黄昏にまみえる・1

 

 

 

 

 

 

 

 「デスマスク(死仮面)」か。君は不吉という意味合いでこの名を選んだのかな。私には憂いと慈しみを感じるよ。
 デスマスクが作られ使われる意味を知っているかい? 亡き人を悼み記憶に残す為だ。

 死の使いを気取りたいなら、私なら「デスサイズ(死神の鎌)」とでも名乗るかな。

 君は君が思ってるほど悪しき存在でも昏い存在でも無いんだ。











 聖域に凶星が輝いた。
 牡羊座に流星が一つ。

 巨蟹宮の上で寝ころび星を眺めていたデスマスクは眉根を寄せ上体を起こした。
 たった今、巨大な小宇宙が弾け消えるのを感じたのだ。
「教皇…? この小宇宙は、サガ…か? なんだ、この変質した小宇宙は…」
 呟き、少し慌てた風体で巨蟹宮の上から飛び降りる。
 上の宮へと向かおうとしたところで、デスマスクは足を止めた。
「…黄泉比良坂に、誰か入った…。誰だ? これは、この気配は、シオンか? まさか、教皇が…? なんで!?」
 動揺を隠せない動きで己に積尸気を放つ。

 昏い景色。重い空気。
 黄泉へと繋がる道。黄泉比良坂。
 デスマスクは宙に浮いたまま先ほど感じた気配を探す。
 死者の行列には並ばず、さりとて生者の持つ眩しいまでの輝きは無い、この空間では異質な存在。黄泉比良坂の入り口で困ったように考え込 む姿を見い出す。老人の姿を見つける。
 さすがは二百年を生きたというだけあるのか、死者の行列に引きずられることなくこの空間でも自我を保ち続けていた。

「シオン…」
「様を付けんか、悪ガキめが」

 近づき名を呼べば、いつもながらの小言が返ってきた。

「あんた、何やってんだよ…」
「何をやってるとな? 見ての通りよ」
「だから、何であんたが、魂の状態でここに来ている!?」
「積尸気を操るお前に解らぬはずもなかろう」

 詰問するようなデスマスクの言葉にシオンはのらりくらりと躱す。
 デスマスクは状況が把握出来ないことへの苛立ちから、さらに声を荒げた。

「ふざけんなよ!? さっさと戻れよ! 死の穴に落ちる前ならまだ戻れるだろ!俺が戻して――、」
「…残念ながら、戻るべき肉体は使い物にならんよ」
「―――…、なんで…」

 絶句、というのはこういう状況を言うのだな、などと妙に冷めた感覚に陥りながらデスマスクはシオンを見つめ遣る。

 シオンは変わらず困ったような悲しげな表情を浮かべているだけだった。遠くを見つめるような眼差しで静かに佇んでいた。
「星の宿命なのか。この時代に於いても、双子座(ジェミニ)は善悪の狭間に苛まれる宿命を背負うのか…」
 そんな呟きが耳に届く。自問するかのような小さな呟きだったが、デスマスクの耳は聞き取ってしまう。
 ジェミニ。やはり、教皇シオンの小宇宙が弾けた時に感じたあの変質した小宇宙はサガのものなのか。
「サガ、なのか? あんたをここに追いやったのは…」
 デスマスクの問い掛けには答えることなく、シオンは言葉を重ねていく。
「私は倒れてはいけなかったのだ。私が倒れたことであの闇が力を増すのは必至。それを止めれなかったは私の罪か」
 デスマスクはまだ幼さの残る顔に困惑の色を浮かべていた。
「闇…。サガの…抱える闇」
 そう呟き沈黙する。気になる節が確かにあった。一度だけ、サガの小宇宙が異様な昏さを纏うのを見たことがあるのだ。
 あれは何だったのか。必死に考えようとするが、感情が拒絶するのを自分でも感じた。
 口を閉ざし目を固く瞑るデスマスクの姿に、ようやくシオンは視線を向けた。

