黄昏にまみえる・4

 

 

 

 

 

 血は止まり命も繋ぎ留めたが、すぐさま動けるようなものでは到底なかった。
 デスマスクは、しばらくベッド上での生活を我慢するしかないようだと、半ば諦めの溜め息を吐いた。
 サガの不安定さが酷くなっていないといいが。それが今の気懸かりだった。
 あの日を最後にサガとは会えていない、とはアフロディーテの言葉だ。もちろん、教皇の黒いサガには会えている。
 サガはこのことをまた気に病んでいるのだろうか。気に病むなと言ったところで、いちいち気に病むのがサガで、そんな男だから自分たちは彼の側を離れられないと思ったわけだが。


「あー暇だ。パスタ食いてぇ。綺麗なお姉さんと遊びてぇ」
「それだけ無駄口を叩けるようになったなら、大丈夫だな」
 ベッド上から起き上がるのも大変そうな状況のデスマスクの額をぺしりと叩きつつも、アフロディーテは僅かに口元を綻ばせる。
「パスター! パスタ食わせろよ!」
「少しでも元気が戻ったと思えば、途端に騒がしくなるな、君は…」
 ふぅ…とこれ見よがしにアフロディーテは盛大な溜め息を吐いてやる。
「私が作ってやろうか、と言いたいところだが、君の味覚には合わないんだったね」
 過去に文句を言ったことを覚えているようで、デスマスクは子供のように唇を尖らせる。
「だって、お前にパスタ茹でさせたらでろんでろんになるまで茹でるじゃねぇかよぉ」
「あのくらいが美味しいじゃないか」
「パスタは適度に硬めが良いんだよ。何で北の連中はやわやわに茹でたがるんだよ」
「本当に食べ物が絡むと口うるさくなるな。くそ不味いわけでもなし、普通に食べれる味であれば問題ないだろ」
「食べるからには最高なもんがいいに決まってんじゃねぇかよ」
 これが穏やかな気候に豊富な食材に恵まれた地中海沿岸の国と、寒さ故に採れる作物も限られていた北ヨーロッパの国との違いか。
 などと埒もないことを考えながら、デスマスクは視線の先にある天井を眺め遣るだけである。
 首を動かすのもなかなかしんどい現在だ。

 これだけ喚ければ傷が癒え体力が戻るの待つだけだな、とアフロディーテは踵を返した。

「あ? なに? 飢えた俺を置いていくのかよ?」
「本当にうるさいな君は。ご所望のパスタをシュラに作らせようかと思ってね、呼びに行くだけだよ」
「なんでシュラ?」
「同じラテン系っぽいから、料理方法も似てるんじゃないのか?」
 どんな基準だよ、それ。
「っつうかさ、シュラは調理とか出来たっけ?」
「知らない。でも、茹でるくらいは出来るだろ? 味付けは私がするんだから」
「へぇ、作ってくれんだ」
 思わずにやにやとした笑みを浮かべる。
 それが伝わったのだろう、アフロディーテはツカツカとベッド脇まで戻ってきて、もう一度デスマスクの額をぺしんと叩いてやった。
「ずっとパスタパスタ喚かれるもの迷惑だ」
 そう言うと今度こそ部屋を出ていった。


 キッチンスペースの方からは、アフロディーテにぎゃいぎゃい言われながらシュラがパスタを茹でさせられているのが聞こえてくる。
 アフロディーテのご指導はなかなかにスパルタのようだ。
 とりあえず、パスタがでろんでろんになるまで茹でないくれたら、もうそれだけでいい。などとデスマスクは思う。
 アフロディーテの料理の腕が悪いとかいうわけではなく、これはもう生まれ育った地域での味覚というやつだろう。麺の堅さの好みが根本的に違うというだけだ。そう、それだけのはずなのだが、あれほどまで味というのは変わるのだな、と初めて茹ですぎのパスタを口にした時に思ったものだ。
 食ってのは奥が深いぜ。
 非常にどうでもいいことを生真面目な顔をして考えていると、アフロディーテの呼ぶ声が聞こえる。
 もうすぐ出来るから、起きてろよ。そう大声で呼びかけていた。

 さすがに今回のデスマスクの惨状にはアフロディーテも肝を冷やしたようで、口では小言や嫌味を言いながらも何かと甲斐甲斐しく面倒を看てくれていた。
「なに? そんなに怖かった? もしかして寂しいとか思っ――」
 と茶化そうとしたら本気で黒薔薇を数十本単位で投げつけられたので、デスマスクは大人しく看病されていようと心に決めた。

「起きれるか?」
 上体を起こす動作に手間取っていると、シュラが手を貸してくれる。
 起こした上半身とベッドの間にクッションをいくつも入れて支えを作ってくれた。簡易な座椅子状態の出来上がりだ。
 そして、小さなテーブルも一緒に置かれ、そこにトマトソースを絡めたパスタを乗せた皿が並べられる。
 ベッド脇に椅子を引き寄せた二人も一緒に食べるつもりらしい。
「なに、この至れり尽くせりなこの感じ。俺様愛されてる?」
 にまにま笑いながら宣えば、手拭きにと用意された熱々の布巾をシュラが投げて付けてきた。
「うお!?」
 チャッチしようにも手が素早く動いてくれない為、顔面で熱々の布巾を受け止めてしまった。本当に熱い。
「優しくない…」
「なぜお前に優しくせねばならん」
「シュラ君ってばいけず」
「……斬っていいか?」
「良くないに決まってるだろ」
 デスマスクの手元に落ちたままになっていた手拭きを取り上げ、ついでにデスマスクの頭を軽くはたいたアフロディーテがシュラを制止させる。
「なに馬鹿なことをやってるんだ。まったく君たちは…」
 小言を言いながらも、アフロディーテの手は手拭きを使ってデスマスクの両の手を丁寧に拭いていく。
 それをシュラが目を眇めて見つめていた。アフロディーテの行動が心底理解しかねているのだろう。
 確かに、こういう世話を焼く真似をするのは常にデスマスクであって、アフロディーテはされる側であってもするということはまず無かった。

