような状態だった。
「どうして分からない!? お前のことなのに! いない扱いを受けてるのはお前なのに!」
「俺は不満無く過ごせてると言ってるだろう」
俺には、サガがいればそれで良かったはずなのに。
「違う! それじゃ駄目なんだ! 駄目なんだカノン!」
俺にはそんなサガが全く理解出来なくなっていた。サガも俺が言うことを理解しないことに苛立ちを覚え始めていたのだろう。
この頃から喧嘩などしたことがなかった俺たちが、激しい喧嘩を繰り広げ始めるのだ。
一度、喧嘩というものを始めてしまうと、それはもう激しいの一言だ。聖闘士として鍛えられた力を躊躇い無く使っての喧嘩。本気の殴り合いに技の掛け合い。
よくまあ、死ななかったものだと思うが、やはりお互いに無意識の内に加減はしていたのだろうか。
しかし、あれほどにサガが側にいればそれだけで良いと思っていた俺が、段々とサガと共にあることに苦痛を感じ始める。
サガの向けてくる憐れみに耐えられなくなっていたのだろうか。サガの眼差しから逃げるように、俺は外へと関心を示すようになる。
出歩き、街のガキ共と遊んだり悪さをしたりと、世間一般で言えば年相応のことをやってみた。
楽しいのかどうかと聞かれれば、よく分からないが本音だが、いい憂さ晴らしにはなっていた。
あくまでも聖域の監視下にあるので、悪さと言っても可愛らしいものだ。人命を軽んじるような真似をすれば、即座に刺客が送り込まれ俺は消されただろう。それが分かっている上での狡猾に計算された行動でもあった。どこまでが許され、どの線を越えれば許されないのか、慎重に聖域の反応を伺いながら俺は遊び歩いていた。
サガの憂鬱げな顔を見なくて済むと思うと、尚更、外へと出向くことが増えた。
そんな俺を見てサガは益々嘆くようになる。
どうして、幼い頃のように一緒にいることを楽しめなくなったのだろうか。
サガが悲しげに呟いた言葉だった。
それは俺が教えてほしいものだ。
そんな風に、目を逸らし続け、すれ違い続けたまま迎えることになる、次期教皇の指名の日。
酷く塞ぎ込むサガを眺めながら、いい加減に俺の苛立ちも限界に達していた。
昼寝から目覚めても、サガは聖衣を脱ぐこともしないままソファに座り込んでいる。
何を考え込んでいるのやら。
「お前の本心を当ててやろうか?」
そう意地悪く問いかける。
「なに?」
今までに無い凶悪な顔してるぞ、お前。鏡見て来い。
声には出さずにぼやいてみれば、サガはこちらを睨んだまま微動だにしない。
本当に全てが面倒臭かった。
女神とか地上の平和とか、正直どうでもいいことだった。己の心の安寧も保てないのに、どうして世界の平和などと大それたことを望めるというのか。
馬鹿らしい。
そんな考えが顔に出ていたのか、サガが軽く眉根を寄せていた。
「少し風に当たりたい。付き合え」
そう言って散歩に連れ出された。
始めは他愛の無い会話をしているだけだった。お互いに当たり障りの無い話をして場を繋ぐだけだった。
それが、結局、今回の次期教皇の話になってしまい、考え無しの感情のままに怒鳴り合っていく。
いつもの温厚で冷静なサガはどこへ行ったのか、俺の戯れ言に無様に 填っていく。
本当に無様だな、サガ。俺の意図的な悪意ある言葉にお前が堕ちていく様を見ることになろうとは思わなかったよ。
失望させてくれるな、サガよ。俺の感情も己の感情も読めないほどに愚かだったのか?
