才能〜前編〜
中学二年の春。
これからずっと、全国大会を目指しての試合の連日となるはずだった。
けれど、通っていた学校は地区大会で敗退してしまった。個人戦の成績も芳しくない。
忍足侑士は「はああ…」と空を見上げて大きく息を吐き出す。
「こんなんでテニス続けてもええんやろか…」
昔から、何をするにも器用な方で、適当にやっても周りの人間より上手く出来ることが多かった。
何をやってもある程度は苦労無く達成出来るのだ。
全てにおいて秀でている。 人間関係でも、差し障りのない態度で上手く立ち回れる性質。苦手な相手でも、適当に流せる。
裏を返せば、何をやっても長続きしない。
それは、突出した才能が無い事と同じではないのかと、思えて仕方がなかった。
テニスを始めたきっかけは何だっただろうか。
ああ、大したきかっけでもないか。
同い年の従兄弟がテニスを始めたというのを聞いて、「じゃあ、俺も」というその場のノリだった気がする。
やってみれば、テニスも意外と面白いと思った。 バスケやサッカーと違い、完全な個人競技だから周りに気を遣うことなくプレイ出来るというのも良かった。
やはり、初めて一年足らずでメキメキと実力を伸ばし、気が付けば、部員の中で一番強くなっていた。
――俺が強いんやなくて、周りが弱すぎるんや。
弱過ぎて相手にならないと思った。
練習相手としては、あまりにお粗末過ぎる仲間達。
言いようのない苛立ち。
仲間達を、無意識の内に見下してしまう。
せめて、従兄弟と同じ学校だったら良かったのに。
親の意向とはいえ、同じ学校へ進まなかった事が悔やまれる。
また、同じ事の繰り返しか。
ある程度までは簡単に行けるのに、それ以上先には決して進めない。
何度も同じ壁にぶつかってきた。
何でも簡単に出来てしまうから、情熱もすぐに冷めてしまう。
競う相手もいないから、あからさまに手を抜いてしまう。
何をするにも、本気になれない。
誰かが言っていた。天才というのは、努力することを苦痛に感じない人間のことをいうのだと。努力することが出来る人間が天才と呼ばれるのだと。
そう考えると、自分は才能無いのと同じだ。
深々と溜息を吐く。
「忍足君だね?」
「はい?」
いきなり声を掛けられ、びっくりして振り返った。振り返って、思いっきり顔を顰めてしまった。
――なんや、このおっさん。胡散臭いにもほどがあるやろ。
薄いクリーム色のスーツを着た、見るからに派手な印象を与える中年の男が薄い笑みを浮かべて忍足を見つめている。
「ナンパなら他あたってください」
すっぱりと言い放ってやる。
和風な美人だと言われる事の多い容姿。時折、女と間違われてナンパされることもあった。
その類だと思ったのだ。
派手な中年男は、いきなり笑い出した。
「なんや?」
「はっはっはっは。面白い少年だな。いや、いきなり失礼した。私は東京の私立中学校で教師をしている榊という」
「教師!?」
――東京っちゅうのは恐ろしいところやな。こんなホストクラブのオーナーみたいのが教師かいな。
「東京のセンセが僕に何用ですか?」
「君をスカウトに来た」
「はい?」
「親御さんとも、学校側とも話は付けてある。後は、君の判断次第だ」
「あのぉ。なんや、話が見えへんのですけど…」
「今、君のお母さんも来ているから、一緒に来なさい」
「へ? どこへですか?」
「職員室だ」
「職員室? おかんも来てる?」
「そうだ」
「はあ??」
何がどうなってるのか、さっぱり判らない。 呆然としていると、部活の顧問がやって来て「忍足、早く来い」と急かされた。
いきなり、テニス特待生として東京の学校に来ないか、などと言われても困るというものだ。
父親は「こんなチャンス滅多にあらへん。人生勉強や思うて行ってみるのもええんとちゃうか」などと言ってくれた。
翌日の日曜日。