「何事だ?」
 というシュラの疑問も尤もだろう。

「何事って? ああ、これ? こいつが動けない以上、手伝ってやるのは当たり前だろ?」
 いや、当たり前だろ? と言われても…。という顔でシュラはデスマスクに視線を向けてきた。
「むしろ、お前の中のディーテ像に興味が沸いたわ。何も出来ないお姫様ってか?」
 茶化すように、デスマスクはそう言ってやる。
 シュラはますます考え込む素振りを見せた。
「ディー。何があった? お前、何を怯えてる?」
 言った瞬間、シュラの喉元に黒薔薇が突きつけられていた。反射でわずかに身を反らしシュラはそれを躱す。
「怯え…? 私が? 何に対して?」
「分からんから聞いている」
「ちょっとぉ、お二人さん。せっかくの飯が不味くなるからそれ後でやんない? シュラ、お前にも俺のこれ説明っすから、先に食わせろ」
 シュラはただ、デスマスクが命を落としかけたほどの怪我を負ったとしか、知らされていないはずだった。
 どこでどうして、など疑問ばかりが膨れあがり、シュラも苛々していたのだろう。聞こうにもアフロディーテは妙に神経質になっているしで、今日まで黙って見守っていただけなのだ。
 それを知っているからこそ、デスマスクは申し訳なくもあり、然りとて、何をどこから説明すべきなのか判断に苦しむのだ。

―― 何をどう話す? シュラをどこまで道連れにする?

 頭を掠めるのはいつまで経っても同じ問い。

「デス…」
 どうする気だ、と言いたげなアフロディーテの眼差し。
 シュラは「確かに腹が減ったな」とあっさり切り替えてくれていた。
 デスマスクが話すと言った以上、アフロディーテの怒りをこれ以上膨れ上がらないようにすることを選んだようだった。

「俺様まだ一人で食えねぇから食わせろよ」
 そう言って口を開けて見せれば、奇妙なものを見たというようにシュラが顔を顰める。
「はいはい。今だけのサービスだ」
 とアフロディーテは静かにデスマスクの分のパスタをフォークで絡め取ると、その口へと運んでやっていた。
 やはり、シュラは奇妙なものを見る目つきで見つめてくれていた。

 味は意外にも美味かった。パスタも好みの堅さに近かった。
 本当、なんだこの至れり尽くせり状態。
 デスマスクは一人自嘲気味に笑う。
「デス?」
 それに気付いたのかアフロディーテが問いかけてくるのを、デスマスクは「何でもない」と流した。
 これほどまでに、アフロディーテを激しく動揺させるほどに、自分の姿はとてつもなく酷い有様だったのだろうと、少しだけ心の内で詫びてみる。
 もう少し、行動には気を付けないとな。





 三人が遅めの昼食を取り終えた頃、意外な来客があった。
 水瓶座のカミュと蠍座のミロ、そして、獅子座のアイオリアだった。
 アフロディーテとシュラが後ろで「すまない」という顔をしている。
 面会謝絶を理由に追い払うつもりが、予想外にも粘り続け、強引に中へと突入してきた幼い黄金の三人を通してしまったことを詫びてるようだった。
 別にいいよ、という意味合いでデスマスクは肩を竦めてみせた。

「なんだぁ? ちびどもが揃ってどうした。よくこの巨蟹宮を通ってこれたな」
 とベッドの上からからかうように言ってやれば、ミロとアイオリアがすでに涙目になっているそれをさらに大きく見開いて大声を張り上げる。
「べ、別に怖くなんか、ねぇよ!!!」
「めっちゃびびってんじゃねぇかよ」
「怖くねぇったらぁ!」
 カミュはあの死仮面で覆われた通路も平気だったようで、一人だけ平然としていた。ミロとアイオリアは完全に竦み上がっている。
「いいねぇ、その反応。脅かし甲斐があるってもんだ」
 ふざけた口調で言ってやれば、カミュが静かな口調で問いかけてくる。
「あなたたちは、何を隠している? なぜ、そのように悪人ぶるのですか」
 さすが、知の聖闘士と呼ばれる水瓶座を継いだだけはあるか。
 僅かに唇の端が持ち上がる。笑いがこみ上げてくる。良い人材が揃ってきてるじゃねぇか。
 カミュを見遣りながら、デスマスクはわざとゆっくりと表情を消した。カミュもデスマスクの纏う空気の変化に気付き、一瞬びくりと肩を震わせる。
「お前たちは知らなくていいことだ」
「そ、そんなわけには行かない!」
 カミュの代わりに食って掛かってきたのは、ミロだった。
「デスマスク、死にそうだったって、聞いた…。なんでそんなことになってんだ? なんで俺たちにはいつも教えてくれないんだよ!?」
 真っ直ぐで激情家。そんなところか。
 可愛いね、まったく。

