敗者の定義
まだ、夏前というのに、焼き付けるような暑さだった。
眩しさに目を細めつつ、テニスコートの全体を眺める。
そこに、親しい先輩の姿を探すが、見付けることは叶わなかった。
――来るだろうか。
彼がテニスを捨てるとは思えない。けれど、針の筵と判っていて部活の練習に参加することは、並ならぬ精神力を必要とするだろう。
「あいつ、辞めた?」
「さあね」
「来れねぇだろ。あれだけ偉そうな口を叩いておきながら、惨敗したんだぜ」
彼と同じ三年生部員の言葉は辛辣だった。
胸を抉られるような思いに、鳳は立ち竦む。
「鳳、どうしたの?」
滝の言葉に鳳は無言のまま首を振った。何でもありません、という意味のつもりだった。
「宍戸の事だろ」
「え…」
「凄く心配で堪らないって顔してるよ」
「あ、その…」
「端から見てるとパシリに使われてるようにしか思えないのに、鳳はよく宍戸のこと嫌いにならないね」
「そんなこと、ない…です」
「来るかな、あいつ」
「……」
来ると、信じたい。
彼はテニスを捨てたりしないと、信じたい。
「さ、とにかく俺達は俺達のメニューをこなさないと」
「あ、はい」
今は、自分の練習に集中しないといけない。
練習とはいえ、滝の足を引っ張るような無様なことは出来ない。
高速サーブだけでレギュラー入りを果たしたような状態の鳳は、シングルスで試合に出るにはまだまだ力不足だった。
レギュラーに滝というシングルスもダブルスもそつ無くこなす選手がいたらからこそ、鳳も今まで生き残れたようなものなのだ。
シングルスに於いて、跡部の次に強いと言われてきたのは、宍戸と滝の二人だった。どちらがより優れているかは判らないが、でも、強い事は確かだった。
なのに、その強いはずの宍戸が、先日行われた試合で惨敗した。
常に跡部と張り合っていた宍戸の試合とは思えない負け方だった。
この氷帝学園のテニス部では、負けた者は二度と公式試合では使わない、それが監督の方針だと聞かされている。
事実、宍戸はレギュラーから外された。
たった一度の敗北で、全てが終わるというのか。
二度と、チャンスは与えられないのか。
――宍戸さん、テニス続けますよね?
俯いたまま、じっとしている鳳の耳に、声を潜めた話し声が届く。
「…宍戸だぜ」
「辞めたんじゃないのか?」
「よく出て来れるもんだな…」
弾かれたようにして振り返り、鳳は必死に宍戸の姿を探した。
いた。練習に出てきた。辞めなかったんだ。
良かったと、少しだけ胸を撫で下ろす。
「意地かな、あいつ…」
隣で、滝の冷静な声が聞こえた。
彼を取り巻く環境が甘くないことは、一目瞭然だった。
弱者に対して厳しく、どこまでも冷たい態度を取り続けた宍戸は、それだけ敵も多く作ってしまっている。
そんな態度でも、今まではレギュラーとしての強さがあったから問題は無かった。
しかし、その立場を失った今、彼は平部員たちの鬱屈した感情が向けられる格好の標的となってしまうだろう。
「宍戸さんっ」
思わず走り出した鳳を、滝は止めることも出来ずに見送った。
走り寄って来た後輩を、宍戸は無感情な眼差しで見詰める。
「レギュラーはランニングだろ」
「え…、はい」
「行けよ。コートの整備はパンピーの仕事なんだろうが」
一般部員に戻って、練習に参加。
今まで培ってきたもの全てが、白紙に戻されたような思いがした。
鳳は、言葉を続けることが出来ずに、ただ宍戸を見詰めるしか出来なかった。
「鳳、ランニングに行くよ」
滝が後ろからのんびりと声を掛けてくる。
「宍戸、俺達が戻るまでにコート空けといてね」
「ああ」
滝に背中を押され、鳳はゆっくりと足を動かす。
「ラ、ランニングに行ってきます…」
「ああ」
すでに校外へと向けて走り出したレギュラー達を追うように、鳳と滝も駆け出した。
都大会、準々決勝で敗退。
その決定打となったのが、シングルス3にいた宍戸の試合だった。
6-0というレギュラーにはあるまじきスコアで惨敗した。
そして、レギュラー落ち。
宍戸と入れ替わりでレギュラー入りしたのは、芥川と聞いた。
上り詰めるまでの道程は長かったのに、落ちるのは一瞬のことだ。
こんな所で終わって堪るか。そんな意地だけで部活にも顔を出した。
けれど、やはり部内での風当たりは厳しい。
鳳や滝と言ったレギュラー連中は、態度を変えることなく接してくるが、あまり接点のなかった準レギュラーや一般部員たちの態度はあからさまなものとなる。