「もう一度言ってみろ、カノン!」
「本心を突かれて動揺したか、サガ。愚か者めが。無様に追い詰められるくらいなら、本心であると認めろ!」
「本心だと!? あんなのが私の本心であって堪るか!」
「いい加減に素直に自分と向き合え! それ以上おかしくなってどうする!? お前にもシオンとアテナを殺してしまいたいと思う感情があるだろうが!」
「そんな感情あって堪るか! 正気で言っているのか、カノン!? 俺たちはアテナの聖闘士だ! お前もこのサガに何かあった時は、双子座の聖闘士として闘わねばならんのだぞ!」
―― サガに何かあった時って、何だよそれ。お前が死ぬって意味だろうが。
俺は頭の中がおかしいくらいに冷えていくのを感じていた。なのに、口は止まらない。溜まりに溜まったものをサガへとぶつけようとしてしまう。
「いつまで神の化身の真似事を続ける!? 他人の押し付ける幻想をいつまで演じるつもりだ!?」
「人の望みに応えてやることが、何が悪い!」
「そんなことを続けるから疲れるんだ、お前は! 教皇もアテナも今なら殺せる。お前の方が立派に世界を統べることが出来ると、そう思っているはずだ! お前の中にも高慢な影があることを認めろ!」
「貴様、カノン! これ以上このサガを愚弄するならば、もはや捨ておけんぞ!」
「お前に出来ぬというなら俺が殺してやろうか! ああ、そうだな。今更、何人殺そうと変わらんからな」
「カノン! それ以上言うな!」
「お前を指名しなかった間抜けな教皇も、力無き赤子で降臨したアテナも殺してしまえ! それがお前の今の望みだ! いい加減に認めろサガ!」
「まだ言うか! 貴様というやつは! その性根――」
「教皇とアテナを殺し、世界を手に入れてやるのも悪くない話だ! なあ、サガよ!」
「きっさまぁ! お前のような悪魔をこのまま放っておくわけにはいかん!」
「ほう? どうするというのだ? お前に何が出来る?」
「貴様など、この兄自ら、スニオン岬の岩牢に幽閉してくれるわ!」
そう言い放ち、サガは両手を振り上げ交差させる。
―― なんだと!? この馬鹿、まさか!?
即座に俺も同じ体勢を取るが、僅かに遅れを取ったことが敗因となった。
銀河の星々を砕くと言われる双子座の最大の奥義。
本当に撃ちやがった。この愚兄めが。
海水が足下を浸す。
意識を取り戻せば、俺は本当にスニオン岬の岩牢の中にいた。
血の気が引き、そして、頭に血が上る。
訳が分からない、という表現がぴったりな状況だった。
「ふっざけるなぁ…! サガァ! 出せ! 貴様ぁ、何の真似だ!」
満ち潮なのか、じわじわと水面が上がってくる。
「カノン。その岩牢からは神の力を持ってせねば生涯出ることはできん」
冷えたサガの声が聞こえた。
聖衣を纏ったサガ。
格子越しに俺に冷えきった眼差しを向けてくる兄。
「神だと? 神の力だと!?」
目の前にいるサガの声が、酷く遠くに感じる。
「お前は絶対に善人ではないわ! 出せ、サガ! ここから出せ!」
「お前の心から悪魔が消えて無くなるまで入っているのだ。アテナの許しが得られるまでな」
そう言い、サガは俺に背を向ける。
神の力を持ってして? なんだこの違和感。何かがおかしい。
「…お前、俺をどうやってここに入れた!?」
何だ、この酷い違和感は。
気持ちが悪い。こんなサガは知らない。
誰だ、お前は――。
「サガァァ! 俺をここから出してくれ! 弟の俺を殺す気か!?」
兄のサガへと向けて声を上げる。しかし、兄に声が届くことはなく、振り返ることも無くサガは歩み去る。
サガには届かない声。俺の知るサガは、どこにいる?
「ちくしょう! サガよ、貴様こそ悪そのものだ! いつまでも悪の心を隠しおおせると思うな!」
サガの歩みは止まらない。こちらを見ることもしない。
どんな言葉もサガには届かない。兄のサガが、酷く遠い。
「……サガ…」
どうして、こうなったというのか…。
殺す殺さない、という言葉か? ガキならば一度や二度は口にする戯れ言だ。
それが原因? いや、もっと前から起きていたすれ違いの積み重ね?
どうして? なんで?
神の力…? 神…?
「殺してやる! 貴様も、アテナも、神も何もかも、殺してやるからなぁ!」
これが、アテナの降臨の加護か? 聖闘士の辿る末路か?