 暢気に目の前の幼い黄金たちを分析しながら、デスマスクはカミュの袖を小さく掴んだままじっとしているアイオリアに目を向けた。

 本当、兄貴によく似てる。違うのは髪の色くらいじゃないのか。
 アイオロスは濃いブラウンだったが、アイオリアは綺麗な金髪だ。
 成長すれば、もっとアイオロスに似てくるのだろうな。そんなことを思う。

 やっとの思いで獅子座を継いで、ようやく兄と同じ場所に立てたと思ったその直後に、兄を失うことになったアイオリア。

 どういうつもりで、アイオロスを斬ったシュラもいるここに来たのだろうか。

「お前、シュラが憎いか?」
 いきなり問いかけられ、アイオリアはびくりと体を竦ませた。その後ろでシュラもまた体を強ばらせている。
「え…? え、と…」
 ミロを見て、カミュに視線を向け、それから僅かに後ろを振り返り、シュラとアフロディーテを見遣る。
 小さくかたかたと手が震え、声が上擦っていた。
「わ、分からない…。兄さんが、謀反だなんて、嘘だと信じてる。でも、シュラは、…教皇様の命令に従っただけだって、聞いた。か、悲しいし、悔しい…けど。その、憎いとか、そういうの、俺にはまだ…分からない。どうしたら、いいのか、よく分からない。…分かんないんだ」
 俯き、目にいっぱいの涙を溜ながらアイオリアは必死に言葉を紡ぐ。
「おれ、シュラを憎まないと、いけないのかな?」

 本当、どこまでもそっくりな兄弟だ。

 負の感情とはとことん無縁な思考回路。
 真っ直ぐに太陽の光だけを見据える精神。

 本当に、どこまで良い子に育ってんだか。
 自分とは大違いだよ。

―― このままで、歪むことなく、そのままで有り続けてくれれば。

 そんな感情はただのエゴに過ぎないか。

 真実を、アイオロスは冤罪なのだと教えてやることも出来ないのに、そんな都合のいいことをだけを願うとは。ほとほと俺も甘ったれだよな。
 これだから、いつまで経っても詰めが甘いだなんだと言われ続けるのだ。

「お前の好きにしてろ。お前の感情はお前だけのもんだろ。周りがどう言おうが、お前のしたいようにしてろ」
 アイオリアの目がゆっくりと大きく見開かれる。驚きと戸惑いといったところか。
「……いいの?」
「お前の好きにすればいいって言ってんだよ」
「………うん。おれ、やっぱりシュラ、嫌いになるの、ヤだな。や…だなぁ…。そういうの、おれ、寂しいんだ…もん…」
 憎しみと怒りはまた違う。怒りと悲しみもまた違うものだ。きっとそれに気付いているのだろう。
 溜まりに溜まった涙が頬を伝い落ちていく。
 ずっと一人きりで、一人残されて、何をどうしていいのか分からないまま、小さな体を丸めて、沸き上がる悲しみや怒りをやり過ごしてきたのだろう。
 黄金とはいえ、まだ幼いからと見下してくる輩をシュラが追い払う様を何度か見かけたものだ。
 その度にアイオリアは不思議そうにシュラを見上げていた。当然、シュラは何も言わずに立ち去っていく。
 アイオリアを逆賊の弟と蔑むものはアイオリアを聖域から追い出しにかかり、アイオリアに同情を向けるものは、なぜシュラを憎まないのか復讐しようと思わないのかと疑問を投げかけてくる。
 デスマスクやアフロディーテは同情も何もせず、ただ、聖域のあり方としてふざけた言動のものを断罪していくだけだった。
 アイオロスの真実を知っているものとして、決してアイオリアに同情などという感情を向けることは自分には許されないことだった。それだけだった。
 アイオリアにはますます何が正しく何が間違いなのか分からなくなっていたことだろう。
 自分の感情が間違えているのか、自分の思いが間違いなのか。
 ずっと考え続けたに違いない。

「お前はお前の心に従ってろ。周りの雑音なんざ遮断してろ」
 自分たちがそうしたように。
 自分で決めることだ。進むべき道筋は、自分の意志で決めるしかない。後悔や恨みなど残さぬためにも。
「―――…」
 後方では、シュラが先ほどとは別の意味で硬直しているのが分かる。
 アイオリアの辿々しくも必死な言葉に、どうしていいのか狼狽えてしてしまっているようだった。
 シュラから影を払うことなど、もう決して無理だとは分かっていたが、それでもこれ以上その影が深くならないことだけを願う日々。

 本当に業の深いことだ。
 どれだけの人間の人生を巻き込み、犠牲にして進もうというのか。
 それでも、もうこの道以外に進むことは出来ない。
 サガと共に行くことを選んだ。自分たちのやり方でこの聖域を守ると決めたのだ。
 もう、悩むことも躊躇うことも止めた。
 悩み、躊躇えば、それだけ余計な犠牲を生む。そして無駄にサガを苦しめるだけになる。彼の望む結末へと向けて突き進むしかない。望む結末へと辿り付けるように走り続けるしかないのだと、命を取り留め意識を取り戻したあの時、ようやく覚悟が固まった。

「まだ、わたしの質問には答えてもらっていない」
 カミュが静かな声で問いかけてくる。
「あなたたちは、何を隠しているのです?」
「言ったろ。お前らは知らなくていい」
「なぜ?」
「知らないままでいるべきだからだ」
 納得いかないという顔をしているカミュを眺め遣り、デスマスクは内心で嘆息する。