今まで見下してきた連中と同じ立場になってしまったのだから、当然といえば当然だ。
「そんな腑抜け面で続ける気かい?」
誰もいない階段の踊り場から校庭を眺めていた宍戸は、後方から聞こえてきた声に振り返る。
言葉の意味を測りかねて、宍戸は怪訝な顔をした。
「何か用か?」
「うん」
「さっさと用件を言え。俺は忙しいんだぜ」
「随分と暇そうに見えるけどね」
忌々しいという顔で舌打ちをしてくれる宍戸から目を逸らすことなく、滝は残りの階段を下りて踊り場に着いた。
「このまま終わるつもり? 平部員のままで」
何だ、説教しに来たのか。
苛立ちを隠しつつ視線を校庭に戻した宍戸は、無意識に眉根を寄せていた。
「お前の知ったことじゃねぇだろうが」
「そうでも無いんだよね。今後の部員の士気に大きく関わると思うから」
「何だよ、そりゃ?」
静かな表情のまま、滝は宍戸の隣に立つ。同じように、填め込みガラスの向こうに見える校庭を見詰めた。
「このまま終わっても高校での三年間がまだある、なんてこと考えていないよね?」
「ああ?」
「こんな終わり方をしたんじゃ、高校に上がってからの君と跡部の関係は確実に違うものになるよ」
「俺と跡部の関係だぁ? 気色悪りぃ言い方をすんじゃねぇよ」
嫌悪感を露わにした言い方。判っていても一瞬、体が強張りそうになる。
余計なお節介は迷惑なだけだ、そう、宍戸の目は言っているようだった。滝は口を噤み、宍戸を睨むようにして見詰めた。
それでも、力を無くした宍戸を見るのは、非常に腹立たしかった。
ずっと競って来た相手が、こんなところで潰れてしまうのか。
しかし、口を出る言葉は皮肉めいたものばかりだ。
言いたいことは、そういうことではないはずなのに。
言葉を選ぶという行為が、こんなにも難しいことだと初めて気付いた。
言葉を探している内に、時間だけが過ぎていく。
宍戸は、沈黙に耐えられなくなったのか填め込みガラスの側から離れた。
無言で立ち去ろうとする宍戸に、滝はようやく声を掛ける。
「この先の関東大会、全国大会。誰が、跡部を支えるの?」
訝しげな表情を浮かべて、宍戸は振り返った。
「樺地やジローは側にいることで跡部の傷みを和らげるけど、それ以外のことは決してしないよ。のらりくらりと交わしてしまう俺や忍足は、行動そのものを起こさないしね」
「何の話をしてんだ、てめぇ」
「真正面から対抗心を剥き出しにして跡部に挑み掛かる馬鹿は、宍戸以外にいると思う?」
「誰が馬鹿だっ――」
「頂点に立つと言うことは、孤独だってこと判ってる?」
宍戸の言葉を遮り、滝は言い放つ。
「校外には手塚や真田と言った優れたプレーヤーもいるけど、けれど、俺達は公式試合の場以外では校内の人間と接するのがほとんどだ」
「……何が言いたいんだ、てめぇはよ?」
「畏れと期待、羨望や嫉妬に晒されながら、頂点に一人で佇むしかない跡部が、恐怖や苛立ちを感じていないとでも思ってる?」
「俺に何の関係が…」
滝は苦々しく笑った。
「跡部を独りにしちゃいけないって、思ったこと無い?」
「な、に…?」
判らないのなら、もういいよ。そう呟いて、滝は立ち去ろうとする。
今度は、宍戸が呼び止めた。
「…お前の感情なんか知らねぇよ。俺に何を期待してんだよ?」
足を止め、ゆっくりと滝は振り返る。
「レギュラーの座を取り戻す気は無い訳?」
腹立たしげに滝が問い返した。
「監督のやり方は知ってんだろうがよ」
「敗者切り捨て? 負けた者は二度と使わない?」
そうだと、宍戸は頷く。
「誰が決めたの?」
「は? 監督だろ?」
「監督はそんな決まりを作ったことはないはすだよ。いつの間にか、皆が勝手に暗黙の了解としていただけだろ」
「何だって?」
「そんな方針を掲げたら、普通、PTAとか理事会とかが黙ってないんじゃない?」
そうなんだろうか。
「敗者って、どういうことを指すの? 試合に負けた人?」
「それ以外に無いだろうがよ」
「だったら、どうして、跡部は今部長をしていられるのさ」
「え?」
「去年の夏の全国大会、秋の新人戦。跡部は、立海大付属中の真田に負けている。なのに、レギュラー落ちどころか部長になっているのは、どうして?」
「……」
言われるまで気が付かなかった。
宍戸は、呆然とした顔を滝に向けた。
「跡部は、負けた後も強くあり続けたよね。試合に負けて部を去っていった先輩達との違いは何か、考えたことある?」
「違い…?」
「監督の言う敗者の意味、考えたことある?」
「……意味だと?」
