初夏の陽差し

 

 

 

 

 

 

「ゲームセット! ウォンバイ越前。ゲームカウント6-4」

 試合終了を告げるアナウンスが響き渡った。

 泣き崩れる日吉とそれを支える宍戸の姿。その側に佇んだまま、泣き出しそうになるのを必死に堪える鳳や向日たち。

 歓喜に溢れる青学サイドと沈痛な静寂に包まれる氷帝サイド。

 選手の整列。
「礼」の掛け声と共に一斉に頭が下げられる。
 選手退場。
 静かに歩き出す選手たち。
 氷帝の空気が伝染したかのように、青学サイドまでもが異様なほどの静寂に包まれてしまう。
 その光景に、跡部は微苦笑を浮かべた。そして、徐に腕を掲げ、指を鳴らす。
 それに反応した氷帝の応援席から「氷帝コール」が巻き起こる。
 それを背に退場していく氷帝選手。驚き、そして、呆れとも感心とも取れるような表情を浮かべて氷帝を見送る青学の選手たち。
 負けても尚、王者たる態度を示し続けた氷帝に、会場からも惜しみない拍手が送られていた。

 

 

 悔しさと負けたショックから口数が少なくなっていく後輩たち。悔しくても涙を堪え、先輩だからと今にも壊れそうな笑みを浮かべてわざとふざけあう三年生。
 そんな帰りの列車の中で、跡部は部長としての勤めを淡々とこなす。
「お前ら、もう少し静かにしてろ」
 帰宅ラッシュの時間では無いにしろ、車両の中にはそれなりの人数が乗り込んでいた。一般人の邪魔にならないようにと注意をしながら、自分の降りる駅へ到着するのを待つ。

「あーあ。俺ら、もう引退やで。夏まで忙しい思てたんやけどなぁ…」
 独り言のように呟かれた忍足の言葉に、向日がぴくりと反応した。
「はははは。久しぶりに夏休みを堪能、できる…じゃんか…」
「うわ。何、泣いとんの。俺が悪かったわ。いらんこと言うてもうた」
 強がりを言いかけて、結局堪えきれずに向日は涙を零してしまう。そんな向日を忍足がわたわたと慰めに掛かった。
「クソクソ侑士! お前のせいだかんな! せっかく立ち直り掛けてたのに!」
 泣いてしまったことの責任を忍足に追及する向日は、手加減無しで忍足に反撃をしていく。
「ちょお、待ち。痛いっちゅうねん! だから、悪かった言うてるやん」
 クスクスと周りから笑いが零れる。
 いきなり始まった馬鹿騒ぎに、ぎこちない空気が少しずつ解けていくようだ。
 何となく注意する気になれずに、跡部はその騒ぎを放置した。
 鳳も、泣き笑いのような顔で二人の取っ組み合いを見詰めている。日吉は、依然俯いたまま、顔を上げようとはしなかった。


 跡部と樺地が降りる駅へと列車が入っていく。
 樺地が自分のテニスバッグと跡部のテニスバッグを抱え、ドア近くに立つ跡部の後ろにそっと控えた。
「あ、跡部、お疲れー」
「お疲れさまでしたぁ」
「ああ。今日はゆっくり休めよ」
「うぃーす」
 同じ車両に乗り合わせたテニス部員たちと挨拶を交わしながら、列車から降りる。

 最後まで余裕の笑みを浮かべていた跡部は、ここでふっと表情を崩した。再び走り出した列車を見送りながら、隣に立つ樺地へと向けて呟く。
「無理させて、悪かったな」
 いきなりそう言われて、樺地はキョトンとする。今日の無効試合となったゲームで痛めた右手のことだと気付くのに数秒掛かった。
「平気、です…」
 そう返事をすれば、いつものように皮肉めいた笑みを浮かべる。
 踵を返し、改札へと向けて歩き出す跡部の後ろ姿をぼんやりと見詰めた。すぐに跡部が振り返り、「行くぞ」と声を掛けられる。「ウス」といつものように返事をしてから、樺地はゆっくりと歩き出した。

 初夏の陽差しは、真夏日と変わらないほどに強くギラギラとしていた。落ち込むことも許さないかのように、容赦なく照りつけてくれていた。
 夕暮れ間近でありながら、気温は下がることを知らないかのようだ。

