バースディプレゼント

 

 

 

 

 

 

 

 十月三日。
 明日は跡部景吾の誕生日である。
 しかし、明日は色々と企画が立て込んでいて跡部は忙しいと聞いた。忙しい日に、わざわざ荷物を増やすのも気が引ける。

 プレゼントを渡すのなら、今日の部活の帰り際が最適だろう。

 一晩考えてそう結論を出した樺地崇弘は、この日の為にコツコツと作り続けてきた新作のボトルシップを前もって用意していた可愛らしい紙袋に仕舞った。
 紙袋の中には大量の細長く切った紙が緩衝材として入れてあるが、取り扱いには十分に気を付けることに限る。
 本来なら、誕生日の夜に跡部宅に届けに行くのが一番なのだが、今年はそれが敵わないようなので仕方が無い。
「ウス」
 気合いを入れるように一人呟いた。それから、スポーツバッグを担ぎ、ボトルシップの入った紙袋を手に樺地は部屋を出る。
 居間に顔を出して、家族に「行って参ります」と挨拶をしてから学校へと向かう。

 数歩行ってから、ふと立ち止まり、静かに振り返った。跡部の屋敷が見える。今日は迎えに行かなくても良い日だ。だから、まっすぐに学校へ向かうだけ。

 肩が軽い。

 今は、朝練のある日は跡部とは別行動になるので、それが少し寂しく感じる。
 この感覚は、跡部が幼稚舎から中等部に上がった時以来なので、約三年ぶりになるのか。味わうのは二度目だが、やはり慣れそうにない。

 不意に、クラスメイトから「やっと楽になったな」と笑いかけられた時のあの奇妙な感情を思い出して、俯いた。

 楽になるって何だろうか?

 元々、辛い感情なんて持って無かったから、よく判らない。
 皆の言う意味が分からない。

 楽になるって、何のことだろう…?

 どうして、跡部の側から離れたことを皆は喜ぶのか。

 どうして…?

 判らない。判りたくない。

 早く。早く、放課後になればいい。
 放課後になれば、部活が始まる。部長職の引継がある跡部は、引退した今も頻繁に顔を出してくれている。これを渡せる。
 早く、テニスがしたい。ボールを打ちたい。跡部の側に立っていたい。

 顔を上げ、背後の跡部邸を見上げ、「ウス」とまた呟く。

 気を取り直すように一人頷いてから、樺地は歩き出した。

 

 

 

 樺地は部室のソファに座って、穏やかに微笑んでいた。
 傍目にはそう見えなくとも、確かに樺地は心から笑顔を浮かべていた。
 樺地の微妙な表情の変化に気付くことが出来る貴重な人材の一人である鳳は、樺地が大事そうに両手で抱えているガラス瓶を見詰める。

「それ、跡部さんに?」
「ウス」
「新作?」
「ウス」
「樺地、楽しそうだな」
「…ウス」

 照れたように少し俯いて、それでも返事をする。

 ちょうど側にいた新レギュラーである二年生の一人が驚いた顔をして振り返った。

「樺地は、それ、楽しんでんの…?」
 三年生が引退した後にレギュラーの座に就いた部員の中には、樺地の特性をまだ理解しきっていない者も多いのである。感情の微妙な変化に気付けるようになるには、もう少し時間が必要とされるように思われる。

 樺地の喜怒哀楽を即座に読み取れるようになった時、お前は立派なテニスプレーヤーになれると宣言していた先輩は誰だっただろうか。

「えー? 何言ってんだよ。どう見ても樺地は笑顔だろ。なあ、樺地?」
「ウス。楽しい、です」
「…え? 笑顔、なんだ…。そっか…」

 今まで樺地と親しく話す機会も無かった部員は、必死にその表情を観察してみた。
 言われてみれば、楽しそうに見えなくもない。

「やっぱ、難しいな…」
「?」
「ウス?」


 部活開始までに、まだ少しの時間の余裕が有るせいか、皆、いつもよりのんびりとした動作で着替えを進めていた。
 おそらく、コートではすでに一般部員の手によって準備が完了していることだろう。

「おい。レギュラーになったからって余裕かましてんじゃねぇぞ。用意が出来たらすぐにコートに出ろ」

 新部長の日吉が勢いよく部室のドアを開け、中に向かって声を張り上げる。

 いきなりの事で驚いた部員が一瞬だけ凍り付いたようになり、それから、大慌てで着替えを済まし全力でコートへと駆け出して行った。

「鳳、樺地。お前らもだ」

 日吉の鋭い視線に怯むこともなく、鳳はマイペースに着替えを進めながら日吉に笑いかける。

「わあ。日吉もすっかり部長っぽくなってきたな。雰囲気が跡部さんに似てきたんじゃない?」
「ああ? くだらねぇ事言ってないで、さっさと着替えろ」
「そういうところが似てるって言ってるんだよ」
「黙れ、ノーコン」
「なあ、樺地もそう思うだろ?」
「…ウ――」
「樺地、答えなくていい。黙ってろ」
 答えかけた樺地のセリフをシャットアウトし、日吉は益々不機嫌な声を出す。
「うわ〜。日吉部長こわーい」
「黙れと言ってるだろ」
「はいはい、判りました」
 これ以上続ければ、確実に日吉の機嫌が悪化するという寸前で鳳はようやく口を噤んだ。