朝っぱらから、榊が忍足の家までやって来た。 何事かと思えば、彼の教え子が大阪で行われているジュニア大会に出場しているので、一緒に見に行かないか、というお誘いだった。
榊がこの時期に関西にいたのは、出張のついでにその教え子の試合を見る為だったらしい。
特にすることもなかったので、承諾した。
忍足の事は、昨年の新人戦の時に初めて見たのだと、車の中で榊が教えてくれた。
今年の地区大会の結果も聞いているらしい。
「このまま終わらせるのは惜しいと思ってね。学長と話した結果、君の特待生としての編入の了解を貰ったのだよ」
「了解って…。俺が断るかもしれへんのに?」
「その時は、あの話は白紙に戻りました、と報告するだけだ」
「さいでっか」
会場は、多くの人で溢れていた。
それもそのはずで。 この日に行われていた大会は、世界ジュニアの大会だったのだ。
出場選手の知り合いだからなのか、それとも、何かコネを持っているのか。正面の入口ではなく、スタッフ専用の裏口から入らされた。 入場料金を払った気配もない。
「何者やねん、このおっさん」
観覧席に行くと、またも、スタッフらしき人が案内してくれて、最前列の特等席としか思えない場所に座らされた。
もう、突っ込むのも面倒になってきた。
丁度、試合の真っ最中だったようで、榊がコートを指さし教えてくれる。
「跡部景吾。君と同い年だ。我が部の来期の部長となるだろう」
「えらい別嬪さんやな…」
「見た目に惑わされると、痛い目に遭うぞ」
「痛い目ですか?」
そんな会話をしながら、試合に目を向ける。
三セットマッチで、今、第二セットに突入したようだ。 スコアボードを見れば、跡部という少年が6-1で第一セットを取ったことが分かる。
「あいつ、強いんやな…」
的確に相手の動きを読んでボールを叩き込んでくる。
華奢な外見とは裏腹に、繰り出すショットには相当な重みがあることが見ていても分かる。
スタミナもパワーもかなりのものだ。 そして、恐ろしいほどに足が速い。
「興味は沸いたかね?」
榊がそう聞いてきたが、忍足には聞こえていなかった。
周りの音を完全に遮断し、試合観戦に集中してしまっている忍足を眺め、榊は満足気に微笑する。
忍足侑士という少年は、非常に優れた才能を持っていると榊は確信していた。
今回の試合成績は良くなかったようだが、それは、恐らく周りの仲間達のテンションに引きずられたという印象がある。
流されやすい面が有ることは否めないが、それでも、彼に合った環境を与えてやれば問題は無かったはずだ。
彼の不運は、周りの人間が彼の才能に気付かなかったこと。
練習相手の不足で、才能を伸ばすことが出来なくなっていること。
己の長所と短所を知り、それに正面から向き合える精神状態を作ることが出来れば、彼は確実に伸びるだろう。
忍足は、息を詰め、手を堅く握りしめて、試合に見入っていた。
椅子に座っているのに、足が小刻みに震える。
跡部景吾。
これほどのプレーヤーが同い年というのか。
惚れ惚れするほどに、彼のテニスは見事なものだった。
オン・ザ・ラインが立て続けに決まる。
偶然ではなく、わざと狙ってライン上に落としていると忍足は理解した。
立て続けに決めることで、相手選手にプレッシャーを与えているのだ。
「嫌がらせにしか思えんプレイやな…。あんな状態でもラインの上に落しよるわ」
完璧と言っても良いほどのコントロール。じわじわと相手を追い詰めていく試合運び。
――おもろいやっちゃなぁ。
自分もあそこに立って、彼と試合をやってみたい。
そんな思いが脳裏をよぎる。
これほどに昂揚する気分を味わうのは、生まれて初めてだった。
彼と試合が出来たなら、少しはテニスを楽しめるようになるだろうか。
「こんな奴がおるなら、東京に行くのもええかもしれへんな…」
自分でも気付かない内に、忍足は唇の端に笑みを浮かべていた。
