憧れの対象

 

 

 

 

 

『勝つのは氷帝! 負けるの〜!』
『勝者は跡部! 敗者は〜!』
『氷帝!氷帝!氷帝!』

 えげつないとか有り得ないとか、余所で色々な事を言われようとも氷帝学園の応援は今日も熱を帯びていた。

「相変わらず凄いっスね…」
「これって、あの学校の伝統芸なんっスか?」

 後輩達が呆れた様子で感想を口にするのを青学テニス部の副部長は苦笑混じりに聞いていた。その隣で部長が眉を寄せ考え込んでいる。去年の大会の光景を思い出そうとしているのかもしれない。
 部長の思考を読んだように、青学一のデータマンと呼ばれる青年が黒縁の眼鏡を押し上げながら説明を請け負ってくれる。

「いや。去年の夏の大会まではこんな応援を見た記憶がないな」

 その言葉に後輩達が「うわー」と呻くような声を上げた。
 つまり、この派手な応援が現在の部長である跡部の代から始まった事という意味に取れるからだ。
 確かにこんな応援は跡部にしか出来ない芸当だろう。跡部だからこそ出来た事、と言うべきか。

 氷帝学園テニス部の二百名を越す部員達の上に君臨する帝王の異名を持つ男。
 一見しただけでは、派手で嫌味で傲慢で高飛車という印象しか受けないにも関わらず、実際に本人を目の当たりにすれば一瞬にして嫌なイメージが消え失せてしまうのは、ここにいる皆がすでに経験済みだった。

 皮肉めいた笑みや態度にも関わらず妙に人懐っこさを感じる仕草。傲慢な言葉使いは何故か人を不快にすることもなく、それどころか他者を魅了してやまない不思議なオーラを纏っているようにすら思えた。

 青学の部長の手塚とは真逆の性格の持ち主。しかし、部を纏め、周囲の羨望を集めるそのカリスマ性は非常に似ているかも知れない。

「さすがっスねぇ…」

 舞台が全国大会に移ろうとも変わらないその応援の仕方に、他校の者達は感心するやら呆れるやら、ただただ圧倒されるやらであった。

 

 

 

「しっかし、ほんまえげつない応援やわ。俺が対戦校やったらマジ腹立つで?」
「えー? そうかぁ? おもしれぇじゃん。普通、ここまで一体にならねぇよなぁ?」
「マジすっげぇよな! かっちょいいC!」
「そもそもこれ言い出したのはお前だろ、忍足」
「せやったか?」
「そうだよ」
「俺やのうて、跡部やろ。言い出しっぺは」
「俺様がそんな事を言うかよ。始めに『勝つのは氷帝』を言い出したのは宍戸だろうが」
「言ってねぇよ、俺は!」

 圧倒的な実力差でもって圧勝した全国大会の緒戦。
 この次を勝てば、念願の青学との試合だった。
 そんな高揚感の中で、氷帝テニス部のレギュラー達はこの氷帝名物とまで言われるようになってしまった派手な応援の発祥についてコート脇で論議を繰り広げ始めていた。

 たった今対戦し負けた相手校にとっては報われない態度である。

「同時期に跡部と忍足と宍戸が言ってたように記憶するけど…」
 去年の夏以降のテニスの大会の光景を思い浮かべつつ、滝がそう呟いた。
「最初は忍足だろうがっ」
「俺ちゃうねん。絶対、こんな事やりたがるんは跡部やんか」
「俺じゃねぇよ」

 やはり、絞り込まれるのはこの三人であるようだが、一番最初が誰であるのかははっきりとしなかった。
 そして、そのまま延々と誰が始めに言い出したのかを三人で押し付け合うことになる。

「何で、これを始めたんだっけ?」
 たった一年前の事であるはずなのに、遙か昔の事のように感じて向日が滝に尋ねた。
 滝はやんわりと微笑してみせる。
「僕達のテニスを守るため、だったのかな」
「えーと…?」
「同じ目標を持つのに、どうしても妬みや僻みで仲違いしちゃうでしょ? 僕らの代でまでそんなくだらないことをしたくなかったんだよ」
「あ…。そういや、そんなんだったよな…。跡部が部長になるまでは」