 半端に和やかで半端に緊張感があるような、奇妙な空気の中、樺地もやっと着替えるために立ち上がる。

 その時、日吉が開け放っていたドアの向こうから、誰かが顔を覗かせた。

「なんや、揉め事かいな? せっかくのお友達なんやから、仲良うせなあかんで」

 今ではすっかり聞き慣れた関西方面のイントネーションと低めの声。先月に引退したばかりの三年生で元レギュラーだった忍足だと振り返らずとも判る。

「揉めてなんていませんよ。それより、何か用ですか先輩。跡部さんならまだコートで監督と話をされていますよ」
「相変わらず刺々しい物言いをするやっちゃな…」
「それはすみませんねぇ」
「もうええわ。それより、俺が用があるのは樺地やねんから」
「ウス?」
「そう、自分や」
「ウス」
 着替えの途中で樺地が振り返り、忍足を不思議そうな眼差しで見詰め返す。

 引退した身でありながら我が者顔で部室に入り込んだ忍足は、ソファ脇に置かれたガラス瓶をそっと持ち上げる。それを見て、樺地は少しだけ心配そうな顔をした。
「別に割ろうなんて思うてへんから。そないに警戒せんどいてぇな」
 露骨に心配されてしまった忍足は、「ほんま、へこむで」と落ち込んだ振りをしてみせる。

「これ、跡部に渡すつもりなんやろ?」

 手にしたガラス瓶を軽く持ち上げてそう確認する。
 着替え終えた樺地はきちんと忍足に向き合ってから頷いた。

「相変わらず、よう出来とるな」

 ガラス瓶の中に細やかな船舶が組み立てられた美しい姿のそれは、樺地の趣味の一つであるボトルシップだった。

 丁寧な手付きでゆっくりとその出来栄えを鑑賞しながら、忍足は樺地に微笑み掛ける。

 そのあまりに善人じみた笑顔が、日吉には胡散臭いものに思えて仕方がないのである。こういう笑い方をするときは、決まってろくでもない考えを持っているときだと、僅か一年ちょっとの付き合いで見抜けるようになってきた。

「先輩。用が無いなら、跡部さんのいるコートに行って来たらどうですか」

 樺地に妙なことを言い出される前に追い出してやろうと試みるが、この程度の事で動じる忍足でもなかった。

 日吉の言葉に聞こえない振りをし、樺地に向かって尚も笑い掛ける。

「毎年、同じ物を渡すだけやったら跡部も飽きる思わへんか?」
「…ウス?」

 言われた言葉の意味を完全に把握するまでに、数秒を要した。
 樺地が困惑したように俯いてしまう。

 何を言い出す気なんだ、この人は。

 鳳が心配そうにそわそわしているのが判る。
 日吉も「誰か、こいつのご主人を呼んで来い」と言いたい気分だった。こういうときに限って、他の部員全員をコートへ追いやってしまっているのだ。一人くらい残しておけば良かった。

「あの、忍足さん…」
 鳳が何か言い掛けるも、わざと遮るように忍足は言葉を続ける。
「なあ、樺地。たまには、行動で愛情を示してやっても誰も怒らへんよ?」

 愛情!?

 鳳と日吉が呆れと通り越して呆然と立ち竦む。

 樺地は、その言葉の意味を理解しようとじっと忍足の顔を見詰めた。

「それ渡すときにな、こうやってみ。跡部のやつ絶対に喜ぶで」

 樺地をしゃがませ、そっと耳打ちする忍足を止めることも出来ずに鳳と日吉は部室の隅で突っ立っていた。

 数分後、「善は急げやで」と急かされた樺地が、一体何を言われたのか真面目くさった顔をして部室を出て行った。


「先輩、樺地に何を吹き込んだんですか?」
「人聞きの悪い言い方せんどいて。樺地に愛のレクチャーをしたやっただけやねんから」
「……」
「愛…って」

 鳳と日吉は顔を見合わせ、それから急いで樺地の後を追い掛けることに決めた。

 

 

 コートに入ってすぐに観戦席に目をやり、跡部の姿を探す。
 観戦席の最上部で監督の榊と何やら熱心に話込んでいる姿を発見した。そこに向かって行く樺地の姿も。
 先ほどまでその場に日吉もいたので、跡部が部長職の引継の事で話していることは判っていた。そんな真面目な話の場に、忍足からおかしな事を吹き込まれた樺地を行かせるわけにはいかない。
 二人は全速力で観戦席に駆け上がった。

「樺地、やめろ。何をしたいのか知らねぇが、そう言うことは帰ってからの方が良いぞ!」

「忍足さんの言うことを真に受けるなって」

 純粋といえば純粋。ただし、こうと決めたら生半可な事では意見を曲げない生真面目さも持ち合わせている樺地。
 もはや、忍足の言った「跡部も喜ぶ」ということを実践する気でいるのが目に見えていた。