―― どうか、知ろうとするな。こちら側へ入ってくるな。お前たちはそのままでいるべきなんだ。お前たちにはそれが必要だ。

 都合の良いことだと分かっていながら、ただ願い続ける。

「どうして、教えられない? わたしたちが知れば不都合になることがあるというのか?」

―― お前たちが知れば、サガを討たなきゃならねぇじゃねぇかよ。そして、そうなる前に、俺は、俺とディーテはお前たちを殺しにかかるしかない。

 自嘲じみた笑いを浮かべる。

 サガの、俺たちの望みは、今となってはただ聖域を守ることだけだった。
 現状がどうあれ、聖域を守り抜くことだけが今の望み。
 それに不要なものは、悪と罵られようが消していく。

「知るべき時が来たら、知ることが出来るのですね?」
 カミュの言葉にミロが驚いたように振り返る。
 これ以上は聞かないでいる、カミュの発言はそういう意味だった。
「なんで!? なんで、いつも教えてくれないんだよ!? おれらだって同じ黄金なのに!」
「知らなくていいことも、この世にはあんだよ」
 食ってかかるミロの肩を押さえ、カミュはじっとデスマスクを見つめて来る。
 心を読まれそうな眼差しだ。
 けれど、視線は逸らせない。逸らせばこちらに踏み込んでくるのが分かるから、決して逸らすことは許されない。
「分かった。わたしたちはわたしたちのやり方で聖域を生きていく」
 どこまで気付いているのか、この水瓶座は。

 ぞくりと背筋が震えるのを、デスマスクは意識せずにはいられなかった。









 幼い黄金の三人が巨蟹宮を去った後、しばらく沈黙が続いた。
 デスマスクはベッドの上で何するでもなく辺りを見回す。
 アフロディーテとシュラは、先ほどと変わらず、寝室とリビングの境目に立ち尽くしたままだった。
 シュラがその沈黙を破る。
「俺には話せるのだろう?」
 ゆっくりとベッド脇まで歩み寄り、再び椅子に腰を掛ける。それに僅かに遅れてアフロディーテが続いた。
「話せるっつうかな、俺たちも誰かに教えてもらったわけじゃない。たまたまそこにいた。それで自分なりに考えて、解釈して動いた。それだけなんだよ」
「……だから?」
「お前も自分で調べるなり考えるなりして、決めてくれ」
「なに?」
 シュラの眼光が鋭さを増し、アフロディーテは無表情のままに見守っていた。
「俺に言えるのは、…今の教皇はシオンじゃない。双子座のサガだ。それだけだな。後は、お前が判断してくれ」
 アフロディーテは何も言えない自分が悔しいのか、唇を噛みしめ顔を俯けた。
 シュラは目を見開き、動きが固まってしまっていた。
「…あの教皇が、シオン様じゃないのは、薄々気が付いてはいた…。なぜ、シオン様じゃないのか、気になったが、何も分からず。しかし、それが、サガ…だというのか? あの、サガ…だと?」
「どうしてそうなったのか、それは今は言えねぇ。俺もただ推測から判断しているだけだ。その推測は当たってる自信あるけどな」
「俺に、どうしろと…」
「さあ? 俺たちはサガの側を離れる気はない。サガと共に行く。お前は、好きにしてくれ」
「なぜ、そこまでサガを庇う…」
「サガが大事だったから。それ以外にはないなぁ」
「お前もか、ディーテ?」
 シュラはゆっくりと隣に立つアフロディーテに視線を向けた。
 アフロディーテは静かに笑んだ。
「私もデスと同じだ。サガが誰よりも大切なんだ。サガを守るためなら、何でもするよ」
「…俺が、サガに真実を問いただすと言えば、どうする?」
「サガは答えねぇよ。それに確実に戦闘になるな。そして、俺たちはお前と闘うし、そのことに躊躇わないだろうな」
 デスマスクの答えに、シュラは苦悩の表情を浮かべる。
「なぜ、あのサガが真実を答えないと分かる?」
「サガが、サガだけじゃないから」
「…?」

 アフロディーテは静かにシュラの肩に手を置いた。
「サガに、会うかい?」
「その上で、お前はお前の判断をしてくれればいい。お前の道を選べよ」
 二人の言いようのない迫力に押され、シュラは頷くしかなかった。





 夜更けを待って、アフロディーテはシュラを教皇宮へと導いた。
 サガには小宇宙で伝えていた。この時のサガが、サガのままだと確認も取れていた。
 サガがいるのは久しぶりだ。アフロディーテは自然と表情が軟らかくなる。もちろん無意識なので、傍らのシュラは不思議そうに上機嫌になっているアフロディーテを見遣るだけだった。

 完全にアフロディーテたちは顔パス状態になっているらしく、衛兵たちが深々と頭を下げてくる。
「今日は私がいるから、君たちは下がりたまえ。人払いもするように」
「は、」
「………」
 見事なまでの教皇の側近のような物言いにシュラが唖然としていた。
 その反応にアフロディーテは苦笑を浮かべる。

 教皇の間を通り過ぎ、最奥の教皇の私室へと向かう。
 一度たりとも入ったことの無い場所に、シュラが落ち着かない様子を見せている。
「お前は随分と慣れているな。デスも同じなのか?」
「そうだね。この数年ずっと通ってるから、私たちは」
「数年…か」
 どの日が境なのか、シュラは考えようとするが、考えるまでもないように思えて思考を手放す。