 跡部を中心として纏まってからは、驚くほどに悪感情から遠退いていた事を思い出す。
 あまりに皆の思いが一つになっていたせいで、ずっとこんな部だったと錯覚してしまいそうになったが、そうなったのは一年ほど前の事だ。
 それまでは、どうしてもレギュラーから零れた部員達の暗い感情が影で爆発していたものだ。
 三年が引退した直後に繰り上がりでレギュラーになった者はまだ良い。自分達の上にはもう誰もいないのだから、妬まれる事もない。問題は、一年生と二年生で実力でもってレギュラーの座に就いてしまった者だ。

 先輩を差し置いて、という嫉妬。
 実力主義と判っていながら、心の片隅では年齢序列に固執してしまう心理。
 監督の目を盗んで、目の前の目障りなライバルを排除する事は出来ないものかと暗躍する下等な精神。

 部員の数が多いだけに、そんな感情も生まれやすいのだろう。

 真っ先にその悪感情の対象となってしまったのが、宍戸と向日。当時の二人は、レギュラーではなく準レギュラーであったにも関わらず、そんな事態に遭遇するケースが多かったという。負けん気の強い性格というのもあっただろうが、準レギュラーと言っても、準レギュラーAクラスというほとんどレギュラーと等しい位置にいたせいでもあったようだ。
 忍足と滝もまたその対象になったこともあるらしいが、この二人の場合は、性格的に相手に強烈な精神的ダメージを与えるような知能プレイによってやり返すことができる分、まだマシだったようだ。

 ただ、跡部の場合は少々事情が異なる。一年生の段階ですでにその実力は不動のものとなっていた跡部に誰も刃向かう気力を持つ事は出来なかった。それが、跡部が二年に上がった年に変化が起きる。
 強い憧れは、同時に強い妬みをも生む。その妬みという名の感情は一学年下の跡部の最も信頼を寄せる後輩へと向けられてしまったのだ。
 跡部の知らないところで、樺地は跡部への嫉妬と突出した樺地本人の才能への嫉妬による言葉の暴力、力による暴力を幾度も受ける羽目になっていた。
 やる側もそれなりに悪知恵が働くらしく、ばれにくいやり方を選ぶ。同じ殴るなら、顔など目立つ場所は決して狙わない。服の上からでは見つかりにくい場所を選ぶのだ。

 元々、体だけは頑丈だから平気だと、跡部に迷惑は掛けたくなかったと、樺地はただじっとその先輩や同学年の部員達の攻撃に耐えていた。
 それで、跡部が守れるなら、と。

 しかし、その樺地の変化に芥川が気付いてしまった。
 いつも眠そうに、というか、ほとんど寝て過ごしているようなこの少年は、意外と物事を目聡く観察していたらしい。

 絡まれる樺地の後を付け、その現場に乱入した芥川は、日頃の眠ってばかりの姿からは予想も付かない暴れ方をした。
 相手は三年生が二人に、二年生が三人だったらしい。その合計五人を相手に芥川は手加減無しに暴れた。樺地が止めなければ、何人かが芥川によって病院送りにされていたかもしれない。それほどに芥川の怒り方は凄まじいものがあった。

 芥川の怒りも凄まじかったが、その後に報告を受けた跡部の怒りはもっと凄まじいものだった。
 黙っていた樺地に対する怒りも、相談無しに勝手に動いた芥川に対する怒りも、そして、何よりも、己の実力も受け入れられず、努力する事も放棄したような人間達のくだらない行為に対する怒りが頂点を越えた。

 跡部が本気で怒りの感情を露わにしたのは、後にも先にもあれだけだったと、後に宍戸は言う。

 怒髪天を衝くっちゅうのは、まさにこんなんを言うんやろなぁ、などと妙に冷めた感覚で忍足は眺めていたらしい。

 とはいえ、やられたからやり返すでは何も解決しないと、周りの友人達は必死に跡部を押さえ付けたものだ。
 今回は、相手があっさりと非を認めたおかげで芥川も学園側から注意を受けるだけで終わったから良かったものの、状況によっては、被害者であったはずのこちら側が部を追われる事態にも発展しかねないのだ。
 レベルの低い人間に合わせて、自分達のレベルまで下げてしまうような真似をするのは愚かではないのか。
 そう言ったのは滝だったと記憶する。
 根本から解決をしない限り、こんな事は何度も繰り返す。それが、人の弱さというもの。全ての人間が崇高な精神を保ち続けられるとは限らないのだから。