 先を行く跡部。最後まで余裕の姿勢を崩すことが無かったその姿。

 一度も表情を崩すことの無かった跡部のことが、今の樺地には気掛かりだった。

 

 

 

 夏休みまで、まだまだ日にちがある。
 いつものように学校に来て、授業を受けて、部活に出て。
 三年生のいなくなった部活。
 先日、引継が行われた。
 部長には日吉。副部長というものが存在しない氷帝だから、部長のサポート役として樺地と鳳が命ぜられた。
 宍戸は暇があれば部活に顔を出して練習に付き合ってくれている。
 昨日は、忍足と向日も遊びに来てくれた。文字通り、遊びに来ていた。
 引退した気安さからか、適当に打って楽しんでいた。

 関東大会の緒戦で敗退したあの日以来、跡部とは数回しか顔を合わせていない。
 当然のように週の半分は朝練のある樺地と違い、一般生徒と同じ時間に登校するようになった跡部。
 引退後も自主トレは欠かしていない跡部だから、早朝のロードワークの時に運が良ければ一緒に出来た。
 しかし、それ以外で顔を合わせるのは希だった。
 口数が減った跡部。苛立ちを隠すようにトレーニングに打ち込む姿を何度も見かけた。見かけたが、樺地には声を掛けることを躊躇わせ続けた。

 抱える鞄が一つになった。
 斜め前を歩いて行く背中が見えない。

 些細な事で、一人歩くことの虚しさを思い知らされた。
 まだ、あの人の後ろを歩いていたかった。
 これからも変わらずそうしていけるのだと、思い込んでいた。
 こんな唐突に全てが変わってしまうなんて、思いもしなかった。

 全力で戦った、悔いの無い試合だったのではないのか。
 何故、こんなにも彼の心を掻き乱す。何故、今も尚、皆の心をあの日に留め続けさせる。
 跡部は、何を求めているのだろうか。跡部が欲するのは、何であるのか。

 関東大会の緒戦で負けが決定したあの瞬間でさえ、表情を崩すことの無かった跡部の強さ。部員たちを前にして表情を崩すことを己に許さなかった、強がりという名に隠された弱さ。

 あの時、自分は跡部に何かを言うべきだったのだろうか。

 あの日、自分たちはテニスコートに何か大切な物を落として来てしまったのだろうか。


 もう一度、青学と試合が出来たなら。
 無理な話だと判っているが、その思いが頭を離れなかった。

 

 

 

 それは、唐突に訪れた。

 関東大会も終わり、八月の全国大会まで後一週間という時になって、前テニス部レギュラーに監督の榊から連絡が入った。
 全国大会の開催地枠に氷帝学園が推薦された、という内容の知らせが、全員の元に届けられたのである。

 喜びと同時に沸き上がる戸惑い。
 一度はこの手で失った全国への切符。それが、こんな形で手に入れることになるのか。
 他人の手によって与えられるものに意味はあるのか。

――それだけの評価を得ていた証拠ですよ。

 それでも、純粋に一般部員たちは喜んだ。
 皆が期待を込めて叫び続けてくれていた。
 それに応えない理由を、思い浮かべることは出来なかった。



「開催地枠って、なんやねん。っちゅうか、知らせ入るの遅すぎやろ」
「全国まであと一週間だぜ?」
「ありえねぇよな」
「俺ら引退した気でいたから、真面目に練習してねぇし」
「やっべぇ。ブランク埋められるのか?」
「先輩達、暇だとか言いながら、毎日のように部活に出てきてたじゃないですか。問題ありませんよ」
「あっはっはっは。何か、いきなりテニス止めるのも変な感じだったから」
「クソ真面目にトレーニングしててマジ良かったな」
「……青学とさ、また戦えるんだ」
「…ああ」