「ちくしょうー! サガァァァ!!」
水面の上昇は瞬く間に起きた。満ち潮の流れが速い。
死ぬのか、こんな無様な姿で。
「死んで堪るかぁ! 必ずここから出てやる! あのサガを殺してやるぞ!」
それだけが、俺の意識を繋ぎ留める唯一のものだった。
引き潮の時は完全に陸地になるが、それはそれで今度は直射日光で死にそうになる。
こんな岩牢を捕らえた人間を懲らしめる為に作ったなどと、アテナというのはどんだけ嗜虐趣味だ。
そんなくだらないことでも考えていないと、気が狂いそうだった。
「絶対に、生きて出てやるからな…! 必ず、殺してやるからな!」
死んで堪るか。それだけを念じ続けて意識を繋ぎ留めた。
人間ってのは何日飲まず食わずで生きられるのだったか。
ぼんやりした思考で考えるが、一週間だったか、二週間だったか正確な数字は思い出せなかった。
喉が焼け付くようだ。
喉の乾きに海水を飲みかけるが、死ぬだけだと何とか理性を総動員して押し止まった。
凄まじい拷問もあったもんだな。
本当に、死んだ方がマシと思える状態だぞ、これ。
満ち潮の度に水面が上昇し、呼吸すら困難な状態に陥る。
ああもう、楽になりたい。そう願う心が無かったとは言えない。しかし、そう思う度に、不思議と苦しさは癒され、俺は生きながらえた。
陽が沈み、また昇る。それを十ほど繰り返した頃。
何かに呼ばれた気がして俺は格子から手を離し、振り返る。見たところで何も無いただの岩肌があるだけだった。
しかし、何かが呼び続ける。
「何だ?」
ゆっくりと、岩牢の奥へと進んだ。
行き止まり。
しかし、呼びかける波動はこの先にある。
「…やばいか、これ」
無意識に声に出していた。
本能が逃げろと警告するが、逃げ場などどこにも無い。
逃げたくば、この先に進むしか無いということか。
こうなれば、ここから出られるのならば、何でもいい。神でも何でも利用してくれるわ。
そう開き直り、俺は岩肌に手を触れる。
一部だけ感触が違う場所があった。
弱りきった体ではあったが、それでも渾身の力で岩壁に拳を放つ。
崩れた岩壁の奥に、もう一つ空洞が存在していた。
そこに見えるのは黄金に輝く三つ叉の矛。そして、張り付いた護符と思わし紙切れ。
「まさか、本当に…ここに封印されて、いたのか? 海皇…ポセイドン」
魅せられたように、引き寄せられるように、俺は三つ叉の矛に近づく。
脳内で警告音が鳴り響く。触れるな、逃げろ、と。
しかし、体が言うことを聞かない。意識も乗っ取られたように自由が利かない。
矛に手を伸ばす。護符が弾け飛んだ。
まずい。封印が…!
思っても体は言うことを聞かず、俺の手は矛を掴む。
「俺の力でも抜けるぞ、これ…」
言いながら、俺の手は矛を引き抜いていた。
やばい、持っていかれる…!
抵抗できない。
凄まじい波動が体を包み、海底へと引きずり込もうとする。
溢れ出る海水に飲み込まれ、俺は意識を手放した。
目が覚めれば、異様な場所にいた。
空と思わしき場所には海面があるのだ。海の底? なんだここは?
人の気配を全く感じない。耳が痛くなる程に静かだった。
周囲にある柱や地面の石畳を見る限り、聖域と似たような造りをしていた。古代遺跡か何かだろうか。
ゆっくりと足を進めて行けば、いきなり視界が開けた。目の前にそびえ立つのは巨大な神殿だった。
「ポセイドンの…海底神殿、か?」
呆然と呟く声も小さくなる。あまりの静けさに音を立てることも控えたくなるほどだった。
常に賑やかしかった聖域とは随分と違うものだ。
とりあえず、他に行く先も無いのでそのままポセイドン神殿へと足を踏み入れた。
内部も豪奢な造りをしている。聖域の教皇宮やアテナ神殿のような造りだった。
そういや、元々ポセイドン神殿も地上にあったのだったな。造ったのは聖域と同じくギリシャの職人たちということか。造りが似ていて当然だな。
そんなことを暢気に考えながら歩いていけば、巨大な扉の前に行き着いた。
「うわ…。行きたくねぇ」
思わず口に出た。
扉の向こうからは、明らかに巨大な気配を感じる。人間が手を伸ばしてはいけない領域だ。
しかし、確実に俺は呼ばれている。
「ここに行く以外にどうしようもねぇしな…」