「強すぎる光は強すぎる闇を生み出すものだ」

 強い光が落とす影は濃い。
 陰と陽。光と影。どちらか一方だけしか持たぬ人間などいはしないだろう。まず生きてはいけまい。
 両方を持ち合わせ、バランスを保ち続けることで存在できるのが人というものだと思っている。そう、シオンにも聞かされてきた。

 だが、しかし。なぜ、と疑問というよりも悲しみに近い感情が先走る。
 神の化身の如き、そう周囲に評される光あふれるサガは、デスマスクには眩しすぎた。どちらかと言えば陰、闇に属するデスマスクには近づきたくないほどに眩しいものだった。それでもサガは暖かく優しかった。強い光が眩しくとも、焼き焦がされるような恐怖は感じさせない優しさを伴った光だった。

 そのサガが…。どうして、シオンを。聞きたいことは沢山あった。
 しかし、上手く言葉にならない。そして、迫りくる時間は回答を与えてはくれないらしい。

 眼前のシオンの体が揺らめき始める。

 どうした、と聞く前にシオンが言葉を繋ぐ。

「あの列に引き込まれずに耐えるのもそろそろ限界か…。お前が感づき追ってきたのは幸いよ」
「あ…?」
「デスマスクよ、一つ頼まれてくれぬか」
「何だよ…」
「カノンを探してほしい。サガの手によってスニオン岬の岩牢に入った形跡があるのだ」
「は? カノンってあのカノンかよ?」
 サガの双子の弟。どちらも天賦の才を持ち、どちらも宿星に双子座を背負っていた。
 しかし、双子座の聖衣は一つ。どちらか一方だけを選び聖域入りさせ、それまでを二人きりで生き抜いてきた双子を別つなどシオンには出来なかったという。
 熟考の結果、自我の確立が少しだけ早かったサガを表に出し、カノンはもう一人の双子座の候補として聖域に置いた。
 ただ、周囲に妙な派閥争いを起こさせぬ為に、カノンの存在は聖域でも十二宮に関わる一部のものだけに知らされ、他には極秘とされた。蟹座の聖衣を継承した時にデスマスクも初めて顔を合わせることが出来たのだ。完全に隠匿などしない、それがシオンの方向性だった。

 言いたいことを押さえ込む気質のサガとは真逆に、言いたいことははっきりとズバズバ言う気質をしていたカノン。
 ただ、双子だなぁと思うのはやはり妙なところで几帳面という性格か。それを言うとなぜかカノンは全力で以て否定してくるのだが。
 そんなやり取りをふと思い出す。

「サガめ…。神にでもなるつもりか」
 苦渋に満ちたシオンの声。
「影を背負うカノンもまたお前には必要だと、なぜ分からない。光だけの人間になろうと、せずとも…。いや、神の化身と勝手に評した声が、お前をここまで追い詰めたのか…」
 シオンの呟きが痛々しい響きを持って聞こえる。
「サガ、何があったんだよ…」
 スニオンといえば、神にしか開けられぬ岩牢と聞くが、果たしてどうやってその岩牢に入ることが出来たのだろう。
 素朴な疑問だったが、サガならば可能なのだろうか、とも思う自分を感じていた。
 サガの力ならば、神に匹敵する力をすでに持ち合わせているのではないか、と。

 シオンの体がいよいよ揺らめき霞んでいく。
「じじぃ…」
「デスマスクよ、サガを独りにしてはならん。カノンと、影と共にあることが、サガをサガとして…」
 シオンから表情が抜けていく。周囲の死人たちと同じになっていくのが分かる。
「なんだよ、何勝手なことばっか言ってんだよ、じじい!」
「…案ずるな。いずれ来る聖戦に勝つために、必ず、私は秘策を届ける」
 その言葉に最後の力を使いきったのか、完全にシオンの姿が消えてしまった。
 おそらく、遙か先を連なって歩く死者の行列を探せばシオンの姿を見つけられるかもしれない。しかし、デスマスクにはそんなことをしても無意味なことは分かっていた。
「何なんだよ! じじい、勝手に逝ってんじゃねぇよ!」
 言いようのない苛立ちと寂しさに駆り立てられ声を荒げても、もう、シオンには届きはしなかった。