 監督がどれだけ実力主義を掲げても、二百名を越える全ての部員に行き届かせるのは正直難しいだろう。
 監督のやり方がおかしいとは決して思わない。むしろ、監督の方針を推奨するからこそ、この学園のこの部に席を置いているのだ。
 ただ、幾人かの弱い感情を抱いてしまった部員によって、おかしな解釈をされてしまうことが腹立たしい事だった。おかしな解釈が水面下で最下層の弱い部員達に伝染していく様が苛立たしい事だった。

 跡部ほどとまではいかなくても、宍戸と肩を並べられるぐらいの実力を誇っていた同学年の部員が練習中に利き腕の靭帯を痛め、それを期に部を去ったのは、跡部達が二年生だった春の終わりの事。
 嫌がらせにめげることなく、実力で黙らせてやる、実力の違いを見せてやると練習を積み重ねる部員だった。
 度重なる諍いとそれに比例するように増え続ける過剰な練習メニュー。その結果が利き腕の負傷だった。

 去り際、「テニスが強くなりたいだけだったのにな…」そう自嘲気味に呟いた光景が脳裏に焼き付いていた。

 苦々しい感覚だけがいつまでも残る出来事だった。



「何で、おもしろくテニスできねぇんだよ」
 そうぼやいたのは、芥川だったか。
「こんだけ実力主義で実力者揃いやっちゅうのに、毎年優勝に手が届かんのも、全国ベスト16止まりなのも判る気ぃするわ」
 そんな皮肉めいた言葉を発したのは、わざわざ京都からテニス特待生として編入してきた忍足だった。

 実力が有りながら部員同士で足を引っ張り合い、実力を生かせる環境が揃わない。

 跡部ぐらいの実力者ならば、そんな程度の事で影響される心配もないが、今から伸びる素質の有る者がそんな状況や意識で練習していたのでは、出せる結果も出せないだろう。

 プロとして活躍するプレーヤー達でさえ、己に最適な環境を整えるのに悪戦苦闘している。コーチと反りが合わず成績を落とし、コーチを身内の者に変えることで落ち着いた環境を作りランキング上位に返り咲いた選手がいるように、環境を整えることがスポーツ選手にとってどれほど大事なことか考えるまでもない。

 ここ氷帝のテニス指導者に問題は無い。
 問題はそれを受け止める側の生徒の方なのだと、気付く時なのかもしれなかった。

「ちょーつまんねぇ!」

 なぜ、強い事がいけないのか。
 なぜ、今の己の実力を受け止め、相手の強さを認められない。
 なぜ、立ち向かい、そこから這い上がる事をしようとしない。

 勝っても嫌味しか言われない。嫌がらせの様な言葉しか言われない。
 この過酷な競争を勝ち抜いたのだから、少しぐらい羨望の眼差しを向けられても良いと思う。
 しかし、実際に与えられるものは、妬みと僻みから起きる言葉や視線だけ。

 悔しい。今度こそお前に勝ってやる。そんな潔い良いほどの闘争心を持って立ち向かってくるのは、ごく一部の部員だけだ。そういう気質の者は、遅かれ早かれレギュラーの位置に付いている。それ以外の者は、最後まで平部員のまま終わる。その事に気付きもしないで、ただ妬みの感情だけを育てて終わっていく。

「面白くねぇ! こんなのやってられねぇ!」

 起きているときは常にハイテンションで満面の笑顔という芥川が、起きているにも関わらず非常に不機嫌な様子で喚き続けていた。

「俺、やーめた!」
「ちょっ…! ジロー、待ちなよ」
「くだらねぇ!」
「ジロー!」
「テニスは学校じゃなくても出来るんだぜ。こんなとこにいる意味あんのかよっ」

 彼の思いが判らない訳ではない。だからこそ、滝は引き留めようと芥川の腕を掴んだまま立ち尽くす。
 しんっと静まり返った部室。

 そこに居合わせたのは、高みを求め続ける逞しい精神と飽くなき闘争心を持つ戦友とも呼べる数少ない本当の実力派達。

 芥川がこのように感情を爆発させたのには理由があった。
 部活に出ようと部室を訪れた向日のラケットが無残にガットを切られた姿で発見されたのである。これで、何度目になるだろうか。