 やはり、忍足に関節技を掛けてでも話を阻止するべきだったのだ。

 日吉は心底悔やんだが後の祭りだ。

「樺地、やめろって!」

 日吉の制止などまったく聞こえていないのか、樺地は黙々と跡部目指して歩き続けた。

 厳しい表情で話を続けている跡部と榊の側に樺地が立ったとき、日吉と鳳はまだ観戦席の中間の位置にいた。

 間に合わない。

 樺地が側に来たことに気付いた跡部が振り返る。

「…どうした、樺地?」
「ウス。…これを」

 そう言って跡部にボトルシップを差し出す。去年は箱に入れて包装までしたのだが、今年はボトルに直接水色のリボンを巻いて飾り付けられていた。

 それよりも、何故、部活中に渡しに来るのかが判らず、跡部は眉間に皺を寄せる。

「ああ、ありがとよ。しかし、今は忙しい。後で受け取――」

 跡部の言葉が途中で途切れ、周囲でどよめきが起きた。
 樺地の巨体に抱き竦められた跡部は、樺地によってその唇をも塞がれてしまっていた。早い話が、キスされていた。
 真横にいた榊もさすがに唖然としたまま咄嗟に動けなかったようである。

 日吉と鳳も最上部に到達する寸前でその光景に出くわしてしまい、立ち尽くすしかなかった。

 遠い所から誰かの馬鹿笑いが聞こえてきていた。誰のものかなんて、振り返らなくても判る気がした。

 跡部が樺地の腕から逃れようと藻掻くものの、がっちりと抱き締めてくれているおかげでびくともしない。唇は依然塞がれたまま。文句を言うことも敵わない状態だった。
 最終的に自由になった右足で思いっきり樺地に蹴りを入れることで跡部は樺地から解放される。
 手加減無しで蹴りを入れられてしまった樺地は、困った様に首を傾げた。

「お前、何をしている?」
「…良く、なかった、ですか?」
「――……」
 この場合、何に付いて「良くない」と聞かれているのか、一瞬判断が付かなかった跡部は二の句が継げずに固まってしまった。
 冷静に考えれば、樺地がキスに付いて良かった?などと聞いてくるはずもない。そうなると、どう考えてもキスそのものではなく、それを含めた一連の行動について聞いていると分かるものだが、その事に行き着くまでに跡部はかなりの時間を要してしまった。

「お前とは、後でゆっくり話をしよう」

 引きつった笑顔を浮かべつつぽんっと樺地の肩を叩いた跡部は、視線を下方へ向けた。
 視線の先には日吉と鳳。

「誰が樺地にくだらねぇ事を吹き込んだ?」

 樺地にこのような行動を起こさせた原因が何であるのかをすでに見抜いてしまったらしい跡部は、恐ろしい形相で後輩二人を睨み付ける。

 声も出ない鳳が必死に首を振り、自分ではないと訴えた。その横で、日吉が慌てることもなくコート入り口で笑い転げている三年生を指さしてみせる。

 コート内では、観戦席でいきなり始まった樺地と元部長のラブシーンに今もざわめいたままだったが、跡部が睨むように見据えれば、慌てて視線を逸らして練習を再開する。

「監督…」
「何だ?」
 どうすべきか考えた末、榊はいつも通りな態度でいることに決めたようである。
「話は、また後日で宜しいでしょうか?」
「ああ…、構わん」
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げ、それからコート入り口にいる元レギュラー部員に視線を固定した。

 忍足は跡部の取るであろう行動の先を読み、即座にコート外へ向けて駆け出して行く。

「やっぱりテメェの仕業かっ!」

 ほぼ同時に跡部も恐ろしい早さで観戦席を駆け下りて忍足を追った。

「待ちやがれ!」
「待て言われて待つアホがおるかいな」
「待てっつってんだよ!」
「あっはっはっはっは!! 今日はほんまにええもん見させてもろたわ」
「てんめぇ、今日こそその息の根止めてやるっ」
「どないやった? 樺地は気持ち良うしてくれたか?」
「やかましい!」

 大声で喚きながら疾走していく二人に、校内に残っていた生徒達が驚いて道を開けていく。

 

 

「び、びびった…」
「本当にやるとはな。樺地、侮れねぇ」


「跡部さんは、どうして、怒ったのでしょうか?」

 まだ、自分の取った行動の意味を把握していない樺地が、本当に困った様子で榊に尋ねていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2005.10.14
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Mさんに言われて気付きましたが、私の書く日常話では、忍足の悪知恵のせいで跡部がえらい目に遭うというパターンがよくあるようで(笑)

跡部と忍足は親友と言うより悪友というイメージがあるせいかな。


ちなみに、私の理想とする樺跡は、兄貴肌な跡部と純粋無垢な少女のような樺地。(少女!?)


その後の話

 

 

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