 どのくらい、あの黄泉比良坂で立ち尽くしていただろうか。
 シオンを追うことも出来ぬまま、長いことそうしていたように思うし、わずかな時間だったような気もする。
 ようやく気持ちを落ち着けたデスマスクは、元の巨蟹宮へと戻ってきた。そのまま、迷うことなく十二宮の階段を登る。黙々と早足に。ただ、教皇の宮を目指して。

 すぐ上の獅子宮を通過していると、年下のまだ幼いアイオリアが不安気に顔を出してきていた。胸騒ぎがすると、何か知らないかと問うてくるのを 顔も見ずに「知らねぇよ」と短く言い捨て、そのまま立ち去る。
 長い階段をひたすら上り次の処女宮を通る。ここはまだ無人の宮だ。乙女座(バルゴ)の黄金聖闘士はすでにいるらしいが、まだ聖域入りをしていない。
 ここ十二宮には処女宮のように未だ無人の宮が幾つかあった。
 十二宮の全てが主を迎えるのは、緊急事態の時にしかあり得ないらしい。揃っていないことはまだ平和な証拠だと言われていた。
 次の天秤宮もまた無人。主の老師は五老峰に座し動かれぬまま。
 新たな主を迎えているのは天蠍宮と宝瓶宮くらいか。数ヶ月前に小さな主たちが聖域入りしていた。獅子座のアイオリアと同じ年だったように思う。
 しかし、どちらの宮もデスマスクが通過することに気付かないのか、デスマスクだから気に留めないのか、主と出くわすことはなかった。
 人馬宮のアイオロスも磨羯宮のシュラも不在だった。

 階段の途中で足を止め、一度大きく息を吸い込んだ。妙な焦りを沈めようと空を仰ぎ見る。今なお、凶星は聖域の上にあり、益々デスマスクの 気を重くさせるだけに終わってしまった。
 ゆっくりと登ってきた十二宮の階段を見下ろし、そして今目指している教皇の宮を眺めやる。
 今更だが、十二宮全体が不穏な空気に満ちていることに気付いた。酷く慌ただしい気配も感じる。
 シオンが逝ってしまったことを皆はすでに知っているのか。サガは、どうしたのだろうか。サガは無事なのだろうか。
 焦りは増すばかりでどうしようもなかった。

 宝瓶宮を過ぎ、最後の双魚宮の前に来て、デスマスクはようやくまともに宮の主の小宇宙を感じた。
 年が近く、聖域入りしたのも近い時期だったことから、山羊座のシュラと共によく話をする仲になっていた聖闘士。魚座のアフロディーテは宮に留まっているらしかった。
 ただし、今のデスマスクは誰かと会いたい気分では無いので、出来ればアフロディーテも宮から出て来ないでくれればいいと考えていた。考えながら足早に歩いていると、声を掛けられた。
「どこに行くの?」
「上」
 短く答えれば、綺麗な眉を寄せアフロディーテは「シュラもさっき慌ただしく通り過ぎていったよ」と伝えてきた。
「シュラが?」
 なぜシュラが呼ばれている。
 デスマスクは苛立ちばかりが募って仕方がなかった。
 アフロディーテが不安そうに呟く。
「教皇の小宇宙が途絶えたように感じる。サガの小宇宙も感じられない」
 何があったの? と目線で訴えてくるのを、知らないと躱すのがやっとだった。
 正直、どうするとか何をするとか、全く考えていなかった。
 ただ、サガに会わなければと思ったのだ。サガの状態を安否を確かめることしか頭になかった。
 不安げに教皇の宮を見上げるアフロディーテを置いて、デスマスクは一気に階段を駆け登った。