「教皇様、魚座のアフロディーテです。入ります」
 そう言い、アフロディーテは静かに扉を開いた。
 初めて見る教皇の私室。  広さはとんでもなく広いが、内装は予想に外れて豪奢というわけでもなかった。
 派手過ぎず、然りとて、教皇としての威厳を損なわない程度には気品に溢れた調度品を揃えている。そんな印象だった。
 まず、目に入るのは、食事を取る為の美しい細工の施された大きなテーブルと六脚ほどの細工の綺麗な椅子。
 壁際には執務を執り行う為の小さめのテーブルが置かれている。
 端の方には来客の為のテーブルとソファ。
 必要なもののみ置いているといった感じだった。

 シュラは視線を奥へと向けた。 

 教皇の法衣を纏った長い蒼銀髪の男が、窓際に置いた椅子に腰掛けていた。

「サ…ガ…?」

 あの日、アイオロスと共に姿を消したと思っていたサガが、そこにいるのだ。

「シュラか。直接会うのは久しいな」
 あの頃と変わらない穏やかな笑み。静かな声。
「どうして、あなたが…」
「それには、答えようがない。悪いな」
 答えれば、もう一人の私が君を殺しに行くから。そんな心の声が聞こえてきそうで、アフロディーテは切なげに視線を伏せた。
「ディーテ。デスはどうしてる?」
 一番気になっている事柄なのだろう、サガの声が僅かに震えるのを感じ、アフロディーテは思わずクスリと笑った。
「元気ですよ。まだ激しく動けないけれど、私にパスタを作れと要求してくるくらいには元気です。むしろ、あなたが落ち込んでないか、そればかり気にしてましたから、これ以上落ち込むのは勘弁してくださいね」
 そう言い、アフロディーテはサガの傍らへと立つ。その癖の強い蒼銀の髪に手を差し込み、そっと撫で上げた。サガはゆるく目を細め、されるがままになっている。

 なんか、もの凄く自分は場違いな所にいる気がしてきて、シュラは落ち着かない気分に陥ってしまう。

 俺、お邪魔虫という状態になってないか?

「あの、ディー、」
 言い掛けると、それに被せるようにアフロディーテが言葉を紡ぐ。
「シュラ。君の答えを聞きたい」
「……」
「ここに留まるか、私と闘うか」
「そこまで、しなくては、いけないことなのか?」
 シュラは静かに手刀を放つ体制を取る。アフロディーテもその手に黒薔薇を出現させていた。
「そうだね。サガが止めようとも、私には譲れないことだ」
「そうか。ならば、サガを!」
 シュラはそう言うなり右手を振り下ろした。窓際のサガへと向けて。同時に、アフロディーテの手から幾本もの黒薔薇が放たれる。
 凄まじい波動が教皇の私室を掛け巡りかけ、即座に消えた。
「…!!」
「サガ…」
 立ち上がったサガが、二人の波動をその手に受け止め消し去っていた。
 二人の渾身の一撃だったはずなのに、なんの構えも見せないサガの僅かな動きによって、その衝撃は消し去られていた。
「さすがに強いな、あなたは。鈍ってないどころか、ますます冴えているようにすら感じる」
「私の力を試したかったのか?」
「ご無礼を。ただ、あなたと一度でいいから手合わせを願いたかった。もう、叶わないと思っていたもので、つい」
 シュラはサガの前で膝を折ってみせた。
「シュラ…?」
「お前たちと闘う気は今のところ無い。俺は俺の道を行くにしても、お前たちと道を分かつつもりも無い。それが、今、俺の出せる答えだ。不服なら、ここで斬れ」
「君は、分かって言っているのかい?」
「分からんから、言っているのだ。ただ、サガを守ろうとするお前たちを斬りたくはない。それだけだ」
「………」

 あの日、何が起きたのか朧気ながら推測が付く気はしたが、なぜこうなっているのかは分からないままだった。
 何が起きたのか。それに自分は何をしたのか。
 今はまだ、考えたくは無かった。
 シュラはきつく目を瞑る。真実よりも、友の手を選び取ったことを、アイオロスは嘆くだろうか。

「一つだけ、お聞かせ願えるだろうか?」
「なんだ?」
 顔を俯けたまま問うシュラに、サガは静かに答える。
「教皇となって、あなたは何をするつもりでいる?」
 あの暗殺命令の数々、あれもこのサガが命じたというのか。それだけが、どうにも釈然としない事柄だったのだ。
 サガは再び椅子へと腰を下ろし、穏やかな眼差しでシュラを見遣った。
「そうだな。どんなに言い訳に聞こえようとも、私なりにこの聖域を守りたいと思っている。神々の侵略から地上を守り、アテナの覚醒する時までは、この聖域を守り抜きたいと」
 シュラは深々と頭を下げる。
「それが聞けて十分です」
「シュラ…。君は…」
 アフロディーテは頭を下げたままのシュラの肩に手を置こうとした。その手の動きをサガの呻き声が止める。
 頭を押さえ、体を折り曲げ苦しげに喘ぐサガの姿に、シュラは何事だと立ち上がった。
「ディーテ! シュラを連れて、出てゆけ! すぐに出ろ!」
「サガ!」
「ディーテ! 離れろ、頼む…!」
「何だ、これは…!?」
「サガ!!」