 実力も無いくせに、何でお前が準レギュのAクラスになれるんだ。そう言いたい奴がいるらしい。

 面と向かって言う事はしないくせに、こういうことは出来るようだ。
 何て、稚拙な行為であることか。
 スポーツマンシップなどとは無縁な輩が多すぎやしないか。おかしな感情が伝染するにも程があるだろう。

 実力の有る者だけが上に行ける。ここはそういう場所ではなかったのか。

 敗者切り捨てとは、一体何を指している。

 このような行為そのものが、すでに敗者の証ではないのか。何で、そんな敗者に等しい者が部員として存在しているのか。

 強い者がなぜ勝ってはいけない?

「落ち着け、ジロー」
 苛立ちを爆発させる芥川を沈めたのは、部室の奥に置かれた長椅子に腰を下ろした跡部の声だった。
 滝がほっとしたように芥川の腕を掴む手から力を抜いた。跡部が動いてくれるなら、きっと大丈夫だ。そう思えたのだろう。

「何を落ち着けって?」
「やめるとか、そんな間抜けな発言はもう少し待てと言っているんだ」
「ここにいて、何の意味があんだよ? 俺は跡部みたいに強い奴と試合したいだけなんだぜ。何でそんなことも出来ないんだよ?」
「したけりゃ、これからすればいい」
「……出来てりゃ、こんなこと言ってないっしょ」
「出来るようにしてやるさ」
「……」
「ただ、動くには今はまだ時期が早すぎる。もう少しだけ待て」
「もう少しって、どれくらいだよ?」
「そんなに時間は掛からねぇよ。蒔いた種は、芽を出し始めているからな」
「意味判んねぇ…」

 不満たらたらではあるが、先程までの荒々しさはすっかり消え失せてしまった芥川を、跡部は余裕の笑みを崩さないまま眺めていた。その傍らで、忍足が思案げに目を細める。

 そんな二人の反応を芥川は不思議そうに見遣った。

 芥川につられるように、その場に居合わせた全員が固唾を飲むようにして跡部に視線を向けていた。



 その日を境にいつもの冷静さを取り戻した芥川は、ようやく己の周囲を見渡す余裕を得た。
 そして、気付いたのだ。
 部の空気がすでに変わり始めていることに。
 彼の圧倒的な存在感がそうさせているのか。
 その完璧と言いたくなる程の強さと華麗さに誰もが言葉を失い、そして魅了されていた。
 大会では、常に三年の部長がシングルス2で、二年の跡部がシングルス1を戦い続けていた事も一役買っているのだろう。

「格の違いを見せてやるよ」
 コートに入る直前に必ず一般部員を振り返り、そう声を掛ける跡部の姿はすっかり見慣れたものとなってきていた。
 何が楽しいのか、そんな思いで眺めていたものだが、今になってみれば、全てが計算されたパフォーマンスだったと気付く。
 始めは跡部の事を「大口を叩く奴だ」くらいにしか思っていなかった部員も、いつの間にか本気で期待に満ちた思いを抱いてしまっている事実に芥川は感動すら覚えた。

 輝かんばかりの期待は、瞬く間に皆の意識に変化をもたらせた。

 レギュラーは自分達の思いを達成してくれる存在なのだと、憧れと野心の向けられるべき存在であると、改めて皆に気付かせたのだ。
 少しずつ、皆の意識を上だけを見るように仕向けていく。負け犬じみた捻くれた感情を抱く暇もないほどに強烈な光でもって皆を魅了する。