 もう少しで教皇の間への入り口に辿り着くという場所で、デスマスクは足を止める。

 なんだこの小宇宙の乱れは。
 気持ちが悪い。なんだこれは。

 曲線を描く階段の途中で視線を上げれば、教皇の間にある出窓が見える。その出窓の窓硝子を割って誰かが飛び出してきた。
 窓枠の破片や硝子をまき散らし、飛び出してきた人物。デスマスクは 「ああ、やっぱりあんたか」という思いと「どうしてあんたが」という思いの不可思議な感覚で見つめていた。
 そこに立つのは射手座のアイオロスだった。サガと共に教皇補佐の地位におり、いずれどちらかが教皇の座に就くのだろうと言われてきた男。
 聖衣箱を背負い、腕には柔らかい生地にくるまれた赤ん坊を抱いていた。
「デスマスク…。そこを通してくれるか」
 そうアイオロスが言う。
 なぜわざわざそんなことを聞くのだろうか。勝手に通ればいいだろうに。
 そんな疑問は、教皇の間の扉が開き飛び出してきた衛兵たちの言葉で掻き消える。

「デスマスク様! 謀反でございます! アイオロスの謀反でございます! アテナの殺害を企てた謀反をアイオロスが!」

 そう叫ぶ衛兵。

 謀反?
 アテナの殺害?

 こんな状況下でも大事に抱かれている赤ん坊。赤ん坊でも圧倒的な小宇宙を感じる。

 これがアテナか?
 赤ん坊の姿で光臨したってのは本当なんだな。

 そんなことをぼんやり考えていれば、衛兵たちがアイオロスを取り囲もうとし始めていた。
 聖衣も纏わず、戦う意志も見せないアイオロス。
 教皇の間へ向かう為だけにデスマスクは黄金聖衣を装着してきているのに。

「なんで、戦わない? 聖衣を纏わないんだ!?」
「戦う理由が見当たらないよ」
 そう困ったように笑う男。

 サガと何があった?

 状況はそんなことも聞く暇も与えてくれなさそうだった。

「教皇様のご命令です。アイオロスの討伐を!」

 教皇、だと?
 誰が、教皇だと?

「デスマスク様!」

 衛兵の声にデスマスクは右腕を振り上げた。

「デスマスク。私は…」
 アイオロスが何か言い掛けたが、最後まで聞くことなくアイオロスに向かって力を放った。
 見た目は派手な爆風を起こして。攻撃したかのように見える力で。
 衛兵たちが衝撃に巻き込まれまいと逃げるのを横目に見ながら、デスマスクは最大の力でテレキネシスの力を放っていた。
 出来るだけ外へ吹き飛ばせればいいと願いながら。
 結界の張られた聖域の外には出られないだろうが、一番外側にある闘技場まで飛ばせていたらいいが。

 赤ん坊は力の限りに泣いていた。小宇宙が泣いていた。助けてと。二人を助けて、と。
 自分の身ではなく、サガとアイオロスを助けてと泣き叫んでいた無力な赤子のアテナ。

 あまりにも無力だと思った。

 それでも、二人を助けてと、力の限りに泣き叫んでいた。

 慈愛に満ちた神、なのだろう。しかし、それのなんと無力なことか。

 ひどい虚しさに襲われそうになりながら、デスマスクは顔を上げた。

 シオンの死。そして、赤子のアテナを抱えたアイオロス。アテナの殺害とは、一体どういうことなのか。
 デスマスクはサガに会うべく教皇の間へと駆け登った。
 教皇の間の入り口で、シュラとすれ違う。聖衣を纏ったシュラと入れ違いになる。
「シュラ!?」
 デスマスクの声も聞こえない様子でシュラは階下へと向かっていた。

 なんだ? なんだよこれ?