帰宅後。両親に東京の氷帝学園に編入する気になったことを告げた。
どうやら、両親は忍足が嫌がっても無理矢理行かせるつもりでいたようで、それを知った忍足は思わず文句を口にする。
「チャンスは大事にせなあきまへん。それに、そのいい加減な性格直すにも良い機会になりますやろ」
そう言って、母親から一冊の銀行の通帳を手渡された。
通帳に目を通し、素っ頓狂な声を上げる。
「って、なんやねん、この金額は!?」
恐ろし過ぎる金額が振り込まれている。
「大事に使いや。それ、小遣いとちゃうねんから。高校卒業までの生活費や」
「はい?」
「高校卒業までの四年半、これで生活しいよ。部屋代はこっちで払ろうてやるけど、他の部費とか生活費はそれから払うんやで。これ無くなっても追加は無いさかい、真面目に勉強とテニスに励み。途中で特待生の資格が無くなっても、高校卒業するまでは絶対に家の敷居跨がせへんよ」
「言うとること無茶苦茶やん」
「無茶なことあらへん。真面目にやれば、問題無いことや。向こう行って、頑張ってきいや」
なんつう、親だ。
放任かと思えば、スパルタだったらしい。
テニスに掛かる毎月の費用も入れてくれているのだろう、約四年と半年分の生活費という子供が持つにはとてつもない金額が振り込まれた通帳を手に、ごくりと喉を鳴らす。
生活にまで気を配らないといけないのか。
テニスでどこまで行けるのか判らないが、今までにない努力をしなくてはいけないことは良く理解できた。
「さすがに、監督自らスカウトしてきただけあって、上手いな」
フェンスに寄りかかって練習風景を眺めていた部長が、ぽつりと呟いた。
「そうですね。でも…」
隣に立つ部長の言葉に返事をしながら、跡部は眉間に皺を寄せる。
「でも?」
「いえ。何でもないです…」
「…っはは。跡部はもう見抜いちゃったか」
「え?」
「精神面にバラツキが有りすぎるって、言いたかったんだろ?」
「…ええ、まあ」
「監督もそこを一番気にしていたよ。そこをクリア出来れば、かなり良いプレーヤーになるんだろうけどなぁ」
やれやれと、肩を竦めて部長はフェンスから身を起こした。
「さて。せっかくだし、忍足の真の実力を拝見させてもらおうかな。跡部、忍足と試合してみな」
そんな面倒くさいことは自分でやってくれ、と言おうかと思ったが、止めた。
跡部も少々気になっていることがあるのだ。それを確かめさせて貰おう。
監督からも忍足のことを頼まれている。
半端な時期に編入してきた上に、いきなりレギュラーと同等の扱い。
いくら育ちの良い子女が多い氷帝と言えども、何らかの妬みを買う可能性も有るわけで。しかし、そこは体育会系特有の縦割り社会を駆使して少しでも阻止しておこうと言う魂胆らしい。
少なくとも、同じテニス部員達はバックに跡部が付いていると判っている限り、姑息な手段を取ってくる事はない。
跡部は、ラケットを肩に担ぐように持ってコート脇に立つと、練習中の滝と忍足に声を掛けた。
「おい、萩之介。俺と変われ」
「ん? 試合すんの? はいはい、良いよー」
「忍足。俺と試合しようぜ」
「え? 俺とか?」
「ああ。たまにゃ良いだろう」
「そりゃ、まあ。こっちは願ってもないことやけど」
そう言って、滝に視線を向ける。 忍足の視線に気付いた滝はにっこりと笑い返した。
「僕のこと気にしてくれてんの? ふふ、ありがとう」
礼を言われても困るのだが。
「おらっ。萩之介も気にすんなっつってんだ。さっさとやるぞ」
「今のそないな意味なん?」
「そう言ってんだよ」
「さよか…」
不思議な会話をする男たちだ。
小首を傾げたい思いを押さえ込み、忍足はネットを挟んで立つ跡部を見遣った。
「サーブはどないする?」
「お前にやるぜ」
「…なんや、舐められとんかいな」
「新入りには優しくしてやれって言われてんだよ」
