心のままに
樺地は途方に暮れていた。
降りしきる雨の中、道の片隅で震えて鳴く小さな姿を見詰めたまま、動けずにいた。
「ゥニャァァァァ」
震えながらも必死に声を張り上げて鳴く、薄汚れた子猫。
場所や近くに猫が入っていたと思われる箱があるこの状況は、どう考えても、人の手によって捨てられた子猫だ。
どうしたらいいのだろう。
必死に鳴くその声は「おなかが空いたよ」と言っているのか「お母さんどこ?」と叫んでいるのか、ただ単純に「助けて、助けて」と言っているのか、樺地には分からない。
しかし、全身を使って声を張り上げる鳴き方は、聞く者を悲しい気分にさせるのに充分だった。
可哀想という感情は、傲慢なのだろうか。この猫に失礼になるのだろうか。
今や、樺地だけを見上げて鳴き声を上げる子猫の姿。
本当に、どうしたらいいのだろう。
行動に移すべきか、少しの間考え込んだ。
野生は強い。人の手を借りずとも生きていけるかも知れない。
他の誰かが保護してくれる可能性もある。
――この雨に濡れて、寒さに負けて、このまま弱っていく可能性もあるのに?
やはり、駄目だ。
性格上、このまま見捨てていくことは自分には無理だ。
親が怒るだろうなと思いながらも、猫の前にしゃがみ込みそっと手を伸ばす。警戒しながも、恐る恐る近寄ってくる子猫。
荒れた毛並みが、雨に濡れてますます薄汚れた印象を抱かせた。
指先が子猫に触れる。
様子を見計らって抱き上げようと両手を伸ばせば、子猫は両手をすり抜けて物陰に逃げ込んでしまった。
「あ……」
逃げられた。
逃げたくせに、まだ助けを呼ぶように泣き叫ぶ子猫の姿。
本当にどうしたものか。
「何をやってる?」
いきなり背後から声が掛かり、びくりと体を強ばらせる。
聞き慣れた声に振り返ってみれば、私服で傘をさして突っ立っている跡部景吾の姿。
「あ……」
「あ?」
「猫が…」
「猫?」
視線を追い、子猫の姿を確認した跡部は納得したように頷いた。
「それで?」
「…?」
「それで、お前は何をやっている?」
「猫を、どうやったら助けられるのかと、…考えていました」
ふっと跡部は笑みを零した。呆れたような笑い方だ。
「相変わらずだな」
「…ウス」
優しいな、と言われたのか、単純に呆れられたのか、よく分からなかった。
「ま、お前のやることに反対するやつもいねぇだろ」
…そうでしょうか。
怒られるかなと思っていただけに、返事に窮した。
無言で考え込む樺地に、
「子猫助けたお前に、文句言えるやつはいねぇよ」
跡部はそう呟いた。
「しかし、お前のところに連れ帰って騒がれるよりかは、俺のところに連れて帰った方が無難かもな」
「…ウス。…すみま、せん…」
「謝る理由が分かんねぇよ」
小馬鹿にした笑いを浮かべた跡部は、ひょいっと子猫の首根っこを掴み持ち上げた。
不意を衝かれたのか、子猫はあっさりと跡部の手に捕まっていた。
しかし、すぐに子猫はぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。
「ほら、お前が持て」
凄い鳴き声に顔を顰めつつ、子猫を樺地に押し付けてやる。
「行くぞ、樺地」
「ウ、ウス」
スタスタ歩き去る跡部を、樺地は傘と子猫を落とさないように抱え直して急いで追い掛けた。
「ニヤアアアアアア」
「あー、うるせぇな。大人しくしてろ」
「大丈夫。怖くない」
跡部家のバスルームを借りて、子猫を洗っている最中である。
跡部家の使用人にやらせても良かったが、樺地が「自分でやります」と言い張るので、好きにさせていた。跡部は興味半分に付き合っているに過ぎない。
「こいつ、白猫か」
綺麗に洗い流してみれば、灰色をしていた猫が実は真っ白だったことが判明した。
タオルで包んで優しい手付きで拭いていく。
いきなり洗われた恐怖からか、樺地の手の中で子猫はガタガタと震え続けていた。
空いている部屋にファンヒーターを持ち込み、その前に樺地と子猫を座らせる。
濡れた毛をドライヤーで乾かそうかと思ったが、ドライヤーの音に怯えて子猫が暴れ出すため、ファンヒーターを使って乾かすことにしたのだ。
樺地の大きな手の平に乗り、タオルとファンヒーターの風で乾かされている子猫は、殊更小さく見えた。
跡部の手でも、片手に乗るくらいに小さな猫だった。
「これくらいだと、生まれて二、三ヶ月ってところか?」
「ウス」