 急いで教皇の間へと入る。衛兵の一人も姿が見えない。全員を出動せたのか?
 守備に一人も残さずに?
 広い部屋に入り、全体を見渡す。誰かが蹲っているのを見つける。
 長い青色がかった銀髪を掻き毟るようにして呻いている男。教皇の法衣を纏った男がいた。

 誰だ?

 デスマスクは足が竦むのを自覚する。

 誰だ、これは。

 男が顔を上げる。デスマスクの気配に気付いたのか鋭い眼差しを向けてくる。

 誰だ、これは。

 サガだと分かっていた。しかし、サガだとは認めたくない己の感情にデスマスクは困惑する。

「デスマスク…私から、離れ、」
 苦しそうに呟くサガの声が低い攻撃的な声音に変わる。
「私の顔を見たか。許さぬ」
「な…!?」
 力の差など有りすぎるほどだった。アイオロスを凌ぐのではと、最強だと謳われているサガの力。
 一瞬で壁に叩き付けられる。
 息が詰まる。背骨が折れたかと思うほどの衝撃を食らう。
「サガ…」
「その名を今の私に呼ぶな。我はこれよりこの聖域の教皇ぞ」
 近付き、床に転がるデスマスクの首を掴み持ち上げるサガと思わしき男。
「う、ぐぅ」
 片手で首を締め付けられる。
 本気で殺す気なのだと分かった。
 どうして、などと聞く気もなかった。シオンがすでに逝っているのだ。
 ただ、サガが己に殺意を向けてくることが悲しかった。

 呼吸が出来ない苦しさの中、デスマスクはそれでも渾身の力を至近距離からサガへ撃ち込んだ。
 さすがにこの至近距離だとそれなりに威力はあったらしい。サガの腕がデスマスクから離れた。再び床に転がり落ちる。
「サガ…、サガ」
「教皇以外の名で呼ぶな」
 そう忌々しそうに吐き捨て、再びデスマスクへと腕が伸ばされる。その腕が止まる。震え、必死にデスマスクへ伸ばそうとする腕を押さえ込むサガの姿があった。
「デスマスク、私から離れろ…。私から、逃げろ…デスマスク」
 殺意の籠もった声が儚く掠れた声へ変わる。
「サガ…!」
 自分のよく知るサガの声、顔。
 デスマスクはサガの腕に縋り付く。サガに聞きたいこと、伝えたいことが沢山あった。
「デスマスク! 私から早く離れろ!」
「嫌だ! あんたを独りにさせないからな! あんた、独りになって何する気でいる!?」
 自分から離れろ、逃げろと訴えるサガに、デスマスクは悲しい予感しかしなかった。
 サガの優しすぎる気性を考えれば、予測など容易いことに思えた。
「デスマスク…!」
 サガの声に悲痛な色が含まれる。

 髪を掻き毟り、呻き蹲るサガの姿。

「デスマスク! 何が起こっているんだ!?」

 我慢出来ずに上ってきたらしいアフロディーテの声が、広い教皇の間に響き渡った。
 蹲るサガを見つめ、アフロディーテは一瞬恐怖に足を竦める。
 サガが討たれたと見えたのだろう。
 しかし、次の瞬間には、アフロディーテの体が入り口脇の壁に叩きつけられていた。先ほどのデスマスクと同じように。
「…!?」
 驚愕に見開かれるアフロディーテの目。
「サガ…!」
「私の顔を、名を知るものは、生かしてはおけぬ」
「サガ…? なん…で?」
 地面に滑り落ち、サガの攻撃を受けたのだと気づいたアフロディーテが、理解出来ないというように呆然と呟いていた。
「デスマスク…アフロディーテ…。早く、私から、離れ…ろ」
 必死に何かを押さえ込もうとするサガの声がか細く震える。
「サガ! 何があったのですか、サガ!」
 アフロディーテもまたデスマスクと同様にサガの元へ駆け寄る選択を取っていた。
「よせ、私に触れるな…。お願いだ、二人とも、逃げてくれ」
「嫌です!」
「嫌だって言ってんだろ!」
 二人の拒否の言葉に、サガは一瞬悲しげな笑みを澪した。


