蟹料理

 

 

 

 

 

 

「景吾、おはよう」
「おはよう…」
「もうすぐ誕生日だな」
「…そうでしたか?」
「今日、学校帰りに蟹料理を食べて帰ると良い」
「はあ」

 久しぶりに日本に帰ってきている父親が、起き出したばかりの跡部を捕まえて話掛けてくる。
 起きてすぐな為、まだ頭が寝ている跡部は適当に生返事をしていた。

「ここに予約してあるから」
「…うん」

 差し出してくる名刺を無意識に受け取る。 ぼんやりと名詞を眺めていると、いつの間にか一階に下りた父親が見送りに出てきた母親と話している声が聞こえて来た。

「蟹ねぇ…」

 蟹が何だって言うのか。

「…蟹?」

 名刺には見覚えのある料亭の名前があった。

「何だこれ!?」

 いきなり、意識がはっきりとした。

 さっき、父親は何と言ったか?

「蟹を食って帰れって、どういう意味だよ!?」

 大慌てで窓に飛び付くと、力任せに開け放つ。身を乗り出すようにして、車に乗り込もうとしている父親に向かって大声で呼びかけた。

「父さん! 蟹って、何ですか?」
「榊君に保護者役を頼んでいるから、大丈夫だ」
「そうじゃなくて!」
「じゃあ、行ってくるよ」

 跡部の言いたいことは何一つ伝わっていないようである。

 父親は、ご機嫌な様子で手を振ると、さっさと車に乗り込んで行ってしまった。

 父親の乗った車を二階の窓から見送りつつ、跡部は大袈裟な程の溜息を吐いた。

「榊君って、監督の事だよな…?」

 テニス部の監督である榊は、跡部の父親の学生時代の先輩なのだと、以前聞いたことがある。何度か、榊が跡部の家に遊びに来たこともあったくらいだ。

「やっぱ、監督が保護者として同伴しないといけない場所っつう事だよな…」

 跡部の記憶が正しければ、この名刺に記されている料亭は、完全会員予約制の超高級料亭である。政治家の接待や密談にも使用される事の多いというあの料亭。
 ちなみに、跡部も二度ほど父親のお供で行ったことがあった。 しかし、中学生が学校帰りに立ち寄って蟹を食べて帰る、などという感覚の店では絶対にないはずだ。

 怪訝な顔をしたまま一階に下りると、見送りを終えて戻ってきた母親と顔を合わせた。

「これ、どういう意味か聞いてます?」
「ああ、それね。…あら、景吾さん何も聞いてないの?」
「蟹を食べて帰れとしか言われてないですよ」
「それ、本当はね、取引先の人達とそこで食事をする約束してたらしいんだけど、今朝になって向こうがキャンセルを言って来たのよ。仕事でトラブルが発生して、すぐに日本を離れないといけなくなったって、電話が入ったみたい」

 やはり、仕事で使う予定だったようだ。

「それが、何で俺に?」
「今、蟹が旬なのよ」
「は?」
「美味しい蟹を食べようと思って、前もって予約して良い蟹を入れるように頼んでいたのよ。それなのに、当日にキャンセルなんてお店にも悪いし、勿体無いじゃない」
「……?」
「人数は十人で予約してたそうだから、家族で行っても余るでしょ?」

 余るでしょ、と言われてもな。

「それでね、せっかくだから、景吾さんに差し上げたらって話になってね。もうすぐ、誕生日だし、丁度良いじゃない」
「誕生日プレゼント代わりに蟹料理ですか…」
「たまには、こういう大人っぽいプレゼントもいいでしょう。榊君と一緒に、お友達を連れて行って来なさいね」

 跡部の言い分を聞くこともなく、にっこりと微笑んで母親はそう言ってくれた。

 

 

 

 榊が同伴する以上、連れて行く「お友達」は、テニス部のメンバーになってしまうだろう。
 クラスメイトが榊と共に高級料亭に行って楽しめるとは到底思えない。
 担任ならまだしも、音楽の授業で顔を合わす程度の教師なのだ。萎縮して沈黙に包まれる光景が容易に想像できた。
 やはり、どう考えてもテニス部連中を連れて行くしかない。
 数多い部員の中で跡部相手に気兼ねなく話すことの可能なのは、あの六人くらいか。そして、跡部と保護者役の榊を入れて八人。あと二名足りない。後輩の中から適当に選ぶかな。