覚悟を決めて扉を押し開いた。
「聖衣…? いや、違うか」
整然と並ぶ、聖衣のようなオブジェ形態のものたち。おそらく、聖衣同様に鎧となるのだろう。
確か、ポセイドンのものは鱗衣(スケイル)と呼んだか。
元々このオブジェ形態から鎧となるものは、ポセイドン軍が始めに造り出したと聞いたな。
地上制圧に乗り出したポセイドンを迎え討つ為にアテナも同様の鎧を造りだしたのだと、神話では伝えられていたが。
聖戦、つまり、神々の戦いは最初はアテナ対ポセイドンから火蓋が切って落とされていた。
聖戦を三、四度繰り返した後、ポセイドンは聖戦と呼ばれる戦いから姿を消している。代わりに出てきたのが、冥王ハーデス。
それから数千年に渡り、現在に至るまで延々とアテナ対ハーデスの戦いが続けられている、という状態。
聖域にいる時に学んだ神話と聖戦についての知識の一端だ。
どうしてポセイドンは戦いを止めたのか。少なからず興味が沸いてきた。
まあ、神がそんな質問に答えてくれるとは思ってもいないが。
足を進め、ポセイドンの鎧と思われるものの前に立つ。
ふと、その下に目がいった。中央に鎮座した美しい光沢を放つ壷。上部に貼られたアテナの護符。
もしかしなくても、中にいるのはポセイドンだよな。
俺に開けろっていうのか。
慎重に壷へと手を伸ばす。
三つ叉の矛の時と同様に、俺の手が触れる前に護符は弾け飛んでしまった。
壷がガタガタと揺れだし、俺は思わず壷を抱え込んでしまう。
うわぁ。抱えてどうしようってんだ、俺。
もう自分の行動がでたらめ過ぎて情けないどころではなかった。本当に何をやっているのか。
「おわっ!?」
壷の蓋が吹っ飛び、何かが煙のような姿で出ていく。そのままポセイドンの鎧へと溶け込むようにして消えていった。
『誰だ? わたしの眠りを妨げるものは』
びりびりと全身が痺れる感覚。
体が動かない。
竦むな! 怯むな!
俺は強ばる己の体に必死に言い聞かせた。
『答えよ!』
反射で膝を折る。頭を僅かに下げ、神の怒りを躱す。
凄まじいまでの覇気。圧倒的な力。
これが、神か。
ここで殺されるか、生き延びられるか。大博打な気がした。
「はい…。ポセイドン様」
『何故、わたしの眠りを妨げた!?』
こっちはあんたの力に引きずられたんだけどな。そんなことは思っても口にはしないが。
「そろそろ、お目覚めの時期かと…」
最早、自分でも何を言ってるのか分からない。封印された神にお目覚めの時期って何だよ。他に言いようがないのか、と自分で突っ込みたくなる始末だ。
やばいか。死んだか、俺。
しかし、ポセイドンは俺に現状を聞いてくるばかりで、俺に関してはどうでも良さげな体だった。
『アテナが降臨しただと…。なぜ、今更に。いや、あいつか。あいつとの戦いに備えて復活したかアテナよ…。なるほど』
あいつ?
「あいつとは、いったい…?」
『まあ、よい。して、お前の名は?』
名? 名前だと? どうするか。
「シ…シードラゴンにございます」
とりあえず、目に付いた鱗衣の名を名乗る。神に己の真名を名乗ることなど出きるか。精神から何もかも持って行かれてしまう。
『よかろう。では、聞け、シードラゴンよ』
「は、」
『わたしは復活のたび、地中海の海商王ソロ家の血筋を借りることにしている』
「はあ…」
『今はどうやらジュリアンという三歳の跡取り息子がいる様子だ』
そんなことまで即座に分かるのかよ。
『わたしはこのジュリアン・ソロの体内で今しばらく眠ることにする。ジュリアンが満十六歳になるまでわたしを起こすな』
「しかし、アテナが…」
思わず俺は口走る。
『アテナも降臨したばかりなら、今はまだ単なる赤子。あと十年は何もできはしない』
ほう…。やはり、アテナも神も、人の姿で降臨すれば成長速度も人間と同じなのか。
その後もポセイドンは俺に今後の説明を続ける。
いずれポセイドンの意志が水のおもてを覆いつくし、その意志を感じた海闘士たちが各地から集結してくる。戦いの準備はそれからだ、それまでは決して起こすな、と最後に付け加えて。
そして、そのままポセイドンの気配が消えてしまう。そのジュリアン・ソロとやらの元へと行ったのか?
