休日

 

 

 

 

 

 

「あーとーべー。ひーまー」
 ジタバタと手足を動かして訴えてみるが、見事に無視された。
 床に座り込み、じっと凝視する。やはり、無視。

「暇だってばぁ!!」

 ソファに座って、黙々と分厚い本を読み続ける跡部に、芥川は思いっきりタックルを仕掛けた。

「なっ!?」

 本に集中しきっていた跡部は、芥川の行動にまったく気付いていなかったようだ。抱き付かれた衝撃で無様に体勢を崩したまま、芥川と共にソファから転げ落ちる。
 跡部の手から百科事典並に分厚い本が吹っ飛び、ソファの向こうへと落下した。

「…??」
「いててて…」

 芥川に組み敷かれるような格好で床に倒れ込んだ跡部は、唖然とした表情で視線を彷徨わせている。何が起きたのか、理解できていないようだ。
 ゆっくりと、視線が目の前に固定された。自分に馬乗りになっている芥川の存在にようやく気付き、怪訝そうに眉を寄せる。

「おい…」
「悪りぃ悪りぃ。跡部、無事?」
「退け」
「うーん。ヤダ」
「退け」
「跡部見下ろすのって滅多に出来ないから、もうちょっとこのまま」
「重いんだよ! 樺地!」
「うわっ。ちょっと待っ…!」

 跡部が言うと同時に、樺地が芥川の体を持ち上げた。そして、無駄を省いた素早い動作でソファの上にぽんと置く。まるで、荷物のような扱い方である。

「ひ、ひでぇ。投げることないじゃん」
「ウス」
「ウス、じゃねぇって」

 半端にテンションが高い芥川の言動に、跡部は眉間に皺を寄せてこめかみを押さえた。上体を起こし、額に掛かる前髪を掻き上げる。

「何がやりてぇんだ、お前は?」
「ゲームやろうぜ!」
「ああん?」
「跡部、本ばっか読んでてつまんねぇもん。んなことだとモヤシっ子になるんだぞ!」

 相変わらず、芥川の言い分は理解に苦しむ。

 毎日のようにテニスボールを追い掛けて屋外で走り回っている自分たちが、どうやったらモヤシっ子になるというのか。

「俺は今日一日読書するって決めてんだよ。暇なら、帰れ」
「せっかく遊びに来てあげたのに、ひでぇよ」
「勝手に押し掛けてきたんだろうが」

 咄嗟に言い返す言葉が出てこなくなった芥川は、不満気な顔で跡部を睨んだ。
 確かに、勝手に押し掛けてきたのは芥川の方である。しかも、面倒くさそうに部屋に通してもらったその時に言われもした。「俺様は本を読むから、邪魔すんなよ」と。
 しかし、本当に読書し続けるのは、友人として如何なものか。
 芥川が遊びに来てから、すでに三時間は経過していたのだ。
 初めは、芥川も邪魔しないように大人しくしていた。跡部の隣で本棚から勝手に拝借した本を眺めたりして。
 一時間ほどで本を見るのも飽きた芥川は、今度は携帯で樺地を呼びだした。「跡部の部屋にいる」と言えばすぐに来てくれた。
 それから、跡部の所有するテレビゲームを勝手に引っ張り出して樺地と小一時間ほどプレイするが、それもすぐに飽きてしまう。鈍重そうな外見とは裏腹に意外と器用な樺地はゲームも上手い。しかし、黙々と無表情にゲームを進める姿は、どうにも盛り上がりが欠けることは否めなかった。
 樺地とのんびり時間を過ごすことは本来ならば好きなのだが、今日はいつものように眠くならないし、テンションも高いせいではしゃぎたくて仕方がなかった。はしゃぐ相手としては、樺地は少々役不足なのである。
 そして、先程の跡部へのタックルとなった。

 吹っ飛んだ本を拾い上げた樺地は、丁寧な動きで跡部に手渡す。ソファに座ってそれを受け取り、再び読書を始める跡部。
 樺地は、ソファ近くの床に直接胡座をかいて座った。芥川が出し散らかした本を手に取ってパラパラと眺め始める。
 優雅な日常の光景に見えなくもないが、芥川としては、また切ない疎外感を味わう羽目になっただけである。

「景ちゃーん。腹減ったよー」

 そう喚いてから、芥川は樺地の傍らに座り込んだ。こてんと寝転がり、樺地に膝枕をせがんで目を閉じるが、やはり眠くはなかった。

 時計に目を向けた跡部は、やれやれと小さく息を吐き出してから本を閉じる。
 時計の針が示す時刻は、午後一時四十分。
「何か食いたいもんあるか?」
「パスタパスタ!! 跡部、作って!!」
 ぴょこんと跳ね起きて楽しそうにしゃべり出す芥川を、跡部は微苦笑を浮かべて眺める。ようやく跡部が相手にしてくれたので、嬉しくて仕方がないようだ。
「失敗しても文句言うなよ」
「マジマジ? マジで作ってくれんの!?」
「お前がそう言ったんだろうがよ。っていうか、お前も手伝え」
「やるやる! 手伝う! うわぁ、何か懐かしいCー!」
 大はしゃぎの芥川の姿に跡部は苦笑を浮かべ、傍らの樺地は小さな柔らかい笑みを浮かべた。
「カルボナーラ作って!」
「面倒くさい。トマトソースで我慢しろ」
「具は入れてくれよー」
 嬉しくて口元がにやける。