 どこまで素直に喜べば良いのか判らず、戸惑い気味な会話を繰り返す。
 今は、ただ。再びあの青学と戦えるチャンスを得られた事に、喜びを見いだそうとする。

――行くからには、頂点を目指すぞ。

 判ってはいるのだが、それでも、どうしても、意識は青学へと向かってしまう。

 思っていた以上に、彼らとの対戦は自分たちへ多大なる影響を与えていたようだ。


 部室のドアが開き、跡部が顔を出した。

「テメェら、こんなところで油売ってる暇があるんなら、テニスボールでも追っかけろ」
「へーい」
「行こうぜ。練習練習っと」
「スパルタで行くぜ。一週間もありゃ試合勘取り戻すのに十分だろうが」
「もっちろーん!」
「お手柔らかに頼んます、ブチョーさん」

 顔を見合わせ、それから吹っ切るように笑い合った。

 わいわいとテニスコートに繰り出す三年生の後を、二年生レギュラーは続いた。


 樺地は部室に残り、跡部が動くのを待つ。
 何故か、懐かしそうに部室を眺める跡部の姿。それから、樺地に向き直り微苦笑を浮かべた。
「お前の顔見るの、すっげぇ久しぶりな気がするな」
「…ウス」
 やっと、樺地の知る跡部の顔を見ることが出来たように思えた。感極まって、泣きそうな気分だ。

 あの日以来、鋭く研ぎ澄まされた空気を纏っていた跡部は、樺地をも拒絶していたように思えた。
 自分の知らない跡部の顔。鋭く冷たい眼差しに耐えられず、樺地は声を掛けることを躊躇い続けてしまった。

 良かった。また、自分の好きな跡部と会うことが出来た。

 跡部が緊張を解すように大きく息を吐いた。それから、樺地の肩に額を押し付ける。
「少しだけ、肩貸せ」
「ウス」
 顔を見られないように俯けたまま、跡部は樺地の肩に寄りかかる。

 自分が今、泣きたいのか笑いたいのか、よく判らなかった。
 あの大会の後、鳳や日吉、向日の様に泣ければ良かったのかもしれない。辺り構わずに泣きじゃくれば、少しは感情の整理も出来たのかもしれない。
 けれど、跡部は最後まで余裕の姿勢を崩さなかった。決して、取り乱すことなく、冷静で有り続けた。
 日常に戻れば、行き場を失った力と感情を持て余し、苛立ちの中で過ごした。
 頭では判っていても、感情がそれに追い付いて来ない現実。
 理性と感情が、上手く一致しないもどかしさ。
 泣くことが出来たなら、少しは楽になれるのかもしれないと思ったのだが。
「あー。駄目だ」
 樺地の肩に額を押し付けた体勢のまま、跡部が呟く。
 何となく、跡部の言いたいことを理解していた樺地は、そっと幼い子供をあやすようにその頭を撫でてやった。
 跡部がくぐもった笑いを零す。それから、甘える子供の様に、その肩に顔を埋める体勢を取った。

 幼い頃から大人であることを求められた家庭環境。それを当然と受け入れてきた自分。
 誰よりも強く、気高くあることを望んだ自分。
 そんな生き方を選んできた代償なのだろうか。

「どうやって泣けば良いのか、忘れちまったな…」

 肩に顔を埋めたまま、跡部はそう呟いた。

 その言葉に樺地の方が泣きそうになる。

 泣きたいときに泣けないというのは、やはり、苦しいものではないのか。
 どうしようもなく溢れる感情を抑えるように、目の前の細い背中を抱き締める。
 跡部が、やはりくぐもった笑いを零していた。



「泣くのは、全国が終わるまでお預けだな」
 そういって、跡部は笑う。



 きっと、跡部のことだ。全国が終わっても決して泣くことはしないだろう。
 でも、大丈夫。
 あなたが泣けないと言うのなら、その代わりに俺がたくさん泣きますから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2005.8.12
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原作の「氷帝狂詩曲」の回で、跡部の側に樺地がいなかった理由を捏造しようとして、半端に失敗した感じですか…。
というか、関東大会の決勝は樺地と共に見に来てましたね、跡部。そのことに今気付いた…。

まあ、樺跡が書きたかっただけなんですけどね。ラブラブな感じの樺跡。
ちっともラブラブになってくれなかったけど。
跡部の苛立ちの原因とか心理描写が半端に終わってしまっててすみません。途中、手塚について跡部に語らせようとかと思ったけど、話が跡塚になりそうだったから端折りました(笑)

あ〜。ほのぼのした優しい樺跡が読みたいなぁ…。

 

 

 

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