俺は呆然とポセイドンの鱗衣を見上げる。
妙な神だな、ポセイドンは。
あれは、絶対に俺の素性バレてるだろ。確実に気付いてるぞ、あれ。
俺がアテナの聖闘士の資格持ちだということも、確実に気付いている。
その上で俺を放置するのか。
寛容なのか無関心なのか分からん神だな。
「まあ、いい。それならば、俺も好きなように動かせてもらおうか」
海龍の鱗衣を手にすれば、問題無く装着出来た。どうやら、俺を海龍としても認めているらしい。
どこまで鷹揚なんだ。
鱗衣を着て、海界から地上へと出る。
スニオンの岬に立ち、久しぶりの日光を浴びた。
振り返れば、遠くに聖域も見える。一般人には結界に隠され見えないらしいが、聖闘士には難なく見ることが出来るようだ。
「さて、岩牢からも出られたことだ。手始めに何をするかな」
あのサガを、殺してやる。
その思いは変わらずにあった。俺を捨ておいたあの兄を許せるものか。
どうやってサガに近付こうかと考えつつ、聖域周辺まで足を運ぶ。
そして、聖域に近付くにつれ、雰囲気がおかしくなって来ていることに気付いた。
「何か、あったのか…?」
その辺のガキを装って、俺は農夫に声を掛ける。世間話を振りながら、最近はどうなってる?と聞いた。
農夫は、最近な、やたらと不審な死体が上がるんだと顔を顰めながら言った。
不審な死体、ねぇ。
纏まった数の死体が一気に見つかるも、死因不明。つまり、皆、ただの心不全。心肺停止ということらしい。
なるほど、溺死でもなければ窒息死でもない。外傷も見当たらない。薬の影響、ガスを吸ったなどの要素も見当たらない。
それは不審としか言いようがないな。
何が起きてるというのか?
気になりつつも、話題を変えるように「聖域はどうよ?」と軽い調子で尋ねてみる。
すると、農夫はこれが唯一の癒しだな、と言い始める。時折、村へと下りてくる教皇様が、神のような人格者なんだよ、と誉め讃えた。
私たちの痛みを癒してくださるのだ、教皇様は。そう繰り返した。
「は?」
思わず、俺の口から間抜けな声が出る。
教皇が神のような人格者? 癒し? あの雷じじいのシオンが癒し?
「なんだそれ…」
「なんだ、坊主。お前は教皇様にお会いになったことないのか。一度会っとけ。神の救いがあるぞ」
俺はますます怪訝な顔をしてしまう。
意味が分からん。
いつから教皇は神になったんだ。アテナの代理人ではあるが、神だとは初耳だ。
俺が幽閉されていた間に、聖域で変化が起きているのか?
僅か数日か数週間だろう、俺が地上から姿を消したのは。何ヶ月もってわけじゃないはずだ。
たったそれだけの間に何が起きると言うんだ。
聖闘士の目にしか映らない聖域を見上げながら、俺は無意識に言葉にしていた。
「サガ。お前、何をした…?」
即座に脳裏に浮かんだのは、双子の片割れの姿だった。
12.10.2
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続きます。
相変わらずの妄想・捏造炸裂です。
海界のカノンの話が書きたくなりまして。
カノンとポセイドンの話が書きたくなってさ。 そして、まさかのカノン一人称になってるという。無意識にカノン一人称で書いてたよね。
ギリシャ神話では、ポセイドンは好色で気難しいジジイな神でハーデスは穏やかな優しい神なのが(キリスト教の普及によってハーデスは怖い神にされてしまってるけど)星矢では逆なイメージなのが面白くて。
アイザックなど聖闘士候補から海将軍になってることや、カノン以外に最後まで海龍の資格者が現れなかったことから、海将軍ってポセイドンが許可を与えればその人間が資格者になるって感じなのか?
とか思ってしまったり。
アイザックとカノンの経緯からも、海闘士はもしかして海難事故で死にかけた人間をポセイドンが保護してて、 その人間がそのまま海闘士になってたら楽しいのにな、とか妄想が。
そんなだったら、ほかほか家族で海界が可愛いんですけど。 海界が可愛くて仕方がないこの頃。
セイドンの「人の体を借り受ける」という言い方がちょっと好きで。奪い取らずに借り受けるんだ。
意外に人に対して優しいっすね海皇様。
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