「監督にか? まあええ。そんなら、遠慮無くサーブもらっとくわ」
そう言って、サーブ位置に付く。
「来な」
挑発するように人の悪いを笑みを浮かべた跡部は、軽く指先を曲げる仕草をした。いわゆる欧米式の「カモン」の動作である。
「なんや、めっさ腹立つやっちゃな」
言い捨て、忍足はいきなりキックサーブを打ち込んでやった。
反応の早い跡部は、すぐに追い付きあっさりと打ち返してくる。しかし、外側に追いやり反対側にオープンコートを作らせる為にキックサーブを放ったようなものなのだ。返ってきたボールを、迷うことなくがら空きとなった右半面に叩き込む。
恐るべき瞬発力でもって跡部はそのボールすらも拾った。
ポーンと軽妙な音を立てて、忍足の背後にボールが落ちる。
振り返って、転がるボールを眺めた。
周りで跡部を讃える歓声が上がっている。
「なんやねん、あいつは。あれを拾うか…」
自分でも気付かない内に、口元に笑みが浮んでいた。
「ほんま、おもろいわ」
表情を引き締め、サーブ位置まで下がる。
口元には笑みを浮かべたまま、しかし、その眼差しは始めの時とは比べものにならない程の鋭い光があった。
「ほな、行くで」
二度目のサーブ。今度はフラットサーブで打ち込む。 軽く打ち返された。
打っても打っても、全て返されているような錯覚を覚える。
お互いにゲームを取り合う形で接戦が続く。
左右に振り回すように打っていたつもりが、いつの間にか自分が走らされていた。
「おもろいけど、むかつくわ」
そう呟きながら、コーナーぎりぎりに打ち返した。
追い付いた跡部がそれすらも拾ってくれる。跡部の打ち返したボールもコーナーに打ち込まれた。
一瞬、追おうとしたが、忍足はその場に足を留める。
トンっとボールが跳ね上がり、ネットの外へと転がって行った。
「いやぁ、驚いたわ。すごいなぁ跡部は」
笑顔でそう讃えてやる。
跡部は不愉快そうな顔をして忍足を睨んでいた。
「なんや? 何、怒ってんねん?」
「てめぇ、拾える球をわざと見過ごしやがったな」
「無茶言うなや。あんなん取れへんわ」
忍足がそう言っても、納得してくれないらしい。
不機嫌面のまま跡部はサーブ位置まで戻る。忍足を睨むように見据えながら、渾身の力を込めてサーブを打ち込んだ。
バウンド後、鋭い角度で左側に跳ね上がったそれは、一瞬、忍足の顔を狙って跳ね上がったように感じられた。
「……っ」
ボールはラケットに当たるも、相手コートには届かずアウトになる。
「なんやねん。あいつもキックが打てるなんて聞いてないで」
これで、四対四。同点だ。
現在の氷帝学園中等部において、跡部から三ゲーム以上取れる選手は皆無と言って良かった。
それが、同点だ。
しかも、先に四ゲームを取っていたのは、忍足の方である。
跡部は、腹立たしい気分になり、軽く舌打した。
「集中力が持続しねぇ奴だな。一瞬で冷めやがって」
ポンポンとラケットのフレームでボールを打ち上げながら、相手コートを睨む。
彼の気分のムラが激しいプレイスタイルは、闘争心が無さ過ぎる事が原因なのか。
忍足が編入してくる二日前に、跡部は部長と共に彼のデータを見ている。
そこに記されていた彼のテニス歴は、僅か一年。彼がテニスを始めたのは、中学に入ってからだ。
テニスを始めて一年の人間が、五歳の時からラケットを持っていた跡部とほぼ対等な打ち合いをしている現実。
こういうのを、天才と呼ぶのか。
跡部は自分のことを天才だと思ったことはなかった。むしろ、努力家だと思っていた。
周りがどれだけ跡部のことを天才だと褒め称えようと、跡部は実に冷静に物事を見つめている。
「才能はあるが欠陥も多い、か」
このまま試合を続けて、完膚無きままに叩きのめしてやろうかとも思ったが、気が削がれた。
やる気を失った者を相手にしても、面白くもない。