まだ乳離れもしていない時期の子猫を親猫の元から離した上に、捨ててしまう者がいると言うことだ。
この幼さでは、自力で生きていくことも難しいだろう。
「あの、跡部さんは、どうしてあそこに?」
「アーン? 猫の鳴き声がうるせぇから、ちょっと見に行ってみただけだ。そしたら、お前がいるじゃねぇか」
そう言って、唇の端で薄く笑う。
子猫が鳴いていたのは、跡部の家からそれほど遠くない場所だったのだ。跡部家の真裏に位置する樺地家にも、当然、猫の声は聞こえていた。それで、気になって樺地も見に行ってしまったのである。
同じ時間帯に、同じ事を感じていたということか。
何だか嬉しくて、口元が綻びる。
「乾きました」
「とりあえず、この檻の中に入れておけ」
跡部の家で飼っている犬がまだ子犬だった頃に一時的に使っていたというペット用の檻。
「犬用だが、まあ、問題ねぇだろ」
そう言って、トイレシートとミルクの入った皿を一緒に入れてやる。
皿の中のミルクに気付いた子猫は、皿の中に顔を突っ込んで飲み始めていた。
「おい」
そう言って、跡部は猫に呼びかける。
反応した子猫が顔を上げた。ミルクまみれの顔。
笑い出しそうになるのをこらえながら、跡部はデジカメのシャッターを押した。
「…ウス?」
「飼い主探しに使えるだろ」
とりあえず、明日学校で探してみるか、そう言って跡部は今撮った画像をプリントアウトするために自室に上がっていく。
樺地は子猫の側で待つことにした。
ミルクを飲み終えた子猫が、檻の存在に気付きニャアニャア騒ぎ出すのを指先で宥めながら跡部を待った。
皆の好意に甘えてばかりの自分。このままではいけないと思うことがあるが、その度に跡部は「お前はそれで良いんだよ」と言う。
お前は存在自体が役に立ってんだから、細かいことは気にすんな、そう言われたこともあった。
「役に立ててる?」
猫に問いかけても、猫は当然ながら答えてはくれなかった。
翌日、クラスメイトを中心に飼い主候補を探した。
意外にも、クラスメイトであると同時に同じ部活仲間でもある日吉が反応してくれた。
写真を食い入るように見詰めていたかと思えば、「可愛い」と呟く。
実物が見たいと言うので、部活が終わったら跡部さんの家に行けるか? と聞けば、ぎょっとした顔をされた。
「猫、跡部さんが、預かってくれてるから…」
「部長の家…」
それでも、ミルクまみれの顔を写真に撮られた子猫が余程気に入ったのか、行くと返事をしてくれた。
日吉の家では、去年まで猫を飼っていたという。しかし、愛猫も老衰には勝てずに、長寿を全うして静かに眠りに付いた。それっきり、猫は飼っていなかったが、やはり、家族の皆が、どうにも淋しく感じていたところだったという。
授業もそっちのけで猫の写真を見詰め続ける日吉。普段の小生意気な態度からは想像も出来ない愛らしさを感じさせる。
口が裂けても本人に向かって「愛らしい」などとは言えないけれど。
猫の引き取り手は日吉で決定しそうだと、樺地は思った。
良かった。ちゃんと可愛がってくれそうな飼い主が見つかって。
あの時、あの場を立ち去らなくて、本当に良かった。
まだ、名前も付けていない白い毛並みの子猫。
もう、雨に濡れて怯えて鳴くこともないだろう。
僅かな間だけでも世話が出来たという事実が、少しだけ樺地の心に暖かい灯をともしてくれたようだった。
2005.6.4
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優しい樺地が書きたかっただけです。
それで、跡部に「自分の感情に従えば良い」と言われる樺地が書きたかっただけ。
猫の事はかなり実話に近い(笑)
我が家の近くに生後2〜3ヶ月くらいで捨てられていた子猫2匹。
あまりに鳴き叫ぶ声がうるさいので、兄貴と手分けして保護。
里親を探そうかとも思ったが、獣医さんなどに「里親探しも慎重にした方がいいですよ。引き取ってくれても、すぐに捨てる人も多いです。出来るなら、ご自分で飼われるのが一番ですね」と言われたこともあった。
結局、情が移って自分で飼うことにしたんですけどね。
樺地は動物に好かれるタイプだと思う。
でも、本人は自分が癒し系だと気付いていない天然の妖精さん。
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