「ディーテ! 早く…! ――…愚かなことよ。私の顔を見たものは生かして帰さぬと、――…黙れ! これ以上、好きにはさせぬわ!」

 二つの声が重なって聞こえる。

 シュラは愕然とサガを見つめている。

 アフロディーテはサガに縋り付くようにして、何度も名前を呼び続けた。それは、サガの意識を繋ぎ留めようとするかのようだった。

 凄まじい力で振り上げられたサガの手刀が、アフロディーテを掠める。僅かに体を捻り躱したが、それでも頬をざっくりと切られていた。しかし、アフロディーテは構わずにサガの体を抱き込んだ。
「ディーテ! 止めろ、離れ―――」
「サガ! 私はここにいる! サガ、お願いだ、私を見てくれ!」
「ディーテ!」
 腕の中に抱き込んだサガの体が僅かに静まる。それをサガの力が勝ったと判断した瞬間、アフロディーテは手にした赤い薔薇をその首筋に打ち込んでいた。
「ディー!?」
 驚愕の声を上げたのはシュラだった。
「お前、何をして!?」
「はぁ…。この薔薇が、サガに効くとは思って無かったけど…少しだけサガの力が強かったから、何とかなったかな…」
 まさかのアフロディーテによるサガへの攻撃に、シュラが一番驚いていた。
「何だというんだ、これは!?」
「これが、今のサガだよ。これを見た上で、君は決めるといい。どうするかをね」
 荒い呼吸を整えるようにしながら、アフロディーテはシュラへの最後通告をしたのだった。





 サガを寝室へと運び、アフロディーテはその側にずっと付いていた。シュラは立ち去ることをせずに、二人の姿を見つめ続ける。

「ディーテ…? すまんな。お前までを傷つけた」

 静かに目を開けたサガが、優しい動きでアフロディーテの頬を撫でる。毒が残っているのか、動きが緩慢だった。

「私は何ともない。それよりも、サガ、すまない。あなたに薔薇を打ち込んだ」
「構わんさ。お前に深手を負わせずに済んでよかった…」

 なんだこれは。
 シュラは目の前の不可思議な光景に頭を悩ます。
 あの一瞬に感じた禍々しい小宇宙は何だったというのか。そして、今目の前にいる優しく切なげな小宇宙を発するサガは。
 同じ人間なのか?

「サガよ。デスマスクにあの傷を負わせたのは、あなたなのか?」
 シュラは一歩近づき、そう問いかけた。アフロディーテがサガの前に立ちふさがり攻撃の体勢に入っている。
 そのアフロディーテの肩を押さえると、サガは上半身を起こした。
「ああ、そうだ。私だよ。言い訳を聞いてもらえるのなら、もう一人の私だ」

 これなのか。お前たちが必死に守ろうとしていたものは。
 デスマスクがどれほどに傷を負って帰ろうとも、何一つ訳を話さなかった理由も。
 すべて、このサガの為だというのか。
 アイオロスも―――。そこまで考え掛けて、シュラは再び思考を遮断する。この先はまだ考えたくはないのだ。今はまだ。

「お前たちは、俺にどうしろというんだ」
 後ずさり、壁に寄りかかると、シュラはそのままずるずると床に座り込む。手で顔を覆い呻くように呟いていた。
「君もまた最初の段階から関わっていた。だから、隠し通すのも、偽り続けるのも無理だと思っていた」
「……」
「君もこれで私やデスが今まで何をやっていたのか分かったろう? その上で君は君の判断をするといい」
 シュラはアフロディーテの言葉を聞きながらも、両の手で顔を覆ったまま、ただ呻いていた。
「そんな簡単に、結論など出せるものか…」
「しかし、悠長に構える事柄でもないんだ。私たちは誰が敵か常に見極めなければいけないのだから」
「敵? 教皇の正体を暴こうとするものたちのことか?」
 シュラは自分の声に凶暴さが混じるのを感じた。
「聖域の古い因習だよ。聖戦が無い長い間の平穏な時期を、官吏たちは好きに振る舞い腐敗した財政を作ってくれていた。アテナが覚醒されるまでまだまだ時間があるだろう。それまでに、腐りきった膿は出しておきたいだけだ」
 予想外な回答に、シュラは顔を上げる。
 アフロディーテたちがそんなことを考えているとは、思いもしなかったのだ。
 シュラは顔を上げ、そのまま壁に頭を押し当てる。

「せめて、夜明けまで時間をくれ。その後でなら、俺を討とうが好きにするがいいさ」

「……」

 アフロディーテは気遣かわしげにシュラを見つめながら、サガの元へと戻った。
 毒による麻痺のせいか、もう一人を力任せに押さえつけた疲労からか、サガはうとうとと微睡んでいた。
「サガ…」
 そっと顔に当たる髪を払ってやる。そのまま指を白い頬へと滑らせた。
「あなたのくれたこの名も、すべてが私にとっての生きる力だった」
 優しく額に口づけを落とす。
 どうせ、またまともに眠っていなかったのだろうから、と。この際ゆっくりと眠って欲しいと願いながら。