 跡部が手料理を振る舞ってくれるのは、何年ぶりだろうか。
 芥川の家は自営業をしているおかげで、両親とも家を空けることが多かった。そのせいか、休みの日は必ず跡部の家に押し掛けていたように思う。
 幼稚舎時代、気が向いた時だけだが、跡部がパンケーキを作ってくれたこともあった。片面を必ず焦がしてくれるのだが、それでも美味しかったことを覚えている。
 跡部は、一見過保護な環境で育っているように見られがちだが、彼の両親はかなり放任主義だった。ただし、放任であるということは、己の行動には常に責任を持つことを意味している。 料理をすることを当たり前のように言えるのも、こういう家庭環境のおかげだろう。
 それに加えて、今日は跡部の家にはお手伝いさんたちがいないのだと言っていた。跡部の父親が先週から短期間の海外出張に行っており、母親もそれに付いて行っている。祖父母も海外へ行っているのだが、こちらはただの旅行らしい。
 普段、家の掃除や料理はお手伝いさんたちがすることになっているのだが、両親も祖父母もいない日曜日くらい自分で勝手にやるからと言って、跡部が無理矢理に暇を取らせたのである。
 こんな事は滅多にない。こういうときくらい、自由気ままに好き勝手に振る舞ってみたいと思うのが子供心というものだろう。

「おい、ジロー!」

「今行くってば」

 樺地と共に階下のキッチンに下りた跡部が、いつまで経っても下りてこない芥川を大声で呼ぶ。
 それに返事をしながら、芥川はテーブルに近付いた。
 テーブルに置かれた一冊の本。 時間も忘れて熱心に読み耽っていた本が何であるのか、興味を引かれていた。
 分厚い本を手に取りページを開く。予想通りに外国の本だった。
「何語だよ、これ…」
 パラパラと捲っている内に、その文字が英語ではないと気付く。文字の形から言って、ギリシャ語でもないだろう。そうなると、跡部が辞書を必要とせずに読める文字はドイツ語となる。
 本棚を眺めて、片隅に追い遣られてしまっている独日辞典を見付け出した。幼い頃の僅かな期間のみ使われた辞典は、今では跡部がその手に取ることも無くなっているのだろう。 その辞典を引っ張り出し、芥川は表紙に書かれている文字を探した。
「これ…か? ええと、Wirt…scha…ft…って、読めねぇ!」
 発音の仕方など、さっぱりである。意味は、経済とかそういうものらしいが。

「今日はゲーテじゃねぇのか」

 解読は表紙に書かれた単語の一部のみで飽きたらしい芥川は、面白くないという仕草でソファに寝転がった。

 哲学を好むかと思えば、経済に関心を持ったり。忙しいテニス少年がいたものだ。

「経済かぁ…」

 跡部家の家業や父親の職業を思えば、当然な事なのだろうか。
 芥川にはまだまだ遠い先の話に思えているのに。何だか、寂しい気がしてきた。
 自分は、今はまだテニスに夢中でいたいのに。跡部はそう言うわけにはいかないらしい。
 跡部は、いつだって先の先までを考えて動いている。
 いつまでテニスを続けるのかな。
 いや、生涯ずっと続けそうだけど、そうじゃなくて、いつまでテニスだけに本気でいられるのか。
 本気の勝負から、趣味のスポーツに切り替えられるのは、いつなのか。
 もしかしたら、その日は芥川が思っているよりも早く訪れるのかもしれない。
 卒業後の進路。
 経済を学ぶなら、米国か英国か。独国というのもあるかもしれない。
 彼は、いつまでテニスを中心に動いてくれるのだろうか。テニスが中心である限り、彼は側にいてくれるのに。
 夏が終われば、切り捨ててしまうのか。その後もまだ続いてくれるのか。
 聞いたら教えてくれるだろうか。

「ジロー!!」

 階下から跡部の二度目の怒鳴り声がした。
 いつまで経っても下りてこない芥川に対して、そろそろ跡部の忍耐力が切れかかっているようだ。

「おおっと、やべぇ。さっさと行かねぇと昼抜きだ」
 わざとおどけた様な口調で呟いてみるが、どうしても胃の底が冷えるような感覚だけは避けられなかった。

 気付きたくなかった現実。
 目を逸らしたかったのに。

「ジロー!! てめぇ、いい加減にしろよ!」

 ついに切れた跡部が怒鳴りながら階段を駆け上がってくる。
 慌てて独日辞典を仕舞い、急いでドアを開けた。
「うわっ。危ねぇだろ!」
 芥川がドアを開けるのと同時に跡部もドアノブに手を掛けていたらしく、危うく頭をぶつけるところだったようだ。