 長いのか短いのか分からない沈黙が続いたと思えば、外が少し騒がしくなる。
「申し上げます!」
 入り口で衛兵と思わしき者が跪き声を張り上げる。
「アイオロスの討伐に、山羊座のシュラ様が着任。現在、聖域の近くにて戦闘に入ったとのこと」
 一瞬で、教皇の間の空気が冷えたように感じた。
 サガの纏う空気が淀んだものへと変わっていく。
 アフロディーテが「アイオロス? 討伐? 何で、シュラが?」と譫言のように呟いていた。
「下がれ。しばし、この教皇の間に人払いをせよ」
「は、」
 衛兵を下がらせる、教皇然としたサガの声。

 デスマスクは必死にシュラの小宇宙を追った。

―― シュラ、よせ。止めろ。お前が手を出すな。止めろ!

 必死に念じるがシュラへは届かない。

 誰よりもアイオロスに羨望の眼差しを向けていたシュラ。誰よりもアイオロスを慕っていたシュラ。
 そのアイオロスがアテナの殺害を企てたと、そう聞かされただろうシュラの悲しみを失望を思う。

 静かに、サガを振り返る。そこには、先ほどの憂いに満ちた優しいサガはいなかった。
 どす黒く笑うサガがそこにはいた。
 デスマスクはサガに詰め寄る。
「何で! 何で、シュラに行かせた!?」
「何でとな? アイオロスを仕留めるのに、あれほどの適任はいまい」
 楽しそうに顔を歪めて笑うサガ。
 悲しいのか悔しいのか、怒りに満ちているのか、もうデスマスクにも判断が付かない。
「…サガを、返せよ。サガを出せ! お前に用は無い!」
 法衣を着たサガの襟元を握り、デスマスクは叫ぶ。
「サガは私だ」
「ふざけるな! サガを返せよ!」
「私はサガで、これからの聖域の教皇となる者」
 サガの手が、デスマスクの右胸へと当てられる。
 ああ、今度こそ殺されるか? 乾いた感情がデスマスクを襲う。
「サガ! 止めてください! どうされたのですか!?」
 アフロディーテがサガの腕に飛びつき、止めようと足掻く。
「気安く私に触れるな! く、っそおおお。忌々しい。貴様は出てくるな邪魔をするな!」
「デス…マスク、アフロディーテ。早く私から離れて、くれ」
 声がまただぶって聞こえる。高慢な声と悲痛な叫びを上げる声。

 アフロディーテに引きずられ、デスマスクはサガから距離を取らされる。

「サガ。あんた、まだそこにいるんだな」
 デスマスクの呟きに、アフロディーテが何かに気づいたように悲しみの感情を瞳に乗せるのが分かった。

 唐突に、小宇宙が爆発を起こす感覚を味わう。
 弾かれたように、デスマスクが空中を振り仰ぐ。何もないそこに何かを見つめて。
 釣られるようにアフロディーテも空を見つめた。
 サガが面白いというように歪んだ笑みを浮かべていた。

「シュラ、止めろ。止めるんだ、シュラ!」

―― どうして、裏切った? 信じていたのに。信頼していたのに。
―― アイオロス。あんたを、俺は…!

「シュラ! 止めてくれ! お前が手を出さないでくれ!」
 やるなら俺がやるから!