 そんな二人をシュラはただぼんやりと眺め続けていた。











「あ? お前一人? ディーはどうした?」
 明け方近く。シュラは巨蟹宮に戻ってきていた。一人で。
「ディーテは置いてきた」
「なんで?」
「いや、その…。あまりに、二人が…」
 と語尾が弱まっていくのを、デスマスクは遠慮なく笑い飛ばした。
「ぎゃはははは! お前、ピンク色の空気に耐えれなくて逃げ出したってか!」
「笑うな! ディーテのやつ、完全に俺がいることを忘れてるとしか思えないんだぞ! 自分から連れていっておきながら、俺を忘れ去るとかあんまりだろ!」
 よほど居たたまれない寂しい思いしたのか、シュラは必死に弁明していた。それを見て、デスマスクはさらに爆笑するのである。
「ぎゃはははは!! あれはなぁ。もう、マジですげぇから」
 何がどうすごいのか、聞きたい気もしたが聞く勇気は無かった。シュラは赤らむ頬を意識しながらも、笑い転げるデスマスクの動きを止めに掛かる。
 ベッドに乗り上げ、まだ動きの鈍い腕を掴み上げる。
「あ? なに? 俺様を殺す気になった?」

 なんでどいつもこいつも、簡単に死ぬことを口にするのか。

 苛つきながら、シュラはデスマスクの動きを封じていく。いや、元から動けない状態なのだから、封じる必要もないのだが。
「別に、殺しはせん」
「へぇ…。どうしたよ? 今まで騙されてたーって怒るのかと思ったが」
「騙されてたとは思わん。お前たちが、お前たちなりに考え気遣っての行動だとは分かっている」
「ふーん」
 デスマスクは上から押さえつけられた体勢だというのに、随分と余裕のある態度を取っている。いつもの人を食ったような笑みを浮かべて。
「ディーテが、サガに向かって、サガからもらったこの名もすべてが、とか言っていたんだ。あれはどういう意味なのか、お前は分かるか? まさか、サガが名付け親だとでもいうのか?」
「は?」
「…え?」
 あまりのデスマスクの間抜けた反応にシュラは何かおかしなことを言っただろうか、と焦る。
「お前、この状況で質問する内容がそれ?」
「え? おかしいか? 気になって仕方がなかったのだが…」
 デスマスクは必死に真顔を保とうとした。本人は至って真面目なのだ。笑う所ではない。
 頑張ってみたが、まあ、結局は無理だった。
 我慢していただけに、盛大に吹き出してしまう。
「ぶっ、ぐはははは!! ちょ、なんだ、それ! この先どうするかよりも、ディーテの名前のが重要なのかよ!?」
「そ、そんなに笑うことか!? だって、ディーテはサガに名前をもらったと…!」
 本人は真剣だ。真剣に気になって仕方がないのだ。
 とりあえず、この話題が本気で最優先すべきなんだと理解するデスマスクだった。
「お前、マジでアフロディーテって名前が本名だと思ってたの? あれ、ギリシャ神話の美を司る女神の名前だぞ。しかも、ディーは北欧の生まれだ。どこに、異国の女神の名前を男に付ける親がいると思うんだ」
「………」
 今まで考えたこともなかった、とシュラの顔が物語っていた。
 それを見上げながらデスマスクはまた遠慮なく笑うのだ。
「そういや、お前が聖域入りする前か、あれは」
「…詳しく聞かせろ」
 相変わらず、デスマスクの上に伸し上がったままの体勢でシュラはそう言い放つ。
「それには、俺様の淡い初恋も話さねぇとならねぇなぁ」
 と勿体ぶった言い方をしながらデスマスクは語り始めた。


 それは、デスマスクが聖域入りをし、正式に蟹座の候補として修行を始めた頃のことだという。
 その頃の聖域での黄金はというと、正規の黄金は射手座のアイオロスと双子座のサガのみで、後は獅子座の候補としてアイオリアが、牡羊座の候補としてムウがいるだけだった。
 そして、デスマスクに続いて聖域入りをし、初めから魚座の候補と確定していたアフロディーテが来たのだ。

 まだ幼さの残る愛らしい顔立ちに、デスマスクはときめいた。

「は? ときめいた…!? ちょ、お前。まさか、初恋がディーテとか言うなよ!?」
「そのまさかだぜ。お前もその後すぐに聖域入りしてんだから、あいつのあの頃の可愛さは知ってるだろうが」
「知ってはいるが、しかし、仮面をしていないのだから、男だと…分かる…、ぶはははは!!!」
 遠慮なく笑い出すシュラを蹴落としながら、デスマスクは続ける。
「俺の初恋は、僅か一時間で終わったな」
 その言葉に、ベッドから落とされたシュラが尚一層笑い続けていた。


 その当時、デスマスクと同じ勘違いをしてしまった男がもう一人いた。
 そして、天然にもほどがあると、アイオロスに馬鹿笑いされることになるのだ。


「魚座か。君の名は?」
「名前? そんなもの、いらない」
「え? どうして? 今まで呼ばれていた名があるだろう?」
「そんなもの、ない」
「……周りのものたちは、何て君のことを呼んでいたんだい?」
 ふて腐れたように、そっぽを向き続ける魚座候補に向かって、サガは根気強く向き合った。
「おい、とか、お前、とか…」
「……うーん。困った大人たちもいたものだね。しかし、魚座と呼ぶのも何だし、何か、思い当たる名は…?」
「名前なんかなくても生きていける」
「しかし、それでは寂しいだろ。せっかく、君という個がここに存在しているのだから。他と区別し、君を君として生かす名があってもいいじゃないのかな? こんな、可憐なアフロディーテのような容姿をしているのに」
「容姿なんか、くそにもならない」
「そうかい? ただの見てくれだけならそうかもしれないね。でも、君の放つ小宇宙は、本当に美しい色をしているよ。小宇宙っていうのは、内なるものだ。君の本質が美しいからこそ、小宇宙も美しく放つんだ」
「見てくれが良いせいで、化け物だと言われた。魔は人を惑わすために美しい姿をしているんだって。私が毒薔薇を扱うのも、毒で花を枯らすのも、そのせいなんだって、あの女は、周りのやつらは、殴るんだ…」
「……」
 サガはそっと小さな魚座の候補を抱き締めた。
「悲しいな。美しいものを素直に美しいと認められない心は、悲しいものだよ」
「あいつらのこと、庇うのか?」
「君の美しさを受け入れられなかった者たちが哀れに思えただけだよ。君の美しさは魔の潜むものでは決してないよ。こんな可憐な魔がいるものか。こんなに傷つき悲しむことが出来る魔性なんかいはしないよ」
「……わたしは、おかしくないの、かな…?」
「君は美しいよ。姿も、その心も。君は純粋で、だから傷ついてこんなにも心が泣いている。君の美しさは、神に愛されたものだよ」