 あれほどに光と影がはっきりしていた部内の階層が、大会の時には一つに纏まる。

 絶対に不可能だと思っていた光景が、目の前で現実になろうとしていた。

 芥川達が部員同士の諍いに腐れていた間も、彼は一人この環境と戦っていたのか。

 跡部は本気でこのテニス部を背負い変えていくつもりなのだ。ならば、自分は最後まで付いて行こう。

 芥川だけでなく、あの時、あの部室に居合わせた全員が同じ思いを抱き始めていた。




 全国大会終了後、三年生の引退と同時に跡部が正式に新部長を引き継ぐ事が決定した。
 ここから、跡部の快進撃が本格的に始まったのだ。

「すでに、土台は出来ている。後は、好きなように行動に移せば良い。今更、この俺様に逆らおうなんて思う奴はいないぜ?」
 跡部は仲間達を振り返り、唇の端に小さく笑みを乗せてそう言った。


「いやぁ、もう。ここまでされるといっそ気持ち良いぜ」
「やりたい放題大暴れっちゅうのは、まさにこれやな」
「マジでやるとは思わなかったよ…」
「前代未聞、空前絶後ってさ、こういう時に使って良いのか?」
「後にも先にも跡部だけだけだよねぇ、こんな部長は」

 仲間達がそんな感想を零した最大の出来事は、レギュラー部室の改装であった。
 外観だけでなく、中身も豪華に改装されたのである。
 電子キー付きのロッカーに、レギュラー一人に一台のパソコン、男子テニス部専用のシャワールーム等々、中学生の部活で使う部室では有り得ないような物が作られた。
 驚くべきは、その改装費が跡部の寄付によって賄われたということ。それも、跡部の親ではなく、跡部個人のポケットマネーからという話だ。

「中学生がポケットマネーって…」
「どんだけの財産持ってんねん…」

 驚きはそれだけに留まらない。
 その後、監督の寄付によって部室にトレーニングルームまで増設されたのである。

 レギュラーは特別。
 憧れ、挑んでこい。
 勝ち取って見せろ。

 それが跡部からの隠されたメッセージであるらしい。

 人数が多く、レギュラー争いが過酷な氷帝。敗者切り捨てという方針に付いて来られる強靱な意識を作る為にも、レギュラーから零れた部員のフォローは大事なものだ。
 今期は、そのレギュラーから零れた部員のフォローを全面的に跡部に任せてみよう、そう思った榊による後ろ盾もあって、跡部は本当に好き放題な事をやってくれたのである。

 

 

 

 俗に言う「跡部コール」は自然発祥だったと滝は語る。

「始まったのは、跡部が部長になる前からだよ。確か、去年の夏前。青学と当たった関東大会の準決勝からじゃなかった?」

 跡部が青学の部長と対戦し、圧勝して見せた試合からのようだ。
 自分達の部にはこんなにも凄い人がいるんだぞ。そんな自慢をしたくなるオーラがあるのか、その後の試合では、跡部の名前が出ただけでコールが始まりだしたという。
 面白がって跡部もそんな部員達を煽るものだから、声援はエスカレートしていったらしい。

「じゃあ、氷帝コールは、いつからや?」
「跡部が部長になった後だよな?」
「だと思うけどなぁ」

 跡部を中心として新体制のテニス部が動き始めたあの日から、跡部が悪役だかヒーローだか判断の難しいポジションで氷帝の帝王の座に君臨し続ける傍ら、他のメンバー達もレギュラーの存在を必要以上に印象付ける行動を取ることが多々あった。
 戯けた調子で忍足と向日が「勝つんは氷帝や。なあ、岳人?」「ああ、そうだぜ、侑士。勝つのは氷帝だ!」などと言い出したり、際どい試合展開で応援席が沈んだ空気に囲まれた時に、宍戸が一般部員達に向かって「おらっ。お前ら真剣に応援しやがれ! レギュラーが戦ってんだ。勝つのは氷帝に決まってんだろうがっ」と怒鳴り散らしたり。