 今日で何度目になるのか分からない溜息が零れた。

「この店に、あの馬鹿ども連れて行けって言うのかよ」

 店の名刺を手に持ったまま、跡部は屋上の隅で寝転がった。

 良く晴れた昼下がり。 食事を終えた跡部は、樺地と共に屋上でゆっくりと過ごすことが多い。

「お前は来いよ」
「ウス…」
「嫌そうだな」
「そんな、こと、無いです…」
「あー。気が重い。あいつらを誘って行けってのが問題だぜ」

 暴れて器物破損なんて事をやられたら、出入り禁止を食らう恐れだってあるのである。

「そんなことになったら、親父、泣くだろうな」

 父親があの店をかなり気に入っていることは、跡部も知っていた。
 仕事でも頻繁に使っているようだから、「跡部」の名前もあの店ではかなりのお得意様なのだろう。だから、少々無茶な話でも通してくれるのだ。
 昼食の前に榊の元に出向いてこの話をしたところ、すでに父親から連絡が行っていたようで、榊から「連れて行きたい者を放課後までに選んでおくように」と言われた。しかも、料亭にも許可を貰ったとのことだった。

「少々騒いでも大丈夫なように、離れを用意してくれるということだ」

 どう見ても行く気満々な榊に意見など出来るはずもなく、「はあ、そうですか」とやる気の無い返事をするのが精一杯だった。

「樺地。お前さ、十人前の蟹を食う気はねぇか?」
「…難しいです」
 樺地でも無理か。
「やっぱ、あいつら連れて行くしかないのかね…」
 普通に高級フランス料理店とかならいくらでも連れて行くが、あの店はかなり特殊である。そこに、息子とその友人とで行って来いとは、父親も凄いことを言ってくれる。
 息子が息子なら、親も親というところか。
 向日や宍戸からしょっちゅう「跡部はぶっ飛んでだよ」とか「常識知らず」とか言われているが、その跡部の目から見ても、父親はかなりの変わり者だと思われた。

「面倒くせぇな…」

 寝ころんだまま両手を上に伸ばす。

 バタンと扉の開く音がして、次にバタバタと走ってくる足音が二つ。 続いて、聞き慣れた声が響いた。

「あっとべぇ!」
「どこにおんねん! 返事してやぁ」

 芥川と忍足。 まったく、こういう事には恐ろしいほどの地獄耳だ。

「何だよ?」
「そこにおったんか」
「蟹食いに行くってホント?」
「どこで聞いた?」

 よっこらせと、爺くさい掛け声と共に上体を起こした跡部は芥川に向き直る。

 芥川は自慢げに胸を張って答えた。

「俺が聞いた!」
「あ?」
「跡部と監督が話してる後ろに、俺いたんだぜ!」
「いなかっただろ」

 数十分前の光景を思い出すが、そこに芥川の姿は見当たらない。

「寝てた」
「寝てただぁ? どこで?」
「監督の席の後ろ。監督の所に遊びに行ったんだけど、途中で眠くなったからそのまま床で寝てたんだ。そしたら、跡部の声がするじゃん」
「起きてたなら、声くらい掛けろ…」
「目は覚めたけど、動くの面倒だったしー」
「……」

 面倒だったし、などと言われた事に対して突っ込むべきなのか、床で寝てしまった芥川を起こすことなく放って置いた監督に突っ込むべきなのか。

 何でこうも、自分の周りは変人揃いなのだろう。
 もしかして、俺が一番まともなんじゃないのか?
 そんな事を思いながら溜息を吐いた。
 自分でまともだと言い張る人間ほど実際には一番の変わり種だったりするものだが、今はその事実をあえて無視する。

「それで、何でここに忍足までいる?」
「忍足、蟹好きじゃん! だから、真っ先に教えてあげたんだよ。俺って優しいー!」
「優しいって…。誰を連れて行くかは俺が決めるんだよ」
「せやから、今こうしてここにおるんやないか。っつうことで、連れてってください、跡部様」
「俺も! 俺も! 蟹食いてぇ!」
「―――」