 つらつらとそんなことを語るサガを、幼いアフロディーテは唇を噛み締めるようにして見上げていた。

 しばらく、じっと動かなかった。そして、おもむろにサガの袖を掴んだと思えば、今までにない落ち着いた声で問いかけてきたのだ。

「ねぇ、アフロディーテって何?」
「ん? 魚座の神話に出てくる美の女神の名前だよ。アフロディーテと息子のエロースを象ったものが、天に浮かぶ魚座なんだ」
「あんたは、好きなの?」
「え? ああ、まあね。優しく美しい女神とされてるからね」
「じゃあ、それがいい。アフロディーテ」
「んん? もしかして、気に入った?」
 そうアフロディーテの顔を覗き込むようにして問えば、小さくコクンと頷くのが見えたのだ。嬉しそうに頬を赤らめて。

 サガはこの時、神の名を名乗るのはどうなんだろうか、と微かに考えたらしい。しかし、世間では、軍神のアレースや昴の女神のマイアという名前も存在していることに思い当たり、まあ、問題ないのかと思ったという。

 それから程なくして、アイオロスから「あの子、男子だと思うんだが」という指摘を受けて、サガは慌てふためくのだ。
 デスマスク同様に、全く気付いていなかったのである。
 だからといって、その女神の息子のエロースを名乗るのもどうかと思われたし、それ以前に、アフロディーテ自身が、妙にこの名を気に入った様子で頑なにこれでいいと言い張ったのだ。これ以外の名前はいらないと言い続けたのである。

 アフロディーテは、この名がサガが好きだといった名前だったから、欲しかったのだ。初めて、己の存在を見つめ、肯定し、受け入れてくれた。生きていることを認めてくれたサガ。そのサガが好きだと言った名前だったから。
 そして、それは、生まれて始めて自分から欲しいと願い手に入れたものだった。



 もう息も絶え絶えという様子でシュラは笑い転げてくれていた。
 まさか、友の名前の由来に、そんな愉快な天然のボケかと突っ込みを入れたくなる話が隠されていようとは。
「サガも、大概に、バカだな…!」
 死ぬ、笑い死ぬ、と椅子に凭れ掛かりながら、シュラは呼吸を整えようとするが、笑いが収まらず長いこと喘いでいた。
「笑いすぎだ、お前!」
 デスマスクはそんなシュラを足蹴にする。
「そこまで笑える話か?」
 とは言いながらも、デスマスクも口元が緩む。
 久しぶりにこんな馬鹿笑いをした気がした。
 途中から、話のネタなどどうでもよかったのかもしれない。ただ、何も考えずに馬鹿みたいに笑ってみたかっただけなのかもしれないなと思う。

 あまりにも、笑うことからかけ離れた状況が続き過ぎていたのだ。少しでも気を抜けば、簡単に気が触れそうになる環境にあり続けていたのだ。
 馬鹿みたいに笑いたくなる、そんな気分にもなるのだろう。

「あっはっはっはっは! 本当に、どいつもこいつも…馬鹿だな」

 言いながら、シュラは両の手に顔を埋めてしまう。
 散々笑い転げ、そして、いきなり黙り込むシュラ。

 デスマスクは何とも言えない表情で、それをただ見つめ遣っていた。














12.10.19
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この時点で、サガの乱から2年くらいしか経ってない。

デスと黒サガは常に殺るか殺られるかの緊張状態を保ってる感じがいい。完全に冷戦状態。

サガ側にいながらアテナへの忠誠心は一番とか言われてる山羊座はどうやって巻き込まれていったのか、シュラとリアの関係はどうなるのか、を考えてたらこんなことに。
山羊座はこの後、尚一層じわじわと黒サガによって心を壊されていくのか、自分から情緒を壊していくのか。どうしようか。(聞くなよ

ディーテとデスはサガにこんな感じの思い出を沢山もらってそう。他者から見れば他愛もないことだが、本人にはそんなことが生きていく為の力になってたり。
たったそれだけで生き続けていく理由になっていたりと。
意外に理由はくだらないことで、でも、本人にはそれが何にも代え難いことだったりすることもある、かなと。そんなこと考えていた。


あと、アフロディーテの愛称も本気出して調べました。ええもう、マジで調べました。読めない英語やドイツ語を必死に読みながら調べましたとも!!愛称を調べる外国語のサイトがあるのですよ。

アフロディーテ、略すなら「ロディ」「ディー」「ディーテ」な感じのようですな。 普通だったよね。苦労して調べる必要なかったよね。

さすがにギリシャ語の文字は読めないから英語とドイツ語でいったわ。

その5へ