 忍足が宍戸を見詰め、宍戸が忍足を見詰め返す。

「なんや、言い出しっぺは宍戸かい」
「ああ? どう考えても忍足じゃねぇか」
「俺は言うただけやねん。応援団にまで言うように仕向けたんはどう見ても宍戸やん」
「お前が先にそんなことを言い出したからだろ!」
「だから、俺は言うただけやって」
 妙な言い争いを繰り返す二人の横で、跡部が「ほらみろ、俺は関係ねぇだろ」と勝ち誇ったように髪をかき上げた。
 その跡部の袖を早くも眠そうな様子の芥川が引っ張りながら尋ねる。
「つうかさ、その後、どうやって「勝つのは氷帝、負けるの何とか」とか、「勝者は跡部、敗者は何とか」になったんだ?」
 確かに、今の段階では、ただの氷帝コールだけで終わっている。
 一般部員の手によって変化されていったのか、自分たちが意図的に変えさせたのか。
 いまいちはっきりと思い出せない。

「去年の新人戦の決勝の時には、すでに言ってたよね?」
「ああ、そうだと思うぜ。だって、去年の新人戦でいきなり跡部がジャージ投げて、俺すっげぇ驚いたもん」

 声援を煽り、そのまま上手いこと操作した跡部は「勝者は跡部、負けるの〜」コールの中、絶妙なタイミングでもってジャージを放り投げるというパフォーマンスを披露してくれたのである。

「あれは俺も驚いたぜ。あそこまで上手いこと決まるとは思ってなかったからな」

 ニヤリとした笑みを浮かべながら跡部が言うと、芥川が思い出し笑いでもするように跡部の肩にすがり付いてきた。

「跡部が投げたジャージさ、あの時は俺が取ったんだぜ!」
「ほう。そいつは知らなかったな」
「んで、次の試合で俺勝ったじゃん。そしたら、何でか跡部のジャージを取ったら勝てる、みたいなジンクスが出来ちゃって―――」
 その後のジャージを巡る争いがおかしかったのか、芥川が笑い転げて言葉を繋ぐことが出来なくなってしまう。
 気になるのか、跡部は滝に視線を向けた。
 滝は苦笑を浮かべて芥川の話の続きを口にする。

「僕も、あの時ばかりは本気で跡部の事が怖くなったからねぇ」
「あ?」
「まるでアイドルか教祖? 跡部がジャージを投げる度にフェンスの向こうの部員たちが雪崩れ込みそうな勢いだったんだよ。その内、絶対にジャージを巡って暴動が起きるって思ったくらいだ」
「何だ、それ。バカばっかだな」
「真剣に危ないから、絶対に跡部のジャージはこのメンバーの誰かが何が何でも受け取れって決めたくらいだからね。今でも跡部のジャージ狙ってるやつら、多いと思うよ。気を付けなよ」

 気の毒そうに言ってくれる滝を跡部は呆れた様子で眺める。

 そういえば、ジャージを投げると必ずと言っていいほど受け取るのは、宍戸か樺地である。
 いつの間にか役割が決まっていったのか、単に宍戸の世話好きな性格が率先して受け取ってしまうだけなのか。
 まあ、そのおかげで心置きなくジャージを投げられるのだから、問題ないが。

「あ! 思い出したぜ!」
 いきなり、宍戸が大声を張り上げ、忍足がうるさそうに顔を顰めた。
「なんやねん?」
「氷帝コールを広げたのは、ジローじゃねぇか!!」
「え? 俺?」
「お前だ、お前!」
「マジ? 俺かぁ?」
「間違いねぇよ! 去年の秋に立海とやった時だぜ。お前、立海の連中と妙に張り合ってただろ」
「あーっ! そうだよ、ジローが言ってたな!」
「えー? 覚えてねぇ」

 昨年に立海大付属中学校と試合をした折り、芥川と立海の丸井は妙に意気投合していたというか、張り合っていたというか、とにかく仲は悪くなさそうだった、くらいのことは跡部も覚えている。

「立海もさ、ウチと似たような雰囲気だったじゃん。応援とかも」
「せやなぁ。向こうさんも真田の『皇帝コール』なんちゅうもんがあるからなぁ」
「んで、その中でジローと丸井の奴が声援の張り合いを始めたんだよな」
「そうそう。それがもう、やたらと浮いててさ、すっげぇ恥ずかしい応援だったよなぁ」