いきなり、ボールを外野の人間目掛けて放り投げる。
「ここまでだ」
一方的に言い放つと、さっさとコートから退出した。
「あ? なんや?」
勝手に試合を放棄されてしまった忍足が困惑した声を上げるが、誰も跡部を咎めることは出来なかった。
「なあ、岳人。俺、何かしたんやろか?」
「何の話だよ?」
「昨日の部活やねん。俺、跡部と試合してたやんか。それがいきなり放棄されてもうたんやけど」
「そういや、そんな事あったな」
「なんで、跡部怒ってもうたんやろか?」
「ただの気まぐれじゃねぇ?」
「気まぐれで怒るんか?」
「あいつ、けっこう気まぐれ多いぜ」
「気まぐれなんかな…」
あれっきり、廊下で擦れ違っても話し掛けることすら出来ない状態が続いているのだが。
跡部と特別親しいお付き合いがしたかった訳でもないので、口を利いてもらえなくても問題は無いのだが、昨日の今日だけに気になって仕方がなかった。
それに、跡部という少年は、気まぐれで人を嫌うような真似をするタイプにも見えなかったのだ。
やはり、自分が何かやらかしたのだろうか。
「あいつが訳分かんないのは、今に始まったことじゃねぇよ。気にするだけ無駄だって」
お昼を食べながら思考は余所へ飛ばしてしまっている忍足に、向日はそう声を掛けてやった。
部活では話し掛ければ返事をしてくれるのだが、やはり、部活以外では徹底的に避けられる日々が続く。
「なんやねん。俺が何したっちゅうねん」
あまりに子供じみた対応に腹が立ってきた。いや、部活では返事をしてくれるだけマシなのだろうか。
とにかく、腹が立って仕方がない。
今日こそ、捕まえて理由を聞き出してやる。
向日と昼食を食べた後、忍足は校舎内を駆け回って跡部の姿を探した。
しかし、どこにも見当たらなかった。
「なんで、こういう時に限ってどこにもおらんねん!」
「跡部、部室じゃねぇの?」
気の毒に思えてきたのか、向日がそう助言をしてくれる。
次期部長であることが間違い無い跡部は、最近は頻繁に部室でミーティングを行っていることが多いのだ。
「それや!」
ありがとさん、と言って廊下を走り去る忍足を眺めつつ、向日は溜息を零した。
二年の新学期が始まって少ししてから編入してきた忍足とは、それほど付き合いが長い訳ではない。
たまたま向日のクラスに編入して、同じテニス部と分かって、それで何となく一緒に行動するようになった。きっかけはそんなものだった。
向日は、編入早々レギュラー入りという超エリート扱いの忍足が羨ましくも思えたが、それでも、あの誰とでも気兼ねなく話せる気さくな性格が結構好きだった。
跡部のように偉そうな態度を取ることもなく、誰とでも平等な態度で接してくれるので、クラスでもすでに人気者だ。
しかし、気に入った友人となってしまったから、逆に気付いてしまうこともあった。
親しい友人になりたくても、向日には無理かもしれない。
淋しいと思ったが、向日にどうこう出来るとも思えなかった。
きっと、本人は分かっていない。
誰とでも差し障りなく付き合える性格。
一見、人当たりが良く穏やかな性格と見られがちだが、実際には誰とも深い付き合いなど決してしない冷めた性格。
こちらが、どんなに親しく付き合っているつもりでも、忍足は絶対に自分のテリトリーには踏み込ませてはくれない。
誰も当てにはしないし、信じることもない。
彼の態度は、決して誰にも心を許すことは無いと、そう言っているかのようだった。
「判ってんのかよ」
その忍足が、一人の人間に執着を見せている。きっと、珍しいことなのだろう。
そうさせたのは、向日ではなく跡部だった。
「これって、焼き餅かなぁ」
「何が?」
廊下でぶつぶつ言っていたら、滝が隣にやって来た。
「侑士のこと。跡部のことばっか気にしてさ」
「淋しいんだ?」
「当然! 一緒にいる時間は俺の方が長いのにさ」