表情を消した滝は、何も言わずに宍戸を見詰める。 それも僅かな間のことで、すぐに宍戸から視線を逸らし、踵を返した。
「気持ちがすでに負けている宍戸には、理解できない話しだったかな。悪かったね、時間取らせて」
冷ややかな声で滝は言い捨て、ツカツカと階段を下りていく。
滝の去った階段を睨むように見詰めたまま、宍戸はその場から動けずにいた。
滝の言わんとしていることは、朧気ながら理解出来ていた。
強すぎるが故に孤高の存在になりうる跡部を、決して独りにはさせない。そう思ったのは、いつのことだったのか。もう、思い出せなくなっている。
跡部を打ち負かすのは、自分でなくてはいけなかったはずだ。
それなのに、跡部がすぐ目の前にいるこが当然と思い込んだ時、自分はそのポジションを失った。
それを失念してしまったのが、敗因だろうか。
「…ダセェな、激ダサだな」
今更、レギュラーという地位を取り戻すことは、可能なのだろうか。
翌日の部活にも、宍戸は顔を出した。
黙々と一般部員に混じり仕事をこなしている。
鳳は、声を掛けたくとも使用するコートが違うために最後まで出来ずにいた。
なぜか機嫌が悪い滝に先に行かれてしまった鳳は、とぼとぼと部室への道程を歩いていた。
「おい、長太郎」
背後から呼び止められたが、気付かずに歩き続ける。
「おーとりーちょーたろー!」
「え? あ、はい!?」
大声でフルネームを呼ばれた鳳は飛び上がりそうになりながら振り返った。
そこには、宍戸の姿がある。
夢か幻かとでも言うように、鳳は目を瞬いた。
「お前に、その…頼みがあるんだ」
宍戸さんが俺に頼み事?
まさか。
「おい。聞いてんのか?」
「え?」
「だから、その、お前に頼みがあるって、言ってるんだよ」
どうやら宍戸の偽物という訳でもないらしい。
ずっと待ち望んでいた状況なのだが、いきなり叶ってしまったせいか、まだ頭がぼんやりとしていた。
「長太郎。聞いてるか?」
「は、はい!」
挙動不審な鳳に、さすがの宍戸も首を傾げる。
「お前、大丈夫か?」
「はい。大丈夫です。俺、宍戸さんと話せて滅茶苦茶嬉しいです! 」
「ああ、そう…か?」
「はい! それで、あの、頼みって何でしょうか?」
やっと話が戻ったと宍戸は胸を撫で下ろす。
宍戸も、それなりに緊張していたりするのだ。
「部活終わった後さ、個人的な練習に付き合ってくれねぇか?」
「へ? 練習ですか?」
目を丸くする鳳に、宍戸はやっぱり駄目かな、と内心嘆く。
「やっぱ、帰りが遅くなるとまずいか?」
「いいえ。大丈夫です!」
力一杯の返事に、正直ほっとした。
良かった。
三年のレギュラー連中に頼むのは、さすがにプライドが許さなかったし、だからと言って、自分よりも明らかに弱い準レギュや一般部員に頼んでも無意味なことだった。
鳳の高速サーブは、今の宍戸にとって必要不可欠であり、これはまたとないチャンスでもあった。
何の抵抗も無く宍戸を慕ってくれる鳳の存在が、どれほど有り難いことであるのか、改めて痛感させられる思いだ。
――今の俺に必要なものは、ライジングを完璧なものにすること。
それしか這い上がる為の武器は無いのだと、そう思っている。
「あ、あの、練習ってことは、その…」
「俺は、まだ諦めねぇってことだ」
「あはははは…」
その言葉に、鳳は泣き笑いの状態で宍戸に抱き付いていた。
05.6.20
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相変わらず、跡部がいなくとも話の流れは跡部贔屓だ(笑)
一方的な会話ばかりが繰り広げられていて、結局何なんだよ? みたいな感じになってるような気もする…。
滝が負けた時、周りの部員が「ウソだろ、正レギュラーの滝さんが…」と呟いていることから、やはりそれなりに滝も実力派だったのではないかと思いまして。
なので、宍戸のレギュ落ち後にレギュラーになったのは滝じゃないよなぁと。
宍戸の代わりにジロさんが繰り上がりでレギュラー入りしたことになってますが、繰り上がりは鳳とジロさんとどちらがより適切か、かなり悩んだ。
結局、鳳だったら話的におかしい気もしたのでジロさんにしたが。
ジロさんは負けてもはしゃぐような子だから、大会の度に準レギュとレギュラーを行ったり来たりしていても、さほど驚かないかも(笑)
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