 跡部と真田の試合が開始した直後、応援席では「皇帝コール」と「跡部コール」が渦巻くという、関係ない第三者が見れば確実に引きそうな空気になっていたものだ。

『皇帝! 皇帝! 皇帝!』
『氷帝! 氷帝! 跡部! 跡部!』

 そして、そんな応援の中、お互いのボレーテクニックについて話をしていたはずの芥川と丸井は、途中から話の内容がお互いの部の部長と副部長の自慢に変わっていったのである。
 だんだんとテンションが上がっていき、丸井が「皇帝真田! 勝つのは皇帝! 無敗の皇帝! 常勝立海!」と叫べば、芥川が「勝つのは氷帝だぜ! 氷帝氷帝氷帝! 勝者は跡部! 負けるの真田!」と叫ぶという始末。

 それが、周りの応援団に伝染していき、立海サイドでは「皇帝真田!」「常勝立海!」コールが沸き起こり、氷帝サイドでは「勝つのは氷帝!」「勝者は跡部!」コールが沸き起こっていったようである。

 その後、言いやすいように自然と改善されていって、今の「勝つのは氷帝、負けるの〜」「勝者は跡部、敗者は〜」という形に落ち着いたというところか。



「結局、あの応援を部員の間に定着させたのはジローかぁ」
「マジで俺な訳?」
「マジでお前じゃん」
「もしかして、俺ってすげぇって感じ?」
「せやなぁ。このおもろい声援を定着させたっちゅうのは、さすがに凄いかもしれへんなぁ」
「ぎゃはははは、ジローはすげぇってよ」
 向日がゲラゲラ笑いながら芥川の頭をくしゃくしゃにかき回す。
「俺ってすげぇんだ!」
 果たして、本当に誉められているのか怪しいものだが、それでも芥川は眠気も吹っ飛んだ様子でケラケラと笑い転げていた。

 

 

 

「ここは氷帝テニス部だ。全てを実力で勝ち取る場所、だろ? 不服があるなら、勝ち取り変えてやればいい」
 あの時、彼はそう言った。
 そして、皆の顔を一通り見回してから、流れるような動作で右腕を掲げ、軽やかに指を鳴らした。
「お前ら、この俺様の作る帝国に、死ぬ気で付いて来る気はあるか?」
 その時の不敵に笑った彼を、信じてみたいと本気で思ったのだ。

 

 

 あの時、あの部室にいた仲間達は、暗黙の内に一つの決意を固めていた。
 跡部は真の意味での実力主義を築くと言った。それに賛同し付いていくことを決めた自分たちは、おそらく、他の部員たちよりもきつい立場に立たされることがあるはずだ。
 それでも跡部のやり方に付き従うことを決めた。

 絶対に、途中退場だけはしない。

 今後、思いを同じくしながらも、絶対にこのメンバー同士でのレギュラー争いは起きるはずだ。
 その時、この仲間にレギュラーを奪い奪われることがあっても、恨む事はせず、前だけを見続ける。何があっても、絶対に部は辞めない。最後まで抗い、這い上がって、跡部と同じステージに立ち続けるのだと。
 そう覚悟を決めたのだ。

 だから、宍戸はレギュラーの座を失った時、がむしゃらにレギュラー復帰だけを目指して特訓を繰り返した。
 滝を蹴落とすことになっても、構わずに戦いを挑んだ。
 滝もまた、宍戸に予想外の方法で準レギュラーに落とされたが、それでも腐れることはせず、それ以上は絶対に落ちることはなく、準レギュラーとはいえそのAクラスという位置を守り続けた。
 そして、全国へは、皆のサポート役に徹することを決めた。

 試合に出る出ないよりも、同じ舞台に立ち、この氷帝テニス部を全国の場へと導く事を優先するために。

 同じ思いを抱く戦友たちのために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2006.1.9
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「跡部コール」や「氷帝コール」をする一般部員の姿を見ていると何か不思議に思えてきまして。敗者切り捨て、なんていう過酷な競争社会でありながら、あまり部内での争いは無いのだろうか、と。
何か、こうなるまでに不動峰みたいな熱血エピソードでもあったのか? と勘ぐりたくなるくらいに仲良しなテニス部の面々。
微笑ましいくらいに仲が良いよね。っていうか、微笑ましいを通り越す勢いで、みんな跡部部長が好きだよねぇと思った(笑)

 

 

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