 こちらから声を掛ける手間は省けたが、何か釈然としない気分だ。 時計を見れば、もうすぐ昼休みも終わる。
 こいつらから先に声を掛けてきたんだ。この際、残りのメンバー集めをやらせるのもありかもな。

「ああ、良いぜ。俺様は優しいからな」

 恩着せがましく言い放つ。
 芥川と忍足は大仰に喜んで見せた。それを眺めつつ跡部は偉そうに腕を組み、うっすらと笑みを浮かべた。

「その代わりだ、条件がある。他の連中にも伝えておけ。辞退は許さねぇってな」

 連れて行く予定のメンバーの名前を伝え、次の休み時間に結果報告に来いと言いつけた。

 

 

 

「跡部、誰を連れて行くか決まったのか?」

 部活中、榊がやって来てそう声を掛けてきた。

 秋の大会を目前に控えた緊張の高まる部活練習。一般部員たちは跡部と榊に気を向ける余裕も無く必死に己のメニューをこなし続ける。

「ええ、テニス部員の中から八人ピックアップしておきました」
「何だ、テニス部中心にしたのか」
 他に友達はいないのか、と言われているようなニュアンスがあるのは気のせいではあるまい。あんたがいるせいでこのメンツしか集められないんじゃねぇか、と言うわけにもいかないので心の中で愚痴る程度に留める。

「では、今日は少し早めに切り上げるとしようか」
「そうですね」

 跡部が返事を返すと同時に、榊はコートに向かって大声を張り上げた。
 あと三十分練習を続けろ。その後は独自の判断で切り上げてよし、という指示に大半の部員が不思議そうな顔で反応を返していた。

 

 

 

「なあ、その料亭って遠いんだろ?」
「歩いて行ける距離じゃないのは確かだね」
 用事があったのに、問答無用で参加を強制された宍戸が呟き、この時期の蟹を食べられるなんてラッキーだねぇと素直に喜んでいる滝が返事をしてやっていた。

 校門前に集合した跡部と榊を除いたメンバーは肝心の二人がいないので、所在なげに立ち尽くすしかない。

 只で高級蟹が食べられると、忍足は一日中ご機嫌であった。そんな忍足を眺めていた向日が「蟹って美味いの?」と聞いてみれば、「あたりまえやん。こんな機会滅多にあらへんで。蟹食うの苦手やったら、俺が教えたるさかい安心せぇ」と声も高らかに宣言する。

「何で俺まで…」
「すごいなぁ。あの料亭に行ける機会があるなんて、思っても見なかったよ」
 宍戸と同様に強制参加させられた日吉が愚痴り続ける隣で、鳳は蟹よりも料亭に感動しているようであった。
「そんな料亭があること自体、普通知らないだろ…」
「すっごい有名なんだよ! 俺なんて行きたくても行けないのに」
 蟹には興味を示さず、料亭のことばかり言い続ける鳳。蟹は食い慣れているということなのか。
 財界の人間が通うような料亭の存在を、中学生が知っているというのも、かなり凄いことの様に思われる。
 そういや、鳳も跡部さんと同種の人間だったな…。
 ブルジョアの思考は時折理解に苦しむものだ。



「よう。集まってるな」
 やっとで跡部の登場である。
「遅せぇよ」
「なあ、どないして行くつもりや? 監督の車じゃ、全員は乗れへんやろ。タクシーでも呼ぶんか?」
「ああ、そのことか。心配するな。ウチからハイヤーを呼んであるから」

 ハイヤー!?

 皆の思考が固まってしまったことなどお構いなしに、跡部は料亭では暴れるな、といった注意事項を伝えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2005.11.15
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はっきりと書きませんでしたが、これは跡部が2年生の時になります。
一応、前編ということで。
どうやっても後半のお食事風景が面白くないので、食べに行く直前で切りました。
このまま前編のみで終わるのか、ラストまで書き上がるのか今のところ不明(苦笑)

相変わらず、跡部の家族ネタを捏造するのが楽しいです。

 

 

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