恥ずかし気も無く言い切る向日の言葉に滝は遠慮無く笑った。
「何だよー」
「岳人は可愛いねー」
「可愛いとか言うな」
拗ねてしまった向日に滝は「大丈夫だよ」と呟いた。根拠の無い発言に向日は怒ることもなく、ただ押し黙る。
跡部は、忍足に何を言うだろうか。
忍足の関心を引いてくれるなら、焼き餅も我慢する。だから、彼からテニスを奪わないで欲しい。
このままの状態が続けば、彼はテニスをも捨ててしまうのではないのか、そんなことを時折考えてしまうのだ。
繋ぎ止める術を自分は知らない。
俯き、唇を噛んで悔しさに耐えた。
テニスだけではなく、他のことでさえ跡部には敵わないということを、今更のように思い知らされる。
それでも、一緒にテニスを続けたい。
彼の本質に気付いたからと言って、今更嫌いになれる訳もない。
――焼き餅も我慢するから、どうか彼にテニスを続けさせてください。
脳裏を掠める思いは、祈りにも似ていた。
部室の前に辿り着いた忍足は、中にいるのが跡部だけなのを確認すると力任せにドアを開け放った。
「跡部。聞きたいことがあんねんけど」
「何だ?」
机の上で資料を眺めていた跡部は、顔を上げることなく返事をする。
ずかずかと中へ入り机の上に手を付くと、顔を上げようとしない跡部の姿を見下ろした。
「用件だけ言うわ。ここんとずっと俺を避ける理由はなんやねん?」
「避けているつもりは無いが?」
「避けとるやないかい」
「お前がそう感じるなら、そうなのかもな」
「理由はなんや? この際はっきりさせてもらおうやないか」
「知るか」
「何が気に食わんちゅうねん?」
「アーン?」
「お前のそういう態度、めっちゃ腹立つねんな」
ここで、ようやく跡部は顔を上げる。かなり不機嫌な表情がそこにはあった。
射抜くような鋭い眼差しを向けられた忍足は、意味もなく逃げ出したい衝動を覚えたが、それでも、何とかその場に踏み止まった。
「お前見てると、むかつくんだよ」
一呼吸置いてから、跡部の低い声が聞こえた。
「何がやねん?」
かなり不躾なことを言ってくれる跡部を呆れたように見詰める。
「テニスを舐めてる奴は嫌いでね。それだけだ」
だから、声を掛ける価値も無かったと言いたいのか?
忍足は次に言うべき言葉が見つからなかった。ただ、黙って跡部を見詰めるだけだった。
「……」
俺のどこがテニスを舐めているのか、そう言い返したかったのだが、言葉として出てこない。
きっと見抜かれているのだ。
試合中に気持ちが冷めてしまい、集中できなくなることが多々あることを。
器用だから、気持ちが乗らなくてもある程度まで勝ち上がることも出来た。
だから、校内試合は適当にこなすこともあった。
跡部は、それが気に食わないのだと言っているのかも知れない。
「…俺かて、わざとやっとるわけとちゃうで」
「わざとやってたら、とっくの昔にコートから追い出してる」
「どないしたらええか、俺にも判らんちゅうねん。判っとれば、こないな苦労せぇへんわ」
思わず口を割る泣き言に近い言葉。 なぜ、それを言う相手が跡部なのだろうか。
「なんやねん。岳人なら優しく慰めてくれそうなのに、なんでこいつに言わなあかんねん」
苛立ち任せに呟く。
跡部の試合を見た日から感じていた焦躁感。
メンタルコントロールまで自在に操る天才肌のプレーヤー。
全てが、自分とは正反対だと思った。
憧れと同時に、戦いを挑みたいという野心が芽生えたあの瞬間。
氷帝行きを承諾したのは、跡部がいたからに他ならない。
それが、結局、メンタル面の問題で自滅寸前だ。
跡部に戦いを挑むどころの話しではないのだ。
――俺は、テニスを続けていけるんやろか。
そんな不安が脳裏をよぎった。
2005.3.11
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