「てめぇが昼飯用意しろって言ったんだろうが。おら、さっさと来い!」
「すぐ怒るぅ。景ちゃん、カルシウム足りてないんじゃない?」
「誰のせいだ!?」
「俺のせいでーす」
「へらへら笑うな」
「へへへへ。良いじゃん。おっ昼はパスタ〜♪」
「………」
「パッスタパスタ〜♪」

 怪訝な顔をする跡部をあえて無視しつつ、芥川は即席のお昼の歌を歌い続ける。
 階段を下りようと手摺りに手を掛けた。しかし、そのまま動かない。動けない。
「おい。何やってんだ」
 苛立った跡部の声。
「あとべー…」
「何だ」
「行っちゃやだ…」
「行くって、どこに?」
「テニス止めるなよぉ」
「おい。お前は誰と話をしてんだ?」
 どうやら空想と現実をごっちゃにしてくれてるらしい芥川を、跡部は呆れたように眺めた。
「高校は氷帝に行かねぇの?」
「どっからそんな話になんだよ?」
「今日だって、難しい本ばっか読んでたじゃん」
「あー。つまり、お前は俺が留学すると思ってんのか」
「そうなんだろ?」
「まだ考え中だ」
「考えてはいるんだ…」

 やはり、留学するなら早い内が良いと言うことなのか。

 階段の手前で蹲った芥川は、悲しげに跡部を見上げた。

 壁に寄り掛かるようにして立つ跡部は、腕を組み遠くを見詰めるようにして言葉を続けた。

「留学っつってもな、色々とあんだぜ。オックスフォードの短期留学っつう手もあるし。俺様なら、ハーバードのビジネス・スクールでも良さそうだよな。飛び級があるから、半年か一年か、掛かっても二年だな。そのくらいでMBA取れる自信あるし。欧米で活動するのも有りだが、あえてこっちに残るのも面白いよな。テニスは当然続けるぜ。プロ顔負けのプレイを維持して文武両道で行くんだ。テニス界と財界でトップに君臨―――」

「…………」

 どうやら、自分は目の前の男が跡部景吾だと言うことを忘れていたらしい。

 芥川はいきなり立ち直った様子で、しっかりした足取りで階段を降り始める。

「あとべー。寝言の途中で悪いんだけど、俺、腹減った」
 振り返って、跡部にそう声を掛けた。

 芥川と跡部。それぞれの悩む意味合いが、根本的に違っているようだった。

「おい。お前が振った話題だろ。最後まで聞け」
「悪りぃ。三分の一も理解出来ねぇ」
「…頭悪すぎだ、ジロー」
「うーん…。でも、跡部の寝言が理解できなくても、別にいいや」

 二度も寝言と言われてしまった跡部が非情に不機嫌な表情を浮かべたが、芥川は気にすることなくキッチンに向かった。

 キッチンでは、すでに樺地がパスタを茹で始めているようで、仄かな香りが漂ってきていた。

「うわっ。美味そうな匂い! かっばじー! パスタ上手く茹でてる〜?」
「ウス」
「おい、ジロー! お前が悩んでるみたいだったから、わざわざこの俺様が話を聞かせてやったのに、何だその態度は!」
「跡部見てたら、悩むの馬鹿らしくなったから、もういいや」
「どういう意味だ!?」
「言葉通りだけどー?」

 すっかり立ち直った芥川は、ご機嫌に樺地に飛びついた。
 芥川をしがみつかせたまま、樺地は動じることもなく淡々と料理を作っていく。

「跡部も手伝えよなぁ。結局、全部樺地が作ってんじゃん」
「お前を呼びに行っていたせいで作れなかったんだろうが!」
「そうだっけぇ?」
「だいたい、今日のお前は何なんだ!? おかしいにも程があるだろ」
「そうかぁ? 跡部に比べれば普通だろ?」
「だから、どういう意味だ!?」
「跡部ぇ。怒りっぽいと老けるぜー」
「お前が怒らせてるんだろうが!」

 ぎゃんぎゃんと怒鳴り散らす跡部の声を聞きながら、芥川はケラケラと笑い続けていた。

 この先、お互いにどのような道を選ぼうとも、跡部はどこまでも跡部なのだろう。そう気付いた事で、いずれ訪れるだろう決別の時も怖くはないように思え始めていた。

 彼の前では一時の別れなど、たいした意味も持たない。
 樺地がまったく動じないのは、そのことに早くから気付いていたからなのかもしれない。

 テニスも続ける気満々のようだし。

 むしろ、今後が楽しみにさえ思えてくる。

 今後は何をやらかしてくれる気なのか。

 楽しい幼馴染みを持ったもんだと跡部が聞けばまた怒りそうな事を考えながら、芥川は樺地の作るミートソースの味見をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

2006.4.9
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途中でラストの展開を変えてしまったので、流れが少々おかしいかも。

しかし、私の書く跡部はどこまでも庶民くさい…。

実は、ジロさんを動かすのが苦手です。めちゃ好きなのに、上手く書けない。
黒いのか白いのか判断付かないし、天然系ってキャラが掴めないのですよ。
私的には、Mさんの書かれる無邪気なジロさんが理想です。

 

 

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