 そう叫んでも、友には届かない。悲しみと怒りと失望に取り込まれた友には届きはしなかった。

「何で、シュラなんだよ…。何で…」
 デスマスクの膝が折れる。地面に座り込む。
 俺があの時、アイオロスを逃がさずに殺しておけば、シュラが行かずに済んだのか?
 俺が、アイオロスを逃がすような真似をしなければ、シュラが手を下すことも無かったのか?
 俺が――。俺の、せいで――。


 シュラの慟哭が聞こえた気がした。


 真っ直ぐに輝いていた一条の閃光が、闇へと墜ちる。






「サガ! 何を…!」
 アフロディーテの叫びにデスマスクは視線を向ける。そして、驚きと怒りに己の感情が支配されるのを感じた。
「ふざけんな!」
 テレキネシスの力をサガへとぶつける。
 サガの体に傷一つ負わせることも不可能だったが、その手に握られた黄金の短剣だけは弾き飛ばせていた。
 呆然と短剣を弾かれた右手を見つめ、立ち尽くすサガの姿。
「シオン様、アイオロス…。全て、私がこの手で壊した…」
 俯き、悲しみに暮れた声で呟くサガの声。
「カノンが…。カノンの小宇宙が、消えたんだ。カノンまで、私はこの手で…。もう、私には何も無い」
 掛ける言葉が見つからないまま、アフロディーテはただじっとサガを見つめていた。
 デスマスクは、どうしようもなく腹が立っていた。
 腹が立って仕方がなかった。
 胸ぐらを掴まん勢いで、サガに詰め寄っていた。
「ふざけんなよ…。簡単に死ねると思ってんのかよ! あんたの勅命を信じて動いたシュラはどうなる!? 聖域は、教皇を失ったんだ! こんな状態で、放り出す気かよ!?」

 デスマスクの言葉に、聖域は教皇を失ったという言葉にだろう、アフロディーテは信じたくなかったというように緩く首を振った。
 サガの葛藤、苦悩を推し量ろうとして出来ずに、その瞳から涙を澪す。

 ぼんやりとサガの視線がそんなアフロディーテを捕らえた。

「ディーテ。なぜ、お前が泣く」

「あなたが、大切だから」

「私が?」

「あなたが、こんなにも苦しんでいたのに、今の今まで気づけなかった自分が、私は悔しい…」

 一粒一粒と涙が頬を伝っては落ちていく。

 サガは静かに、目を閉じた。

 時間にして数分もなかっただろう。
 サガの胸ぐらを掴んだまま動きを止めていたデスマスクの耳に、低く笑う声が届く。あの声だと気づく。デスマスクを、アフロディーテを殺めようとしたあのどす黒い小宇宙を纏ったサガの声だと。
「ふふふふふ…、ふははははははは! よくぞ言ってくれたな小僧。ようやくあれも静かになったわ。抵抗を諦めたか」
 デスマスクを優雅な仕草で押し退け、顔を片手で覆いながら笑い続けるもう一つのサガ。

「そうだ、この聖域は教皇を失った。アイオロスもいない。なれば、私がこの聖域を纏めてみせてやろう!! サガよ! これがお前が望んだことだ!」

 歪んだ笑みを浮かべたサガは、虚空を睨むようにしてそう叫ぶ。

 アフロディーテは悲哀に満ちた目でサガを見つめ、再び涙を澪していた。

「違う…。俺は…」
 デスマスクは目の前が闇に閉ざされるのを感じた。

 あああ、俺はまた間違えたのか。また、俺は間違えたというのか。

―― サガ、シュラ。

 きつく目を瞑る。意識が闇に飲み込まれる。


 最後の引き金を引いたのは、果たして誰だったというのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

12.8.26
------------------------------
星矢の「正義」の中で一人だけ違和感ありまくりな蟹。もうお前ハーデス軍に入れよ、何でアテナ軍にいるんだよと言いたくなるくらいに違和感しかない蟹。

違和感ありすぎて黄金聖闘士って何だ!? 黄金聖衣って何だ!?とモヤモヤしてくるレベル。

その蟹の違和感をどうしたら拭えるのか、もういっそおかしいくらいに擁護して正当化みたいぜ!な発想から出来た話で。

 

その2へ